みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

あなたは一番早く白球を見ましたか?ーー相米慎二『台風クラブ』のメンバー

 

 

 

本記事は、以下の記事の続き。今回は考察編。

minnano-bento.hatenablog.com

 

ウルトラレアネタバレ注意報!

 

 

 

 

 

 

この映画を見た人にとっては言わずもがなですが、記事タイトルは作中で学級崩壊後にアキラが窓の外を見て言う名ゼリフ「多分僕が一番早く雨を見た」から借りています。このアキラの思い込みの激しさにのっかって思い込み激しめに考察していこう。先に概要を言っておきますと、「台風クラブのメンバーは誰なのか?入会の条件は何か?」っていうはなしをします。

 

さて、前回の記事では『台風クラブ』の製作や、それを鑑賞・考察する側が作品に見出す映画の熱気、祝祭的ムードに疑問を呈しつつ、それでもこの映画がフィクションとしてそのような暑苦しさとはどこか無縁な演出がほどこされているのでは、と期待したのでした。本記事では具体的なシーンを取り上げてその可能性を検討します。

 

暑苦しさから離れたいので、まず人間から離れたい。台風が来るとか来ないとか騒いでたり、人生の意味について、大人になるってなんだろう、生きてるって何だろ生きてるって何?って悩んでいる人間た

白い球体3つ!

 

1. 野球ボール⚾️

 

三上くん、いつまで野球部のつもりなのよ、と言いたくなる。けど作中人物は誰も言わないであげている。三上、友達の家に行くだけなのに、背番号1のユニフォームを着てランニングしながら外に出かけるんだよ、退職後もスーツを着る癖が抜けないサラリーマンみたいじゃない。三上は先生に「あんたのようにならない!クソが!」と宣言をすると、先生は「お前もあと何年かすればな. . . 」とやり返す。けど三上はもう先生を追い越している。部活動を引退後も引きずることで、ある意味、退職後の大人たち(先生)をすでに追い越してる(正しくは事前に反復している)。

 

だが、野球ボールはストリップショーや先生対生徒の熱気と無関係な振る舞いをする。当たり前だ。だってボールはボールだ。三上はバスケットボードにボールをぶつけキャッチすることを繰り返しながら「なる、ならない、なる・・・」という花占いをしている。だが、まさに三上は人間社会に溶け込む瞬間にボールをキャッチすることをやめ、画面左から階段をのぼる。このとき野球ボールは画面の右側へバウンドして消えていく。

 

ステージに向かう三上(画面左)バウンドして消えていくボール(画面右)

もしも「台風クラブ」がステージの上ではないところにあるとしたら? 画面右に消えていったボールを追いかけてみても良いかもしれない。結局このストリップショーをまぬがれたアキラ(理恵はギリギリステージに立っている、段ボール人形?みたいな)のような画面の外に私が友達になりたい人がいるのかもしれない。

 

 

2. ピンポン玉🏓

三上が飛び降りるシーン。実はこのときポケットからピンポン玉が今にも落っこちそうになっている。

 

この絶妙なポジションにボールをセッティングすることにどれほど時間がかかったことか!また俳優本人がこの演出意図をおそらくは説明されずに無理やり実行を迫られたことを不憫に思ったりもする。ボールが落ちないように右半身を固定している。

 

それはともかく、このきわどい球は何のためか。三上の言っていることと何か関係があるはずだ(あるいは関係がないということを伝えるための関係づけがあるはずだ)。

 

 

恭一「みんな、これからいいものを見せてやるから、起き上がってよく見てくれ」

全員、立ち上がる。

恭一「(窓枠に手をかける)おれ、わかったんだ。なぜ、理恵がへんになったのか。なぜ、みんながこうなってしまったか。おれは、わかった。つまり、死は生に先行するんだ」

健 「え? 何だ?」

美智子「どうしたのよ、一体」

恭一「よく聞いてくれ。死ぬ事は、生きる事の前提なんだ。おれ達には、厳粛に生きるための、厳粛な死が与えられていない。だから、おれはみんなに死んでみせてやる。」*1

 

 

これはただの映画なので、さあ行ってこい!三上!やってみろ!はやく飛び降りろ!という気持ちで見守っているわけですが、

 

「みろ、これが死だ」

 

と言ってその主役が飛び降りようとするその瞬間、ピンポン玉がポケットから落ちるのである。

 

ピンポン玉の落下は三上の落下に先行する。

 

実は、この前のシーンで、三上は口の中にピンポン玉を入れて出し入れしている。すると、パポッと口から玉が落下する。この落下で何かを思いついたように、三上は自分の飛び降り台をおごそかに建築し始めるのだ。教室の椅子や机やら教壇で。

 

ここでもやはり、先ほどと同じように球の落下が三上に先行している。

 

 

生か死のどちらが先かというような人間ならではの問いとは一切関係のない人間が先か球が先かという映画独自のゲーム。この無関係のゲームは雨が降ることや台風がやってくることと同じで、人間とは何の関係もない。これだけ熱気を感じる映画だからこそ、こうした無機的な運動が相対的に冷却効果を生み心地よいのである。

 

 

3. 白い頭

日本語の頭(atama)のなかに玉(tama)が入っているのは単なるまぐれだろうが、2つの形状はよく似ている。

 

三上が投げたり口に含んだりしていたボールのように画面を行ったり来たりする白い頭がある。そう、あのシーンだ。

 

「オカリナは朝吹くものなんです」

「オカリナは」あ〜?!(どうか怒らないでこの映画とこの記事をここまで見た自分を褒めて)。この意味不明さはラストシーンで理恵が言う「まるで金閣寺みたい」に横付けできる。

 

 

多分、一緒に踊らない方がいいんだろう。放課後のプールでも、誰もいない体育館でも。陰キャと言われようと厨二と言われようと(けどアキラは別に暗くなくコミカルなのが良い)。踊る輪の外にいることで、雨の降り始めの決定的瞬間を見逃さずにいられる。

 

この種の渦中を逃れる目線が次に向かう先は、ストリップショーがおこなわれているステージに向かう三上の右側に消えていった野球ボールであり、三上の落下に先行したピンポン玉であり、「オカリナは朝に吹くものなんです」という自分の知らない秘密の慣用句のようなことをいう白い頭の女なんだ、というアキラ的妄想。

 

(ちなみにここまで視覚的な話ばかりしたが、先生の家でまだ生まれてない赤ん坊の声が聞こえると言う異常な先行性も、この文脈に乗せて良いのだと思う。結構意味不明な演出で工夫している。とてもわかりづらいのでうまくいっているのかは知らないけど。)

 

ちなみに、今回取り上げた三つの白い球は脚本に一才指示が書かれていない。だから相米が何らかの理由で演出をつけたことはほぼ確実だと思う。その何らかの理由がここまで考察してきたことの内容を含むかはわからない。けど問題のある暴力シーンを多く含み、昭和の古い価値観がムンムンのこの映画は、その自身の暴力性や暑苦しさから距離を置くための方法をそれ自身の中に残しているのだと考えたい。じゃなきゃここまで記事書けねえ。

*1:『日本映画シナリオ選集 ' 85』「台風クラブ」加藤祐司、107-8

クジラと時間とクィア

クジラと時間とクィア...

 

メルヴィルヘミングウェイの話ですか?

いいえ、今日読んだ最高の漫画の話です。

 

 

 

マユリの記事とかホローナイトの記事とか大蛇丸の記事とか相米映画の記事とかでクィア・テンポラリティを我々はよく話題にしている。

 

この漫画についての記事も書かずにはいられない。

 

この漫画は、「伝説のクジラ」というお題で描かれた4ページ漫画である。

 

船を造り、鯨を追うことに生涯の時間をかけた男女が、女性のいまわの際に人生を振り返る。



 

ここにあるのは、再生産至上主義と、直線時間指向への懐疑である。

 

「何も見つけられず」「何も残さず」という事態が、他者と対比したとき、人生の「意味の無さ」を思わせてしまう。

 

「普通」の人々が「安定した暮らし」に「落ち着く」ことを求める直線時間と、二人の(何も生/産まないかに見える)「何度も」繰り返す航海が対比される。

 

直線時間と螺旋時間の鮮やかな対比だ。

 

そしてまさに再生産されず「死」へ向かい、それは鯨との邂逅により祝福されるかのようである。(リー・エーデルマンのクィア・ネガティヴィティって翻訳出るまではこの漫画のこんな感覚っていう理解でいいのでは。。。)

 

それにしても、なんで「クジラ」と「航海」のモチーフはクィア表象の原動力になるんでしょうか。この漫画から『白鯨』と『老人と海』を想像する読者は多いはずなんだけど、そのモチーフの普遍性って本当に不思議だ。

 

エイハブやサンチャゴの執念は「狂気」という形で差し出されてしまうけれど、こうやって、私たちが「どこか知ってる」感情で描かれていると、作品と親密になった気がするものである。

特殊ランニング映画『アワ・ボディ / Our Body』(ハン・ガラム、2018)考察

ネタバレ映画考察。

 

 

映画の予告編↓

www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

今日も外を走る人がいる。夜中に早朝に真っ昼間に。軽快なテンポで小気味よく腕を振って息を荒げて。目の前を通り過ぎるそれらの人たちの背中(back)は次第に見えなくなり、意識からも消えていく。走って追いかけでもしない限りもう二度と会うことも思い出すこともない。別の日。今度は別のランナーが視界に入ってきてそしてまた消えていく。このように走る習慣のない人にとって、街中を走るランナーは身近になった瞬間にすでに遠ざかっていく存在であり、しかも、この一連の過程が反復される、再び戻ってくる(back)という不思議な何かでありつづける。

