みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

台湾ホラー『呪詛』 究極の逆転 あれは本当に大黒仏母の呪いなのか?

 

大ネタバレ注意仏母!!!

 

 

 

 

 

台湾ホラーの『呪詛』、怖くも面白い仕掛けの映画で、細かい説明はいろんなブログやツイート参照。簡単に要約すると、母親が子供を救うために視聴者に呪いをかける(そのため全部記録してる)、というドス黒い映画だった。

 

一方、呪いの正体もまた「大黒仏」で、「母親」だ。呪いも母、呪いに争って視聴者を呪うのも母。根底には幽霊ではなく、母(親)が子にとっていかに呪霊的か、親が子にむける言葉が時としていかに呪詛的か、という現実に根ざしたおぞましさがある、、、、と、あとちょっとで思いかけた。

 

しかし、ある場面がひっかかるのである。

そもそもなぜ呪われたかというと、言っちゃダメ系地下道に行ったせいなのだが、そこに行く直前、やはりなんか怖い感じでやめようという向きになる。だが、地下道の向こうからある音がするのだ。

 

 

それは子供の声だ。ここで、地下道へ向かう必然性が生まれる。もしかしたら向こう側に子供がいるかもしれない。であれば、助けなきゃ。しかし、向こう側にいるのは大黒仏母であって子供ではない。子供の声をたどって辿り着くのは、子とは真逆の母(親)である。

 

しかし、ではなぜ「子供の泣き声」だったのだろう。呪いの正体は母であるのに、どうして地下道からした声の主は子供だったのだろう?ここに無視し難い捩れがある。子供かと思ったら母親だった。いや、むしろ、この声をそのまま受け取ってみてはどうだろうか?つまり、やはり奥にいたのは子供だった。呪いの正体は、大黒仏母ではなく、子供だったのだと。

 

映画の巧妙な出だしは、この仮定を裏切らない。

そこではあるイメージが提示されていた。

 

映画はまず初めに観覧車の絵を見せる。それから、「右回り」と「左回り」の両方を思い浮かべるよう我々に求める。そして、そのどちらのイメージも成功することを確認すると、「私たちの意思が世界を作っている。それが”祈り”の原理だ」と告げる。

 

”祈り”は映画内では”呪い”へと反転される。その呪いは、我々視聴者へと向けられている。そうした映画の特質から行って、このメッセージは極めて巧妙な「暗示」である。しかし、ここにはもう一つのイメージがある。それは逆回転だ。おそらく、この「観覧車が回っていることをイメージして」と言われれば、我々の誰もが右回転で回すはずだ。それはおそらく、時計の回転のイメージにひきづられてのことである。故に、それがイメージによって逆回転も可能というのは、時間軸という究極のルールへの抵抗を意味してもいるのだ。

 

 

もう一つ提示されるイメージも、同様の見方ができるだろう。

 

電車が進んでいるのか、それとも戻っているのか。これは電車の進行方向のイメージであるようでいて、実際は時間の進行方向のイメージに対する撹乱だ。電車は進んでいるのか、それとも戻っているのか。時間は進んでいるのか、それとも戻っているのか。時計は右回りなのか、それとも左回りなのか

 

時間の逆転。

 

それは究極の逆転だ。この隠されたイメージを親と子に当てはめればどうなるか。我々は『呪詛』を、親の呪いのイメージで見ていた。大黒仏母も、子を供物に求めている。主人公である母親も、子供を守るため視聴者に呪いをかけている。だから、ここにあるのは「母の呪い」なのだと、自然に思おうとしてしまう。

 

しかし、地下道で彼らを誘ったのは「子供の声」だった。「子供の声」こそが、踏みとどまりかけた彼らを地下道に誘ったのだ。であれば、我々はこの声をストレートに受け取りつつ、映画のイメージを、その初めの「暗示」通りに、逆転して考えてみるべきではないのだろうか?つまり、これは親の呪いではなく、子の呪いの映画であると時間的に先立って存在する親の優位ではなく、時間的には遅れてやってくるはずの子供によるやり返し(時間の逆転/時計の逆回転)のなのだと

 

そう考えれば、映画で描かれる超常現象も全てが幼児的だ。冷蔵庫のミルクをこぼし、意味もなくトイレを流し、大人と手を繋ぎたがる。そして、呪われたものは「歯が痒い」と言って歯を落としてゆく(乳歯の生え変わりだ)。

 

この「逆転」は、映画の大オチであるあの「顔」のイメージにおいて問いかえしても良い。我々はそこに「穴」を見た。それは果たして、母親のもつ穴なのか、それとも子が”やってくる”穴なのか。穴は、この映画の呪いの正体が「親」ではあり得ないことを示すにうってつけな、両儀的な「道」である。

 

そして映画は最後に、ある不思議なメッセージを残す。全てが終わった後、マーベル映画でいうエンドクレジットで、子供がヘンテコな歌を歌っているのだ。

 

おうちってお城から遠いね

バスにのっていきたいけど

お城にいくバスがないの

お城が泡になって消えちゃったからね

       ドゥオドゥオ 作詞

 

これは、いわば子供が吐く「呪詛」だ。故に、それはこれまで映画が繰り返し続けたあの「呪詛」の裏側に隠れていた、逆転のメッセージである。映画が執拗に繰り返す呪詛(「ホーホーッシオンイー」)は、禍福倚伏の訛りで「名を捧げて呪いを受ける」という意味を持つ。呪いがその全貌を隠して拡散するシステム性は、巧妙に構築されいる

 

一方、ドゥオドゥオの歌には意味がなさそうだ。なにせ、これは子供の歌なのである。しかし、この無意味さこそが重要なのだ。我々が最後に聞く「呪詛」は意味と意図に満ちた大黒仏母の呪詛ではなく、この無意味な子供の歌だ。

 

しかし、子供こそがまさに穴の向こうからやってくる、異界の存在なのである。

そして我々が最後に耳にするのは、大黒仏母の意図に満ちた理解可能な「ホーホー、、」ではなく、理解さえ許さない真の呪文なのである。

 

追記

偉そうなこと(「理解さえ許さない真の呪文なのである!)を言った後で申し訳ないけど、ドゥオドゥオの歌には理解可能な意味がありそうだ。原語の文法で順序がどうなっているかわからないが、少なくとも日本語ではある特徴がある。

 

彼女はまず初めに、

 

「おうちってお城から遠いね」

 

と歌っている。そういうからには、位置関係的に、彼女はお城にいるはずだ。家にいるなら、「お城っておうちから、、」となるはずなのだから。

 

しかし、第3節では

 

「お城にいくバスがないの」

 

と言っている。今度はお家からお城へ行こうとしていて、彼女の位置は「おうち」に変わっているわけだ。ドゥオドゥオは第1節から第3節の間に、一瞬にして「おうち」に飛んだのか?(笑)もちろんそれは不可能だ。彼女自身、「バスがない」と言っているのだから。

 

であれば、ここで可能な想定は1つだ。彼女は「移動」したのではない。第2節と第3節の間で、ドゥオドゥオの位置関係は逆転(逆転は「移動」ではない、「交換」だ)したのである。