 

『アワ・ボディ』(原題:아워 바디、ハン・ガラム監督、2018年、JAIHOで配信中)は、そうした反復の通過を阻止するチャヨンの物語だ。名門大学を出たあと国家試験を7、8年受け続けた彼女は「もうこれ以上何も頭に入ってこない」と受験を断念する。そんな頃、彼女は通りを颯爽と走る女性ランナー、ヒョンジュを見かける。本能的に彼女の背中を追いかけ、彼女たちは次第に親密になっていく。ここまではポスターや予告編が期待させるランニングで心身ともに快活になっていく女性の物語をなぞっている。だがそれは映画の半分でしかない。映画は後半にさしかかるにつれ観客の期待に内在するランニングはさわやかで健康的という前提を破壊し、ランニング(走る身体)を再構築しながら、この意味で特殊な爽快さへと突き抜けていく。

 

たしかに、はじめのうち映画が憧れの人の「背中」を追いかける、というような成長物語を爽やかに描いているかのように見える。そんな師弟のような二人の関係が見えるのがよく晴れた早朝ランのシーン。

 

左:チャヨン(初心者ランナー) 右:ヒョンジュ(ランナー歴7〜8年)

 

「疲れたら私について走って 私の力を吸い取る気でね かなり楽になる」

 

「have someone’s back」には「信頼する」の意もある。朝日を浴びながらのランニングは一日のパフォーマンスを大幅に上昇させます。仲間と走ればモチベーションを維持しやすくルーティンをつくりやすいでしょう。....こんなライフハック系のブログで見かけるようなことがたしかに実践されている。

 

だが、素朴なあこがれはすぐに打ち砕かれる。監督がインタビューで「走ることが主題なので、みなさん明るい映画だと勘違いされるのですが、若い人たちがスポーツや体づくりに励むのには複雑な理由があるということを、描きたかった」と言っている通り、事実、この映画はこれからどんどん複雑さへ向かっていく。*1

 

ちょうど映画の折り返し地点で、ヒョンジュは車に突っ込んで死ぬ。事故は早朝ランからしばらく経ったあるナイトランで起きる。スタート前、ヒョンジュは靴紐を結びながらあの朝とまったく逆のことをチャヨンに言う。

 

「後ろを走っていい? 疲れたらあなたの力を吸い取る」

 

少しずつトレーニングの成果が出てきたチャヨンはうれしそうにそれを受け入れる。ところがえ?となるのは、いざ走り出したヒョンジュがこれまでと変わらずチャヨンの前を疾走しているからだ。しかもいっこうにスピードを緩める気配がない。チャヨンは「待って」と声をかけ、「どこまで走る気なの?」と聞く。この問いにヒョンジュは一度立ち止まって振り返る。だが何も言わずに向き直ってそのまま車道へ走り出し車に激突して即死する。

 

かなり意味不明なシークエンスだ。だが結果の方は明白で、彼女の遺言はたしかな効力をもってチャヨンに影響を及ぼす。チャヨンの目から生気が消え失せるのだ。もちろん大事な友達が死んだのだから当然なのだが、落ち込むとか悲しむとかそういう感じではない。彼女の最後の言葉を引きずり、まるで力が吸い取られているかのようにも見える。

 

ここからが面白い。なぜなら、ヒョンジュの言葉がもう一度反転して元に戻るからだ(GO BACK)。チャヨンは力を取り戻すために死んだヒョンジュを追いかけ始めるのだ。それが力を吸い取って楽になる方法だと教わったから。しかも、その追跡は死者相手だからといって決してスピリチュアルなものに移行するのではなく、また単純に後を追って自殺するのでもなく、これまでと同じランニングのようにどこまでもフィジカルなものでありつづける。チャヨンはヒョンジュの住んでいたタワーマンションに行き、彼女の遺品にふれる。彼女の書いた小説を読み、彼女の作ったお酒を飲み、彼女の背中がむき出しになったモノクロ写真を床に置いて一緒に寝る。

 

このようなフィジカルな追跡は機械の技術に頼ることでより洗練されていく。彼女はスマホのランニングアプリで、ヒョンジュのアカウント(死んでもSNSアカウントは残る)を開き、記録された走行経路、走行距離、時間を完全に模倣しはじめる。もうここには「背中を追う」ことが「have someone’s back / 信頼する」とか憧れの人を目指すというようなあたたかな人間くささはない。

 

数値で測定可能なレベルでの機械的な追跡は、結果的にチャヨンの肉体を限りなくヒョンジュが死ぬ直前の身体状態に近づける。チャヨンはそのことを自分の背中を鏡でみてたしかめる。彼女はあの美しい背中の写真を思い出し、自分の背中とその背中までの距離を確認する。つまり、ここでは単に走って背中を追いかけるのではなく、器官としての背中に肉体的に追いつくという異常な追いかけっこが起きている。比喩的な意味での到達ではなくシンプルにフィジカルな一致が目指されている。

 

その背中同士の距離が消えたとき「他人の背中を追う」という慣用表現は物理的に突破され「他人の背中になる」というそれ以上近づけないほど直接的な表現へと化ける。これは裏を返して自分の背中でもある。だからこのときチャヨンはヒョンジュに追いつくだけでなく同時に追いつかれてもいる。ぴたりと同一方向への背中合わせという異常な追いかけ方が互いに起きている。しかもヒョンジュはすでに死んでいる。これがこの映画の描くわたしたちの身体「アワ・ボディ」の特異性だ。ちょうどすでに背中合わせのKappaのロゴを半分に折りたたんでもう一度重ねるような合わせ方だ。

 

kappa ロゴの画像23点|完全無料画像検索のプリ画像💓byGMO

 

このような身体の同一化(Our BodiesではなくOur Body)が極めてとくべつであることを思えば、あの謎めいたシークエンスも矛盾なく理解できそうだ。ヒョンジュが「後ろを走っていい? 疲れたらあなたの力を吸い取る」といいつつもその言葉を裏切ってチャヨンの前を走っていたのは、異様な接地を達成するための予備動作だったのだろう。ヒョンジュは自分の発言を即座にひっくり返すことで前後の差の消失させているから。*2

 

チャヨンが「わたしたちの身体」へと変化することで「わたしの身体」を手放したと言い換えられるなら、同じような変化がヒョンジュにも起きていると考えてもよいだろう。この意味でヒョンジュの死亡時刻はずれ込んでいく。彼女は車の事故で死んだのではなく、チャヨンに追い着く/追いつかれることで正確に死んでいると考えられるかもしれない。「一緒に走ろ」というときの一緒感がぶっ飛んでいる。歩幅を合わせるとかそんなレベルじゃない。

 

真にヒョンジュと「一緒に」走れる身体へと変化したチャヨンの身体は、さらにヒョンジュが生前に抱いていた肉体的な願望を達成し始める。チャヨンはヒョンジュがランニング後の飲み会で「年上の男とセックスしたい、若い男は自分の鍛えあげた体をさわらせたがるから」と言っていたことを覚えており、実行する。いま「チャヨンは. . . 覚えており」と書いたけど本当は前後の区別をつけられるのかはもはや微妙だ。したがって、チャヨンが高級ホテルの最上階で自分の身体を愛撫するラストシーンも単なるマスターベーションではないのだろう。前述のインタビューでチャヨンを演じた俳優チェ・ヒソはこのシーンを「誰の目線もなく、誰も私のことを気にしない。この部屋の中に私1人、私の存在だけ」であることが重要と性的解放を強調しているが、映画のタイトルに戻ればチャヨンが本当に部屋の中に一人だったとは思えない。

 

しかし、この映画は注意深く、このような異次元のフィジカルな一致(死者との邂逅)に頭がスパークしそうな私に待ったをかけてくる。というのは、創造的な仕方で融合された身体は、たとえ二者間では複数的でありえても、その身体の外にいる第三者の目からはどう考えても一人にしかみえないからだ。そのため、チャヨン/ヒョンジュは、再び背中を追いかけられる存在として、つまりかつてのヒョンジュ的な存在に、少なくとも外的には再び解体されてしまう。そのことはチャヨンの歳の離れた妹によって実践される。中学生の妹は、かつてのチャヨンがそうであったように、ランニングで美しい身体に変わった姉にあこがれを抱き走り始める。

 

このように「AとBの関係はCとDの関係と同じです」という構造主義的なロジックでアワ・ボディが分裂してしまう。たしかにチャヨンは追い着き追い越せの単純なレースとは異なる走り方を発見した。それは徹底的にフィジカルな追跡によって成し遂げられた。しかしながら結局、このようなシンクロはたとえその内部に複数性を孕んでいても自己完結的で一元的な身体となる。

 

以前私が書いた『わたしたち』(原題:우리들ユン・ガウン、2015)の考察では二人の親友の親指の一致(ゆびきりげんまん)とその約束の行き先である海の水平線を一致の終着点ととらえることができた。ここにはもちろん親指の異常な融解はないし、水平線も身体の外部にあるものであり、差異を含んだ同一化が達成された。だから感動したまま映画を見て安心した気持ちでいられる。しかし、『アワ・ボディ』は不安で満ちている。複数所有格を持ちながらの単一化という言語表現(概念)としては達成されても、客観的リアルでの事実上は、つがいの片方の死が必要条件になっているからだ。この先があるのか、あるはずだと思うので知りたい。もっと不安になるような奥があるかもしれない。韓国人の女性監督(括るべきではないがなぜか多い気がする)が描くわたしたちの身体に今後も注目する。

  

 

台湾ホラー『呪詛』 究極の逆転 あれは本当に大黒仏母の呪いなのか?

 

大ネタバレ注意仏母!!!

 

 

 

 

 

台湾ホラーの『呪詛』、怖くも面白い仕掛けの映画で、細かい説明はいろんなブログやツイート参照。簡単に要約すると、母親が子供を救うために視聴者に呪いをかける(そのため全部記録してる)、というドス黒い映画だった。

 

一方、呪いの正体もまた「大黒仏」で、「母親」だ。呪いも母、呪いに争って視聴者を呪うのも母。根底には幽霊ではなく、母(親)が子にとっていかに呪霊的か、親が子にむける言葉が時としていかに呪詛的か、という現実に根ざしたおぞましさがある、、、、と、あとちょっとで思いかけた。

 

しかし、ある場面がひっかかるのである。

そもそもなぜ呪われたかというと、言っちゃダメ系地下道に行ったせいなのだが、そこに行く直前、やはりなんか怖い感じでやめようという向きになる。だが、地下道の向こうからある音がするのだ。

 

 

それは子供の声だ。ここで、地下道へ向かう必然性が生まれる。もしかしたら向こう側に子供がいるかもしれない。であれば、助けなきゃ。しかし、向こう側にいるのは大黒仏母であって子供ではない。子供の声をたどって辿り着くのは、子とは真逆の母(親)である。

 

しかし、ではなぜ「子供の泣き声」だったのだろう。呪いの正体は母であるのに、どうして地下道からした声の主は子供だったのだろう?ここに無視し難い捩れがある。子供かと思ったら母親だった。いや、むしろ、この声をそのまま受け取ってみてはどうだろうか?つまり、やはり奥にいたのは子供だった。呪いの正体は、大黒仏母ではなく、子供だったのだと。

 

映画の巧妙な出だしは、この仮定を裏切らない。

そこではあるイメージが提示されていた。

 

映画はまず初めに観覧車の絵を見せる。それから、「右回り」と「左回り」の両方を思い浮かべるよう我々に求める。そして、そのどちらのイメージも成功することを確認すると、「私たちの意思が世界を作っている。それが”祈り”の原理だ」と告げる。

 

”祈り”は映画内では”呪い”へと反転される。その呪いは、我々視聴者へと向けられている。そうした映画の特質から行って、このメッセージは極めて巧妙な「暗示」である。しかし、ここにはもう一つのイメージがある。それは逆回転だ。おそらく、この「観覧車が回っていることをイメージして」と言われれば、我々の誰もが右回転で回すはずだ。それはおそらく、時計の回転のイメージにひきづられてのことである。故に、それがイメージによって逆回転も可能というのは、時間軸という究極のルールへの抵抗を意味してもいるのだ。

 

 

もう一つ提示されるイメージも、同様の見方ができるだろう。

 

電車が進んでいるのか、それとも戻っているのか。これは電車の進行方向のイメージであるようでいて、実際は時間の進行方向のイメージに対する撹乱だ。電車は進んでいるのか、それとも戻っているのか。時間は進んでいるのか、それとも戻っているのか。時計は右回りなのか、それとも左回りなのか

 

時間の逆転。

 

それは究極の逆転だ。この隠されたイメージを親と子に当てはめればどうなるか。我々は『呪詛』を、親の呪いのイメージで見ていた。大黒仏母も、子を供物に求めている。主人公である母親も、子供を守るため視聴者に呪いをかけている。だから、ここにあるのは「母の呪い」なのだと、自然に思おうとしてしまう。

 

しかし、地下道で彼らを誘ったのは「子供の声」だった。「子供の声」こそが、踏みとどまりかけた彼らを地下道に誘ったのだ。であれば、我々はこの声をストレートに受け取りつつ、映画のイメージを、その初めの「暗示」通りに、逆転して考えてみるべきではないのだろうか?つまり、これは親の呪いではなく、子の呪いの映画であると時間的に先立って存在する親の優位ではなく、時間的には遅れてやってくるはずの子供によるやり返し(時間の逆転/時計の逆回転)のなのだと

 

そう考えれば、映画で描かれる超常現象も全てが幼児的だ。冷蔵庫のミルクをこぼし、意味もなくトイレを流し、大人と手を繋ぎたがる。そして、呪われたものは「歯が痒い」と言って歯を落としてゆく(乳歯の生え変わりだ)。

 

この「逆転」は、映画の大オチであるあの「顔」のイメージにおいて問いかえしても良い。我々はそこに「穴」を見た。それは果たして、母親のもつ穴なのか、それとも子が”やってくる”穴なのか。穴は、この映画の呪いの正体が「親」ではあり得ないことを示すにうってつけな、両儀的な「道」である。

 

そして映画は最後に、ある不思議なメッセージを残す。全てが終わった後、マーベル映画でいうエンドクレジットで、子供がヘンテコな歌を歌っているのだ。

 

おうちってお城から遠いね

バスにのっていきたいけど

お城にいくバスがないの

お城が泡になって消えちゃったからね

       ドゥオドゥオ 作詞

 

これは、いわば子供が吐く「呪詛」だ。故に、それはこれまで映画が繰り返し続けたあの「呪詛」の裏側に隠れていた、逆転のメッセージである。映画が執拗に繰り返す呪詛(「ホーホーッシオンイー」)は、禍福倚伏の訛りで「名を捧げて呪いを受ける」という意味を持つ。呪いがその全貌を隠して拡散するシステム性は、巧妙に構築されいる

 

一方、ドゥオドゥオの歌には意味がなさそうだ。なにせ、これは子供の歌なのである。しかし、この無意味さこそが重要なのだ。我々が最後に聞く「呪詛」は意味と意図に満ちた大黒仏母の呪詛ではなく、この無意味な子供の歌だ。

 

しかし、子供こそがまさに穴の向こうからやってくる、異界の存在なのである。

そして我々が最後に耳にするのは、大黒仏母の意図に満ちた理解可能な「ホーホー、、」ではなく、理解さえ許さない真の呪文なのである。

 

追記

偉そうなこと(「理解さえ許さない真の呪文なのである!)を言った後で申し訳ないけど、ドゥオドゥオの歌には理解可能な意味がありそうだ。原語の文法で順序がどうなっているかわからないが、少なくとも日本語ではある特徴がある。

 

彼女はまず初めに、

 

「おうちってお城から遠いね」

 

と歌っている。そういうからには、位置関係的に、彼女はお城にいるはずだ。家にいるなら、「お城っておうちから、、」となるはずなのだから。

 

しかし、第3節では

 

「お城にいくバスがないの」

 

と言っている。今度はお家からお城へ行こうとしていて、彼女の位置は「おうち」に変わっているわけだ。ドゥオドゥオは第1節から第3節の間に、一瞬にして「おうち」に飛んだのか?(笑)もちろんそれは不可能だ。彼女自身、「バスがない」と言っているのだから。

 

であれば、ここで可能な想定は1つだ。彼女は「移動」したのではない。第2節と第3節の間で、ドゥオドゥオの位置関係は逆転(逆転は「移動」ではない、「交換」だ)したのである。

 

なぜ我々は結局「亀山くん」が好きなのか?


みなさん、歴代「相棒」は誰が一番好きですか?

・・・この質問を筆者(ぴんくぱんだちゃん)は幾度となく飲み会やデートの度に問うてきた。

そして落胆するのである。なぜなら、9割の人がこう答えるのだから。

「えー…そんなにちゃんと見てないけど〜やっぱり亀山くんじゃない?」

そんなにみんな亀山くん好き?!?!?!えっ?!だいたいのシーズンをぼちぼち見たことがあっても亀山くんが好き?!?!?!「やっぱり」って何?!?!


ミッチー、もとい神戸尊の「相棒」最推しの私は驚くばかりだ。ちなみに、神戸尊と答えてくれたのは、筆者と同様に重度のクリスティオタクの叔母だけであった。お通夜では右京と神戸のコンビネーションの尊さについて語り合ったものだ。親族の目が冷ややかだったこともよく記憶している。

なぜ右京さんの相棒は「やっぱり亀山くん」なのか?

「初期の頃がやっぱり懐かしいから」とか「神戸・冠城が相棒になると警察内部の話が複雑になるから」とか、そんな理由が最も良く聞こえる気がする。あとは「亀山くんの時代はまだトリックとかネタ切れの感がない」とかだろうか。

・・・うーん。わからなくもなくもなくもなくもない。

しかし、初期つまり亀山が相棒の頃は確かに警察内部の複雑な設定が描かれることは少なかったから、「わかりやすさ」を評価することはできるが、一話完結ものとしての「単純」さが、シーズンを重ねる度に「冗長さ」に感じられたのも確かだろう。

『相棒』は警察内部の複雑な人事・階級や、キャラクターの掘り下げが秀逸なドラマである。したがって、神戸以降の「複雑さ」はむしろエンタテイメントとしては優れていたし、ここまで続いていたのがその証左である。


では、なぜそれでも「亀山くん」なのか?

神戸・カイト・冠城と比較して亀山くんが最も秀でているのは、右京さんとの対照性にある。

並外れた推理力をもち、冷静沈着、絶対的な倫理観を持つ右京さんは、熱血!体力!人情!の亀山くんといることで、最も対照性が際立つ。すなわち、右京さんの天才性や奇人っぽさが最も鮮やかに描かれるのである。

対して、神戸・冠城は「右京さんほどではないが」他のモブに比べたら段違いにエリートかつ頭が切れる。

この「右京さんほどではないが」というのが曲者である。結局、右京さんを出し抜くことはできなかったが、神戸・冠城は、警視庁外部の機関から出向という形で特命係に任命されており、当初はスパイ的な役割だった。つまり、右京さんには及ばずも、捜査一課の面々をはじめとした警視庁内部の人間(そして視聴者)を欺く立ち位置であった。本作の主人公である天才・右京さんと渡り合えてしまう程度には、神戸・冠城は特権的な「相棒」なのである。


理想の「相棒」のかたち
一方、右京さんに比べたら「おバカ」で「熱血」なキャラの亀山くんと右京さんの関係は、放送当初からバディものの定石として、ホームズとワトソンに例えられてきた。

確かに、読者/視聴者と同じかそれ以下の視点をもつワトソン的なキャラクター(亀山くん)は、ホームズ(右京さん)の凄さを際立たせる。ポアロヘイスティングズも全く同じ構図だ。

しかし、推理力などの能力以外に重要なのは、ホームズ/右京さんの「奇人らしさ」、今風に換言すれば、「クィアさ」である。

ホームズが事件を解決するストーリーと並行して、ワトソンはロマンスを展開し、結婚し家庭を持つ。独身男性二人の気ままな同居生活はワトソンの結婚によって終止符を打たれる(ワトソンはその後も何かと理由をつけて妻と暮らす外国からロンドンへ帰ってくるのだが…)。

つまり、ホームズ&ワトソン的バディの定義として、「家族を持たない・異性愛ロマンスに興味のない孤高の天才」と「普通の生を歩む助手的な(能力の劣る)男」という構図がある。

まさに、右京さんと亀山くんだけがこの定義に当てはまるのだ。

全くロマンスの気配を見せない右京さん(バツイチかつ元妻との固い信頼関係から、恋愛から「引退した」という方がしっくりくる)と、作中でジャーナリストの美和子と結婚した亀山くん。

神戸・冠城は、右京さんと同様、独身を謳歌するばかりか、ウーマナイザー的な性質まで帯びていた(特に冠城)。つまり、やや右京さんに似ている。伊丹たちや視聴者から見れば、十分にホームズ的なのである。

もちろん、神戸・冠城は右京と能力が拮抗するがゆえに、騙し合いのようなスリリングな掛け合いを描くことができた。しかし、「卓抜した天才・杉下右京」を望む視聴者にとって、神戸・冠城はややアンバランスにうつったのかもしれない。安心して『相棒』を見るには、天才は一人でいいのかもしれない。孤高の独身も、一人だからウーマナイザー要素や、「独身貴族」の特権性が光るのだ。

・・・『相棒』ファン永遠のトラウマ、カイトくんに触れていないではないか。触れないのはズルいから少しだけ。

筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、カイトくん(最も若い相棒)と右京さんのバディを、「右京さんが『父親』になれなかった失敗の物語」だと思っている。孤高の天才が、カイト(右京さんの盟友・甲斐峰秋の息子)を託され、「育てる」ことを試みる。しかし、右京の厳しい倫理観を受け入れられなかったカイトは、大きな罪を犯す。
この失敗の物語によって、製作側は、杉下右京を「擬似の父親」にすらなれないキャラクターとして、その孤高の天才らしさをさらに強固にすることに成功したのである。

ともあれ、『相棒』の次回作が待ち遠しい。
私は神戸推しだけどね。

NARUTOは生殖至上主義漫画か?大蛇丸から考えるNARUTO

はじめに

先日、大阪地裁が同性婚不認可を合憲とする判決を下した。しかも、異性間の婚姻関係を「男女が子を産み育てる関係を社会が保護するもの」と説明したことから、婚姻関係に織り込まれた再生産(生殖)至上主義の根深さが改めて露呈した。

 

この判決は、同性婚の是非をめぐる議論を超え、異性間の婚姻関係の定義を問うものとなった。子を持たない(持てない)夫婦はこの定義から逸脱してしまうことになる。そもそも、婚姻関係に当然のごとく再生産が期待され、それを保護するためだけの制度として国側が捉えていることに、疑問を覚える人も多かったはずである。

 

今回の裁判で、再生産至上主義イデオロギーに嫌悪感や疑問を覚えた人々は多かったようで、SNSでも多くのコメントが発信された。しかし、再生産至上主義に覚える疑問は、こうした司法のレベルで認知されるずっと前から、多くの人々の間で共有されてきたように思われる。

 

「最終回に全部のキャラをくっつけとけばいいと思うなよ?!」

NARUTOの話である。

表題の、「最終回に全部のキャラをくっつけとけばいいと思うなよ?!」という怒りは、NARUTOの最終回で随分聞こえた意見であるし(未だによく聞くよね)、フェミニストNARUTOが好きな人は少ないだろう。最終回で主人公クラスのキャラクター達(ナルト、サスケ、サクラ、ヒナタ)のみならず、ナルトの同期キャラクターがだいたい誰かしらと結婚、しかも子供まで設けた。しかも、NARUTOの場合、BORUTOという、ナルトの子供世代を主人公とした作品が現在連載されており、まさに再生産を体現する作品である。

 

NARUTOは元々、孤児であった主人公ナルトが自身のルーツの不明瞭さに悩み、両親の正体が判明した途端に大きな安心感を覚え、忍者としての力も桁違いになることからも、親子間の関係や、親の無償の愛といった主題を全面に押し出した作品であることは明らかである。ナルトの母クシナが息子の命を救ったエピソードなどは、岸本斉史自身が子を設けた時期とも重なっていることから、かなり熱の入ったものになっている。

余談だが、「孤児がルーツを探す」(BLEACHや鬼滅の場合は主人公の血統の不明瞭さの探求)というプロットはNARUTOBLEACH、少し遅れて鬼滅あたりを境に読者の共感性喚起にある程度の限界を迎えたと思う。チェーンソーマンなんかはその対極にある。「マ(キ)マ」を求めて裏切られてしまうのだから

 

そんなにNARUTOって悪くないんじゃない??

親子の絆的なものとか、「次世代に意志を繋ぐ」的な主題が作品を貫いていて、さらに主要キャラクターをほとんど男女カップルとして結婚させ、その子供たちの物語まで再生産しているのだから、NARUTOが再生産イデオロギーをまさに再生産してしまっている点は否めない。しかし、NARUTO最終回の結婚/出産エンドには描かれなかった「子供」がBORUTOには登場している。そう、大蛇丸の「子供」、ミツキである。

左がミツキ 右が大蛇丸

 

なぜカッコつきの「子供」なのかといえば、大蛇丸は異性との生殖行為によってではなく、彼の発明した技術(クローン技術とは異なり人工的なタマゴのような「胚」から子を作る)のようなものによって、ミツキを「産んだ」ためである。そう、NARUTOのキャラクター達の結婚・再生産のプロットの中で、大蛇丸の存在はなかなかに異質である。

 

大蛇丸はなぜ退場させられなかった?

ミツキの親が大蛇丸であることや、ボルト、サラダと同様第7班で活躍していることから、「BORUTOでも大蛇丸様は重要キャラなんだ!!」という喜びと感動を筆者(ぴんくぱんだちゃん)は覚えたが、そもそも大蛇丸は、NARUTOの敵キャラとしてはかなり異質であったことを思い出さねばならない。

 

大蛇丸について最も特筆すべき事実は、敵キャラにも関わらず物語から退場させられなかった点であろう。NARUTOが少年漫画史で大きな存在となっている理由の一つは、主人公が敵キャラを「赦す」点にある。ペイン編以降、「殺す」のではなく「赦す」ことによって、ナルトは敵を「倒し」てきた。つまり、赦されることで敵キャラたちはプロットから退場していたのだが、大蛇丸だけは、忍界大戦中にいつの間にか連合軍に加勢し、アニオリの「祝言日和」回では、監視付きではあるが木ノ葉隠れの里で再び生活している。つまり、ナルト達の再生産の物語の構想を恐らくはNARUTO連載時から描いていた岸本にとって、大蛇丸も同様に、子供世代の物語に「親」として登場させることは想定されていたのだろう。

 

師弟愛と親子愛――NARUTOBORUTOが描く「育てる」ことについて

NARUTOの物語の主題が「親子愛」であることは明らかなのだが、同時に、「師弟愛」も重大な主題であった、忍界大戦までは。忍界大戦前後でナルトは両親の正体を知り、禁術・穢土転生の術によって彼らと会話することまで叶ってしまう。これを機に、ナルトの師匠として仮の父親役であった自来也が回想される場面は激減する。血縁の父親が明らかになった瞬間から父親との絆のほうが、自来也との師弟関係に前景化してしまう。親子愛>師弟愛ともとれるこの「自来也退場現象」は、筆者(ぴんくぱんだちゃん)がNARUTOの中で最も問題視する点である。自来也は「父」を知らないナルトのためにアイス分け合ってくれたじゃん!!結局血縁なのかよ!!という怒りが収まらない。

またしても余談だが、このあとの銀魂で、共に孤児である月詠・銀時の地雷亜・松陽との師弟愛が同じ雑誌で描かれたのは、強烈な対比になっていると思う。

 

このように、実の親>師匠という血縁至上主義がNARUTOメインプロットから読み取れるものの、血縁の親子愛以外にも「育てる」ことへの問題提起を岸本がしようとしていたことは確かである。伝説の三忍である大蛇丸綱手自来也には、結婚も生殖もさせていない。綱手自来也の結婚エンドは、自来也の戦死によって果たされない。しかし、綱手はサクラを、自来也はナルトを、忍術の師匠として「育て」ている。問題含みではあるが、サスケの忍術の師匠の一人は確実に大蛇丸である。つまり、血縁の親と子世代の物語を描くと同時に、血縁ではない疑似親子として師弟関係を描いているのである。

自来也とナルト

いわば、独身を貫いた綱手大蛇丸は、“rich single aunt”のような、血縁の親ではないが特権的に子を「育てる」ことに携われるキャラクターとして読み解くこともできるだろう。

 

しかし、BORUTOの連載がスタートし、ミツキと大蛇丸の「親子」関係が明らかになってから、大蛇丸だけさらにクィアに特権的なキャラクターであることがわかる。多くの弟子(身寄りのない子を弟子に取ることが多かった)を魅了し、「親」のように慕われてきた大蛇丸が、本当に「親」になってしまったのだ。

 

サラダはミツキに、大蛇丸は父親なのか母親なのかと尋ねるが、ミツキの口癖「どうでもいいことだよ」であしらわれてしまう。大蛇丸が「親」となるために異性愛結合のプロセスを排したことをよく体現する一コマである。

 

さらに、ここで思い出されるのは、大蛇丸の「オネエ言葉」(と称されることが多い)についてである。アニメでしかNARUTOを追ってない視聴者には、大蛇丸ジェンダーを女性だと認識する人も多かったという。しかし、大蛇丸ジェンダーを女性と認識する要因は、その口調にだけではなく、優秀な弟子を取りたがり、目ぼしい子を見つけるとただならぬ執着心を見せ自分の弟子としようとする姿が、女性特有のものとしてしばしば描かれる「子が欲しい」欲望に重ねられたことにもあったのではないか。

 

ジェンダーを不確定にする口調のマッドサイエンティストキャラクターが、科学技術によって「子」を再生産するという物語は、まさしくアンチ・再生産プロットである(「オネエ言葉」と「子産み技術」についての考察は、涅マユリについての記事に詳しい)。

 

物語の序盤から重要な敵キャラとして登場した大蛇丸には、当初から「オネエ言葉」や、強烈なまでの「育てたい願望」が付与されていた。大蛇丸の欲望が科学技術による再生産として結実し、その「子供」が主人公たちの異性愛ロマンスの結果たる子供たちと交わる次世代の物語は、岸本によって随分早い段階から想定されていたのではないだろうか。だとしたら、NARUTOBORUTOに顕在化する再生産表象は、大蛇丸・ミツキの「親子」関係によって複雑さを帯びる。

 

極めつけは、ミツキの好きな食べ物は、スクランブルエッグである。科学技術によって「産まれた」子が無精卵をぐちゃぐちゃに炒めたものが好きだなんて、NARUTO、意外とパンチが効いているじゃないか。

【考察】『トイ・ストーリー』シリーズのおもちゃらしさ/人間臭さ

 

もげる腕

トイ・ストーリー1』の最も切ないシーンをひとつ挙げるとすればどこでしょうか。きっと宇宙飛行士のおもちゃバズ・ライトイヤーが、シドの家から飛べると信じて落下する場面を思い出す人は少なくないではずです。あえなく地面に激突した彼が落ちた片腕をさびしげに見つめるあのシーンはなんとも言えないさびしさがあります。

 

ただ、このあっけない腕の分離は切ない演出のためだけにあるわけではなさそうです。というのは、『トイ・ストーリー2』でも同じように片腕の脱落がくりかえされるからです。今度はバズのではなく、カウボーイ人形のウッディの片腕で。彼の腕はアンディが遊んでいるときにやぶれてしまい、そのあとアルのおもちゃ屋に誘拐されたあとで腕がもげ落ちます。もちろん1・2でもげ落ちるどちらの腕もお話が終わる頃には無事に修理がおこなわれ、元の位置におさまり、そしておもちゃ自身も一度離れた持ち主の元に戻り、大円団を迎えるという筋書きです。

 

こうした彼らの大怪我と気楽な手術は、この作品の登場人物たちがパーツを組み合わせることで完成された「おもちゃ」であることを自ら主張しているように思えます。そう考えると、トイストーリーのリアルさは、たんにリアルなコンピュータグラフィックスを使って作られた映像美だけにあるのではなく、取り外したりくっついたりできるおもちゃらしさによっても担保されていると言えるのかもしれません。

 

さらに、このようなおもちゃの分解性はもっと大きく、シリーズ全体をささえるパターンにも浸透していると考えることもできそうです。というのは、離れたりくっついたりするのはおもちゃの体だけではないからです。このアニメーション映画では、おもちゃの体の分離がさらに持ち主とおもちゃを引き離すというように連動をみせています。本記事では、トイ・ストーリーをつらぬく法則のひとつに〈分離と結合〉があるという仮説を、作品を分解したり別のものに接続することで試してみたいと思います。

 

 

お引越し

そもそもトイ・ストーリー1の開始直後の時点でアンディが理由もなしに引っ越し(moving)間近であることには注目すべきかもしれません。インターネットに出回る考察記事を読む限り、アンディの引っ越し理由が気になる人は多いようですが、「理由なしの引越し」が描かれることそれ自体をそのままひとつの答えとして考えることができるでしょう。それはつまり、登場人物(アンディ一家)の動機は問題とされず、あくまでピクサー製作陣が貫いていると思われる〈あるものとあるものの分離と結合〉という法則のための機械的な引越しと受け取れるのです。

 

引越し、つまり、古い家から新居への移動は、家と持ち主の分離と新たな結合であり、この移動関係は、古いおもちゃ(ウッディ)から新しいおもちゃ(バズ)へとアンディの関心が推移することと無関係ではないでしょう。また、アンディが引越しする直前まで、ウッディとバズが別の〈持ち主/家〉である悪童シドの手にわたることにもリンクしています。

 

続く『トイ・ストーリー2』でも移動・引越し(moving)が間近に迫っているという状態がデフォルト設定になっています。アンディはカウボーイスカウトに行くことになっていて、ウッディを連れて行こうとします。出発まで残り5分をお楽しみに使おうとしたアンディは、この間にウッディの腕をバズの腕に引っ掛けて破ってしまいます。この時点ではまだ腕は分離されませんが、この「怪我」によってウッディはボーイスカウトに置いていかれ、1で別の人の手にわたったように、2でもおもちゃ屋のアルのもとの手に渡り、腕が修復されます。

 

このように、胴体と腕の分離は、おもちゃと持ち主の分離を招き、反対に、その腕の修復は新たな持ち主との関係を結ぶという連動がトイ・ストーリー作品ではパターンとして一貫されているようです。実際、トイストーリー2のラストではウッディを取り戻したアンディが、ウッディの腕にわたをつめて自分で縫い合わせます。

 

「絶対に誰も一人にしない」 "We're all in this together!"の部分性

上にあげたようなトイ・ストーリーを貫くプロットは、当然ながら『トイ・ストーリー3』においても継続されます。今度は片腕の落下ではなく、ミセス・ポテトヘッドの片目の消失によって描かれます。ですが、1・2では腕の分離が所有者とおもちゃの分離を連鎖的に促していたのに対し、3で描かれる片目の消失は、むしろ所有者とおもちゃを再接続するために使用されているように思えます。ミセス・ポテトヘッドの目は、アンディの部屋のベッドの下に置き去りにされているおかげで、彼女を含むおもちゃたちがアンディの家を去った後も、絶えずアンディの部屋をのぞくことを可能にします。この目はしかもおもちゃを捨てたと思っていたアンディに実はその気がなく、彼が必死におもちゃを探す様子を知るための目として機能し、結果的に彼らをアンディの元に帰らせるために大きな役割を果たします。(ミスター・ポテトヘッドのパーツの分離性も3では特に大活躍しますね。トルティーヤで移動するシーン。)

 

ここまで、おもちゃのパーツ性(分離/接続性)は、おもちゃの所有者とおもちゃの関係に影響を与えるという話をしてきました。『トイ・ストーリー3』が前2作と一線を隠すのは、ウッディを含むおもちゃたちが自ら所有者との関係を断つという逆転が描かれるからです。おもちゃの置かれた立場はその道具的な面にあり、おもちゃは持ち主に遊ばれてこそ生きることができる、というのは1・2で繰り返し描かれてきたことでした。アニメーションで生き生きと動くおもちゃは、実際には人間を前にして固まるしかない瞬間、おもちゃらしく静止したまま持ち主に動かしてもらう瞬間にもっとも生きる。だから、おもちゃにとって持ち主は操り人形の糸を握るパペットマスターのようなものだった。

 

もちろんトイ・ストーリー3でも、2のジェシーのように持ち主に捨てられる運命をたどったキャラクターは登場します。ピクニックに連れて行かれ、置き去りにされてしまった苺の香りのするピンクのクマ人形のロッツォは、自力で持ち主の女の子の元に戻りますが、すでに彼女は新しいクマの人形を抱いていた。このときロッツォが言う「彼女は代わりを手に入れた」"She replaced us"という言葉は非常に現実的です。ふつう、ここでは捨てられたというべきですが、ロッツォはそう言うことができません。彼は非人間的な言い方、つまり自分が大量生産された代替可能なおもちゃであることを自分に言い聞かせるように「彼女は我々を置き換えた」と言っているように聞こえます。

 

ところが、『トイ・ストーリー3』でアンディのおもちゃたちが下す決断はこれまでに出てきた例とは異なります。ウッディ・バズらおなじみのおもちゃたちは、「誰も一人にしない」"We're all in this together!"と全員の生還を目指します。1・2とはちがい、彼らの目的はアンディと共にいることではなく、おもちゃ同士でともに生きていくことに変換されているのです。

 

このことをWeの内容が「持ち主/おもちゃ」から、おもちゃ同士の連帯へと変化したと言い換えても良いでしょう。ウッディがアンディと母親が抱き合うのを見て、仲間の元へ帰る道を選択するあの瞬間がおそろしくすごいのは、大学に一緒に連れていってもらうはずのウッディが持ち主を置き換えた(replace)から、もっと言えば、まさに持ち主を捨てたからでしょう。ウッディ一行は新しい持ち主のもとで無事に「誰も一人にしない」"We're all in this together!"を成し遂げています。『トイ・ストーリー』シリーズの真摯で執拗なリアルさは、このようなざんこくな別れ(分解・解散)を描き抜いたこのシーンにこそ描かれているのかもしれません。

 

 

相米慎二『台風クラブ』(1985)が「問題作」である本当の理由

男女一緒のプール授業に生徒が疑問を持っているというニュースや、ジェンダーニュートラルなスクール水着が開発されたことがツイッターのトレンドに入る時代に、今から三十年以上まえにとられた『台風クラブ』(1985年)のような映画が大きな顔をして公開されるのは、よほどの何かがないと、いや、あってもほぼ無理だろう。

news.yahoo.co.jp

 

「今の時代ではこれはあり得ない」という作品はテレビや映画のメディアの種類を問わずいくつもあり、こうした作品の倫理観は一面的に議論するべきでなく、簡単に片付けられるものではない。だが、『台風クラブ』の問題は、たんに中学生の俳優たちがスクール水着姿どころか、ほぼ裸の下着姿で踊るシーンを含むという倫理的なものだけではないように思われる。この映画には他にももっと問われるべき問題があるのではないか。

 

そこで、この記事では『台風クラブ』という作品を支えていると思われる2つの装置の問題を指摘する。先に言ってしまうと、一つ目は、子供たちが思春期に何かよくわからないエネルギーを持つという神話の問題(そもそも誰もが思春期を通過するのか)。二つ目は、中学生の内面的葛藤を台風という自然現象に重ね、祝祭的ムードとともにナチュラルに描く語りの問題だと、私は考えている。*1

 

このような問題の指摘を通して私が考えたいのは、相米監督のとったこの映画ががこうした問題といかに対峙しているのかと言えるのかということだ。脚本は別の人が書いており、相米はその本を読んで映画にしようと決めスタッフと俳優を集めて映画を完成させた。もちろん、相米自身が脚本のどの要素に惚れ込んだのか確定することはできない。だが、ひどく希望的に、上にあげた問題点を相米が乗り越え、別の方法で語る・撮ろうとしていたと言えるかもしれない可能性について考察したい。

 

 

 

台風クラブ』の仕事を評価する映画監督は、第1回東京国際映画祭(1985)でこの映画を絶賛したベルナルド・ベルトリッチだけではなく現代でも少なくない。たとえば、この映画の主題のひとつが「退屈さ」であると考える濱口竜介(『ハッピー・アワー』『ドライブ・マイ・カー』)は、むしろその「退屈さ」に積極的な価値を見ている。

 

彼ら[学校に閉じ込められた三上祐一たち]が始めるのは、祝祭とも言うべき歌と踊りであり、彼らはそれでもって自分たちにまとわりつく退屈を排除しようとする。

 体育館でのストリップショーを経て、台風の目の内にあった体育館の外へ出て、彼らが「もしも明日が」と歌い、踊るとき、雨が降り始める。「台風」を表象するのに申し分ないその雨は、まるでもう一つの主役のようにフレームの余白を埋め尽くす。

「あるかなきか」濱口竜介『甦る相米慎二』 18ページ

 

自然現象であるはずの「雨」すらを俳優の一人としてカウントしかけた濱口はところが、ふと我に帰ったように、実際にはその「雨」がスタッフたちが降らせている大量の水にすぎないという現実を指摘する。

 

当たり前だが、映画において「雨」として表彰されているものは、実際のところ特機部が「雨降らし」としてフレーム外の撒水車から撒き散らす大量の水であり、照明によってキャメラとは逆方向から照射されない限り、それが雨粒としてフィルムに定着することもない。それを台風に見せるなら、大型の送風機が幾つも必要になりもする。

「あるかなきか」濱口竜介『甦る相米慎二』 18ページ

 

しかしながら、濱口は、「雨=俳優」という妄想・印象から「雨=スタッフ」という現実を経由することで、今度はスタッフを画面の外の俳優としてカウントし、またそのように「スタッフを触発する」(19)監督をもそこにくわえることで、この映画に人間の一体感や「退屈を拒絶する意志」(18)というよくわからないもの(祝祭的なもの)が描かれているという結論に着地してしまう。

 

たしかに、濱口のように俳優、スタッフ、監督のなかに一体感のある熱意を読み取ることもできる。実際、相米のインタビューのなかには俳優たちが撮影は楽しかったと言っていたという記載がある。(キネマ旬報 1985年9月、59)

 

だが、このような熱量には「温度差」があるのかもしれない。分析の結果としてそのようなよく分からないエネルギーが感じられることは確かだとしても、濱口の分析がスタッフの熱意に着地していることが示すように、むしろ監督を含めたスタッフ陣の熱量が俳優を上回っていると考えることもできないだろうか。

 

相米自身が完成作を見た俳優たちから「こ〜んな映画だったんすか、撮影は面白かったのにね」と言われて傷ついたとインタビューで答えていることも、このように一体感に水をさす言い方をしたくなる一因だ(キネマ旬報 1985年9月、59)。もっと言えば、楽しめるくらい余裕があったのは子供たちの方というようにも受け取れる。

 

中学生の時期に通過すると思われている思春期が、半ば神秘的に持っていると信じられている特有のエネルギーを「台風一過」という自然現象にかさねたこの映画で、もっとも熱くなっているのは中学生の俳優ではなく製作陣だった、とすこし乱暴な言い方でまとめられるかもしれない。これは映画なのだから製作陣の熱意が高くて当然なんだけど、このような子供特有だと思われている思春期の「変な感じ」を体現しているのが大人たちであるということが、思春期がいかに物語的なものであるかを暴露しているのかもしれない。

 

ただし、監督本人は、大人が実は子供より暑苦しい生き物だという事実をわりと客観的に見れてもいるように思われる。それは、『台風クラブ』のエンドロールで流れている体育祭のアナウンスから聞き取れるかもしれない。エンドロールから聞こえる体育祭は、100m競技を終え、おそらく山場と思われる「部活動対抗リレー」を迎える。このとき、リレーの最終走者が「部活動の顧問の先生」であるとアナウンスされていることには注目したい。出演者とスタッフの名前が流れるエンドロールの最中に、体育祭の最大の盛り上がりが描かれ、その最終走者が大人たち。この編集は冷めているとも言える。

 

このような冷めた編集による演出は、単に映画を撮り終えて時間が経ちほとぼりが冷めているから、というだけではない。実はこの映画の本編のいくつかの場面で、熱気だけでは描けないように思われる細かい演出がなされている。これからこの映画の熱気とは別かもしない機械的な側面についても考察していきたい。そのことで、相米が上述した問題を乗り越えている可能性を検討したい。

 

続きは執筆中(近日公開)

2022/8/5 投稿完了!!!⇩

minnano-bento.hatenablog.com

 

*1:中学生の時期におとずれると一般的に教えられる「思春期」を、自然現象になぞらえることの不自然さについて一度真剣に考えてみてもいい。そもそも「思春期」という用語には「春」という季節がすでにくみこまれている。この用語が青年期(adolescence)をあらわすものとして使われ定着することで、子供(春)は大人(夏)になる準備時期であるという意味づけが自然に受容されることになる。さらに、春夏秋冬の自然のサイクルは「子供(幼児・学生)成人(社会人)老人(退職)」という発達主義(それに伴う再生産主義)のイデオロギーを受け入れやすくする単線的なストーリーテリングにもすり替わる。このように成長を前提とした規範的な価値観で青年期をとらえること、またそのために自然現象を使用することを問題視し、オルタナティブな青年期の捉え方・語り方を探るこころみはNicole Seymourの2009年の論文"SOMATIC SYNTAX: REPLOTTING THE DEVELOPMENTAL NARRATIVE IN CARSON McCULLERS’S THE MEMBER OF THE WEDDING"詳しい。

ネコ好きのための歌詞考察―椎名林檎、斉藤和義、スピッツ

 

猫が好きなのかもしれない。猫のぬいぐるみを愛で、猫のおもしろ動画を見て癒やされている。次は猫歌を聞きたいと思い始める。

 

わたしは実際にネコを飼ったことはなく、種類や生態に詳しいわけでもないのだけれど、ふと気付くと身の回りが猫に溢れていた。ショッピングセンターにでも行って、雑貨屋さんで商品棚を見てみてほしい、猫グッズに溢れた世の中である。

 

実際、一般社団法人ペットフード協会が実施した2021年の調査によると、全国の推計飼育頭数は犬:710万6千頭、猫:894万6千頭で、2014年以降猫の飼育頭数が犬の飼育頭数を上回っている。そりゃあ、猫グッズも多いはず、ネコ好きが多いのだもの。

 

猫歌を聞こうと思い探し始めると、あるにはあるのだが、ネコという動物を愛でる曲は意外と少ないことに気付く。猫のうた、といえばまず思いついたのはDISH//の「猫」だった。あいみょん作詞作曲で、2020年YouTubeチャンネル『THE FIRST TAKE』でボーカル北村匠海が白壁の前でだるそうな姿勢で歌っているあの動画が印象的だ。ネコみたい。だけど、それは恋人を猫に喩えた歌詞で、ネコそれ自体を愛でてはいない。そこで、ネコそれ自体、または猫と人間の関係と境界を歌っているとわたしが思う3曲の歌詞をみてみる。

 

 

猫を崇めるー東京事変「猫の手は借りて」

椎名林檎代表取締役を務める音楽事務所の名前は「黒猫堂」で、東京事変として「黒猫道」という曲も出している。2012年に解散した東京事変が2020年解散時のメンバーで再始動<再生>し、2020年4月8日、8年ぶりの新作となるEP『ニュース』をリリースした。メンバーが1曲ずつ作曲しており(作詞はすべて椎名林檎)、猫歌「猫の手は借りて」はドラムス刄田綴色の作曲である。椎名林檎はEPの解説文で「猫の手は借りて」について次のように語っている。

 

「猫は信仰です。コードワークは弦楽器をたしなんでいる人の手癖のような響きですよね。元々の素養からして当然なんですけど、アカデミックな側面を彼は隠したがるものですから、こうして改めて作品として残せて幸せです。他の4曲では必ず「人生」という語句を用いていますが、この曲では敢えてそれを避け、即物的な行為をより無自覚で無造作なまま描こうとしました」(椎名)

―引用元「NEW EP『ニュース』ライナーノーツ」https://www.tokyojihen.com/disco/special/22/

 

これを踏まえて、歌詞をみてみる(頭の数字は行数)。

 

※歌詞の引用は東京事変 猫の手は借りて 歌詞 - 歌ネットから

1  猫が椅子に泰然と構えじっと観ているこちらの模様を

2  四分刻みのアラーム直ぐに消しては寝る人間の諸行を

3  今日は遠く小さい都市で大きい規模の戦争が起こった

4  ニュースを読もうと端末を取り出す所で終電へ潜った

5  けれど知らないみんなの匂い密閉された電車のなかで

6  徐ら深く安心してしまい電話のポケットを泳いだだけ

7  猫は干支や星座に居ない…重大な役を全うしての免除

8  眼で諍いを吸い尽くし転送をするブラックホールまで

9  だからきっとあの国は長年採用していないと思う猫を

10 間違いない人間の考えなど結局勝ち負けばっかあーあ

11 わざわざ幻想を追い回して損得勘定最優先ちょっとも

12 割りを食いたくないと後でいくら弁解したとて人間は

13 所詮尊大なままやはりやったことが全部だ何も云わぬ

 

猫歌を聴くと、歌い手はネコなのか人間なのか、どの視点にいるかということが気になってしまう。最初の2行をみると、どうやら歌い手はネコと人間を同時に見ている。で、猫は「人間の諸行」を見ている、らしい。仏教の真理の一つ「諸行無常」は「この世のものはたえまなく変化し続けている」ことを指すが、猫は移ろいゆくとされる「諸行」を「じっと」捉えることができるようだ。人間の方は寝ており目を閉じているため、夢でも見ているかもしれない。

 

3行目は、突然歌い手の視点が地球規模にまで引いて、遠くの都市での戦争に関心が向く。それから視点は歌い手の身体に戻ってきて、終電の車両内へ。

 

7行目「猫は干支や星座に居ない…重大な役を全うしての免除」がとってもいいなと思う。猫は干支や星座といった一切の時間的なものから逃れている。猫は移ろいゆく時間の無常さから「免除」されており、面倒な「諍い」を時間の流れの遅い「ブラックホール」にまで転送してしまう。

 

椎名林檎が解説文で語るように「猫は信仰」の対象であり、さらに/ゆえに、猫は社会的政治的イデオロギーから逸脱した存在である。そのために、椎名は、「人生」として俯瞰的に人の生を見ることなく、またそれを語ろうとするような力を行使せず、流転する時間から逃れた猫的な「即物的な行為をより無自覚で無造作なまま」描いている。人間は諸行無常の世界で争い、破壊をもたらす一方で、猫は時間的な制約から免除され、人間によって理想化され、絶対的に人間の上位存在として君臨しているよう。しかし同時に、歌い出しにあるように人間の部屋に暮らしている(人間に飼われている)存在でもある。

 

俺かおまえかあいつかー斉藤和義「野良猫の歌」

www.youtube.com

 

斉藤和義の「野良猫の歌」はタイトルの通り、特定の人間に飼われていない野良たちの歌である。2003年3月リリースされたアルバム『NOWHERE LAND』に収録されている。まじのネコ好きフレンドに聞くと、もちろん知っていた。斉藤和義の楽曲には猫がしばしば登場しており、レコード会社では「斉藤和義と猫」というプレイリストを提供しているくらいだ。

 

www.jvcmusic.co.jp

 

ドラムからのギターでめちゃくちゃかっこいいイントロが流れ始め、思わず体を揺らしながら聴く。夜、人間は寝静まるころ。以下の引用でダブル・クオテーション・マーク内は野良猫が歌っていると思われる。野良猫のうたを斎藤が歌う。

 

※歌詞の引用は斉藤和義 野良猫のうた 歌詞 - 歌ネットから

世界中がまだ眠るころ野良猫たちが

寒そうな三日月の下で歌い出す

“どうだっていいじゃないかよそんなこと”

“過ぎ去った日々にやさしいくちづけを”

“ジャンプして屋根に乗って勇気を見せてみろよ”

 

歌い手は、三日月の下で歌う野良猫たちを見ている。野良猫たちは他の猫相手に歌っているのだろうか、眠っている人間たちに対する言葉なのだろうか。

 

俺は野良猫 おまえは誰だ

そんな爪じゃあいつらには勝てっこないぜ

目を開いて 狙い定め 飛びかかれよ今がチャンスだ

 

次は「俺は野良猫」というように、歌い手が野良猫であることが明かされる。おかしい、初めに歌い手は野良猫を観察していた側だったのだが、今度は「」が「おまえ」を見ているらしい。一体、部外者(猫)はだれ(どの猫)なんだ?さらに、「あいつら」という別のグループも登場する。「俺」と「あいつら」は敵対している。「おまえ」はどちらの味方につくつもりだろう。「俺」は戦い方を指導する。

 

真っ黒でも俺の瞳はサーモグラフィ

世界中で目覚めている人達は一握り

 

“泥だらけの愛をもって海へ行け”

“今日の体力は今日中に使い切れ”

 

あてのない旅の途中 君は何処?

ぶらさがる三日月の涙

ここにはもう いたくない

本能に逆行するような世界

 

俺は野良猫 おまえは誰だ

そんな爪じゃあいつらには勝てっこないぜ

目を開いて 牙をむいて 飛びかかれよ今がチャンスだ

泣いてばっかりのおまえは誰だ

その機械がなきゃおまえはおまえじゃないのか

目を覚ませ 俺と行こうぜ 世界はまだ喜びにあふれている

 

機械に支配された人間たちの「本能に逆行するような世界」にいたくないと思うのは野良猫ではなく人間だ。野良猫は(基本的に)機械を使わないはずだし、人間は自由気ままに暮らしてるかのように見える猫たちを理想化する。人間は、猫の世界、というか野良猫の世界に憧れを抱いている。となると、歌い手が人間なのか猫なのかがますます分からなくなる。人間且つ猫なのかもしれない。

人間は「猫になりたい」と願望することがあるらしい。

 

猫になりたい人間―スピッツ「猫になりたい」

https://www.amazon.co.jp/%E9%9D%92%E3%81%84%E8%BB%8A-%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%84/dp/B00005FN4R

 

こちらは、人間らしき自分が猫になり恋人の腕に抱かれたいと望む歌である。スピッツのボーカル草野正宗の作詞・作曲で、1994年リリースの「青い車」のB面に収録されている。「青い車(曲)」のWikipediaによると、当初は「猫になりたい」がA面になる予定だったためジャケット写真が猫デザインのままだそうだ。2曲とも、検索すると歌詞考察ブログが多く見つかる。ちなみに、スタジオジブリ映画『猫の恩返し』の主題歌「風になる」(2002年)を歌うシンガーソングライターのつじあやのが、スピッツのトリビュート・アルバムで「猫になりたい」をカバーしている(これも2002年のこと)。

 

スピッツ公式YouTubeチャンネルに「猫になりたい」がないので、つじあやのVer.。

www.youtube.com

 

※歌詞の引用はスピッツ 猫になりたい 歌詞 - 歌ネットから

灯りを消したまま話を続けたら

ガラスの向こう側で星がひとつ消えた

からまわりしながら通りを駆け抜けて

砕けるその時は君の名前だけ呼ぶよ

広すぎる霊園のそばの このアパートは薄ぐもり

暖かい幻を見てた

 

「灯りは消したまま」で薄暗い部屋の中。「星がひとつ消え」るというのは朝がきたことを示すのだろう、しかし日が昇り空が明るくなっていくという表現は避けられている。あえてこれまで明るく光っていた星が消えるという表現を用いることによって、むしろ星の光のなさ、暗さをイメージさせる。霊園に隣接するアパートに暮らす主人公は、暗い中、「からまわり」、どうやらそこに実体はない「君」の名前を呼び、見えないはずの幻を見ている。「君」は今霊園に眠っているのかもしれない。

 

猫になりたい 君の腕の中 寂しい夜が終わるまでここにいたいよ

猫になりたい 言葉ははかない 消えないようにキズつけてあげるよ

 

空虚さに包まれる主人公は、サビで「猫になりたい」と望む。そして「寂しい夜が終わるまでここにいたい」と望むのだが、直前にみていた夜明けの来なさを踏まえると、多分この主人公にとっての「寂しい夜」は終わらない。また、実体が消えてしまったであろう君にとって「消えないようにキズつけてあげるよ」というのは、儚い。身体がなくなれば、キズもなくなる。それでも人間の言葉よりは永続的なものなのかもしれない。猫になりたい主人公は、人間のことばを吐かずに、キズをつけるという猫的行動によってなんとか痕を残して儚さに抵抗しようとする。

 

このあとサビは歌詞を変えずにさらに2回登場する。夜が終わることと、消えないキズをつけること、そして猫になることを望む人間主人公の強い思いは、繰り返されることによって、むしろその叶わなさが露呈する。

 

何ヶ月も前だが2月22日の猫の日に合わせて、猫歌プレイリストなるものがLINE MUSICで作成されている。

https://music.line.me/webapp/playlist/upi7nLrdtfvhxjzl_n1p3rE-GrFPM4hvAyOy

猫歌といっても、冒頭で触れたように恋人を猫に喩えていたり、スピッツのように「猫になりたい」と歌っているものなど、猫の登場の仕方は様々である。

また思いついたとき、歌詞に表れる猫の性格、理想像、人間との関係性など考察していきたいと思う。けども、気ままなので、次は猫小説でもいいかもしれない。ニャー

 

歌詞考察 相対性理論「夏至」青春=物語

まずはそんなに長くないので歌詞をざっとみてほしい。

 

HEY YO

そういやそんな笑い話もあったね

後悔してもあとの祭り

そうすったもんだ挙げ句の果てには

なんだかんだの仲直り

 

いやいやそんな昔話はいいよ

どうせろくな思い出じゃない

ねえそれよりこんなおとぎ話はどう?

なんか心がざわめくの

 

HEY YO

ところでこんな独り言はやめて

公園でちょっと一服しよう

ねえそれよりそうだおとぎ話のつづき

なんかやっぱりざわつくの

 

13才 夢を見る 14才 闇を知る

15才 恋に溺れては 暑く暑く焦らす夏が来る

 

18才 桜散る 19才 向こう見ず

20才 大人になれず 暑く暑く茹だる夏が来る

 

こんな街から脱出してやる

いつかBIGになってやる

妄想以下そうとうバカ

おとなしくテレビを見るのよ

 

そんなこんなで退屈してたら

あっという間の花盛りなんて

妄想以下そうとうバカ

めくるめくあの夏の迷走ラプソディー

 

いいよ おとなになっても

いいよ こどもになっても

いいよ おとなになっても

いいよ いいよ

 

相対性理論夏至」 作詞:ティカ・α/山口元輝

 

夏至」は一年でもっとも太陽が出ている時間が長い日。この日を境にだんだんと日が短くなる。この自然現象を人間の生にあてはめて考えるのはあまりにも簡単かも知れない。人生にはピークとしての青春時代があって、たのしかったあの頃にはもう戻れない、あとは私の人生しぼんでいくだけだ、というようにしみじみと物思いに耽ることもできるかもしれない。

 

だが、この相対性理論の「夏至」はそのような「楽しかったあの頃に戻りたい」的な言い回しが「おとぎ話」だと言い切っている。だから、この歌には夏の熱に動じないクールなトーンが響いていると思う。

 

この歌は、いつかの「笑い話」を思い出すところから始まっている。それから続けて、いつかの「すったもんだ」とか「仲直り」とかいった過去の些細なできごとを思い出している。これらは「挙げ句の果て」「なんだかんだ」という予測不可能な流れのなかで起こったことで、うまく言葉で説明がつかない。これが語り手の言う「昔話」「思い出」だ。

 

続く第2連で語り手は、そのような「思い出」や「昔話」をそんなものは「いいよ」と脇に置き、「おとぎ話はどう?」と代わりに切り出している。心がざわつくかららしいが、語られる作り話の始まりは次のようなものだ。

 

13才 夢を見る 14才 闇を知る

15才 恋に溺れては 暑く暑く焦らす夏が来る

 

18才 桜散る 19才 向こう見ず

20才 大人になれず 暑く暑く茹だる夏が来る

 

これ、どこがおとぎ話なんだろう。シンデレラストーリーとか、いつか王子様が迎えに来るみたいなおとぎ話とはちがって、この歌詞の作者と同じ文化圏で育った人はけっこう割に共感しやすい、あるいは共感はしなくても周りで流行っていたことは知っている現実のように見えるのではないか。たとえばひどく大雑把に言ってしまうと、「14才 闇を知る」はそのまま端的に「中二病」を意味しているように見えるし、「20才 大人になれず」は、「成人式」を迎えても大人になりきれない人たちのことを指していると言えそうだ。とすれば、ぜんぜんおとぎ話なんかよりむしろリアルに感じられる。

 

けれどもこうしたリアルを「おとぎ話」と定義してから語り出すところに、「夏至」のクールがある。夏に植物が芽吹き、気温が上昇するというソリッドな科学的事実が、この「おとぎ話」を成立させるプロットにすりかわっている。さりげない、どうでもいい日常の思い出ですら「なんだかんだ」「すったもんだ」という説明のつかなさを示す言葉でなんとか言いくるめられていたのに、一年という長いスパンをたった一言で表せるはずがない。にもかかわらず、この大胆な嘘をリアルだと感じさせてしまうところに「おとぎ話」の装置がはたらいている。

 

だからむしろこう考えても良いのかもしれない。この「おとぎ話」をリアルに感じられるなら、それはきっと13才のときに夢(物語)を見るように仕向けられていたからかもしれず、また14才のときには、誰しもが一度はダークサイドに落ちるのだという成長物語に飲まれていたのかも知れず、また15才で初恋が・・・そして、18、19と20才の成人に向けて「大人の階段」を登るというストーリーを信じさせられてきたからなのかもしれないのだと(夏と青春を紐づけたテレビドラマ・映画は非常に多い『花盛りの男たちイケメンパラダイス』『ウォーターボーイズ』『サマーウォーズ』)。

 

次の連でもおとぎ話は続いている。

 

こんな街から脱出してやる

いつかBIGになってやる

妄想以下そうとうバカ

おとなしくテレビを見るのよ

 

都会に出て成功するという上京物語は、妄想ですらなく「妄想以下」であると言っているのは非常に興味深い。もっと良いのは、そう言いつつも結局、妄想を植え付けた発信源である「テレビ」に戻っていくところのバカっぽさを書き落とさない賢さだ。物語にふれることはやっぱりやめられない、というのは単なるおとぎ話じゃないだろうから。

 

ただ少し戻るけど、さっきの13才から始まる青春にまつわる「おとぎ話」の箇所には単純じゃないつくりがある。

 

13才 夢を見る 14才 闇を知る

15才 恋に溺れては 暑く暑く焦らす夏が来る

 

18才 桜散る 19才 向こう見ず

20才 大人になれず 暑く暑く茹だる夏が来る

 

 

この「おとぎ話」、16才と17才の2年間が書かれていないのだ。3年ー2年の空白ー3年は、この前後にも繰り返し同様のパターンがループすることを想起させる。そういえばそうだこれは「おとぎ話」なのだった。ということはすっ飛ばされて語られなかった16、17才の二年間は、きっとこの語り手が脇に追いやろうとした、あるいは語りきれない「昔話」「思い出」に該当するようなものだと想像できる。

 

実際、この歌詞全体が昔話(現実)→おとぎ話(フィクション)→昔話(現実)・・・のようにループしている。まず、最初は現実にあった思い出を話し、おとぎ話を話そうとしつつ、公園で一服しようとしたり、現実と妄想をざわざわとせわしなく行きつ戻りつする運動が見られる。

 

するとさいごに繰り返される「いいよ」には別の響きを聞き取ることもできるかもしれない。

 

いいよ おとなになっても

いいよ こどもになっても

いいよ おとなになっても

いいよ いいよ

 

最後の2回の「いいよ」は意味が定まらない。Aでもいいし、Bでもいいし、AでもBでもなくてもどうだっていいよ。この迷いと狂いこそがまさに「めくるめくあの夏の迷走ラプソディー」なのだろう。迷って走って狂ってしまう様子には、夏の暑さに恋心を重ねるような安直さはない。また、ラプソディ・イン・ブルーのように、あるカラーに染められてもいない。そのことを象徴するように「迷走ラプソディー」という文字それ自体が、迷走狂詩曲のようなダブった言葉のベタ塗りになっている。この意味で、もう「あの夏」は全ての生に一致する(迷わない人間はいない)。であればもう夏は夏であることができない。夏じゃなくてもいい。定点を取る必要はない。すったもんだの挙げ句の果てのなんだかんだでいい。

 

よく耳にする「あの頃はよかった」「何歳からでも青春を」という言い回しには、「やり直し」「取り返す」ということばが紐づけられる。これは過去に何か特別で果実のように爽やかな美しい時間があったという物語に裏付けされている。けれども、青春はおとぎ話に過ぎない。人生のピークを夏至に喩えることそれ自体が物語なのだ。だとすれば、たとえ心がざわつこうがわざわざ自分の人生を季節の流れに重ねて悔やんだり期待したりする必要もないのかもしれない。妄想以下のそうとうバカな記憶、脇に追いやりたい昔話、どうにも語りきれない思い出が、妄想以上にそうとうたのしい思い出(現実の日常体験)だったってこともあるだろうから。

 

とはいってもやっぱり物語を聞くと心がざわついてしまうのは本当のことだ。今私が書いている解釈も、「夏至」という物語に触発されて書かれたことは否定しようがないのだし。