みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

特殊ランニング映画『アワ・ボディ / Our Body』(ハン・ガラム、2018)考察

ネタバレ映画考察。

 

 

映画の予告編↓

www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

今日も外を走る人がいる。夜中に早朝に真っ昼間に。軽快なテンポで小気味よく腕を振って息を荒げて。目の前を通り過ぎるそれらの人たちの背中(back)は次第に見えなくなり、意識からも消えていく。走って追いかけでもしない限りもう二度と会うことも思い出すこともない。別の日。今度は別のランナーが視界に入ってきてそしてまた消えていく。このように走る習慣のない人にとって、街中を走るランナーは身近になった瞬間にすでに遠ざかっていく存在であり、しかも、この一連の過程が反復される、再び戻ってくる(back)という不思議な何かでありつづける。

 

『アワ・ボディ』(原題:아워 바디、ハン・ガラム監督、2018年、JAIHOで配信中)は、そうした反復の通過を阻止するチャヨンの物語だ。名門大学を出たあと国家試験を7、8年受け続けた彼女は「もうこれ以上何も頭に入ってこない」と受験を断念する。そんな頃、彼女は通りを颯爽と走る女性ランナー、ヒョンジュを見かける。本能的に彼女の背中を追いかけ、彼女たちは次第に親密になっていく。ここまではポスターや予告編が期待させるランニングで心身ともに快活になっていく女性の物語をなぞっている。だがそれは映画の半分でしかない。映画は後半にさしかかるにつれ観客の期待に内在するランニングはさわやかで健康的という前提を破壊し、ランニング(走る身体)を再構築しながら、この意味で特殊な爽快さへと突き抜けていく。

 

たしかに、はじめのうち映画が憧れの人の「背中」を追いかける、というような成長物語を爽やかに描いているかのように見える。そんな師弟のような二人の関係が見えるのがよく晴れた早朝ランのシーン。

 

左:チャヨン(初心者ランナー) 右:ヒョンジュ(ランナー歴7〜8年)

 

「疲れたら私について走って 私の力を吸い取る気でね かなり楽になる」

 

「have someone’s back」には「信頼する」の意もある。朝日を浴びながらのランニングは一日のパフォーマンスを大幅に上昇させます。仲間と走ればモチベーションを維持しやすくルーティンをつくりやすいでしょう。....こんなライフハック系のブログで見かけるようなことがたしかに実践されている。

 

だが、素朴なあこがれはすぐに打ち砕かれる。監督がインタビューで「走ることが主題なので、みなさん明るい映画だと勘違いされるのですが、若い人たちがスポーツや体づくりに励むのには複雑な理由があるということを、描きたかった」と言っている通り、事実、この映画はこれからどんどん複雑さへ向かっていく。*1

 

ちょうど映画の折り返し地点で、ヒョンジュは車に突っ込んで死ぬ。事故は早朝ランからしばらく経ったあるナイトランで起きる。スタート前、ヒョンジュは靴紐を結びながらあの朝とまったく逆のことをチャヨンに言う。

 

「後ろを走っていい? 疲れたらあなたの力を吸い取る」

 

少しずつトレーニングの成果が出てきたチャヨンはうれしそうにそれを受け入れる。ところがえ?となるのは、いざ走り出したヒョンジュがこれまでと変わらずチャヨンの前を疾走しているからだ。しかもいっこうにスピードを緩める気配がない。チャヨンは「待って」と声をかけ、「どこまで走る気なの?」と聞く。この問いにヒョンジュは一度立ち止まって振り返る。だが何も言わずに向き直ってそのまま車道へ走り出し車に激突して即死する。

 

かなり意味不明なシークエンスだ。だが結果の方は明白で、彼女の遺言はたしかな効力をもってチャヨンに影響を及ぼす。チャヨンの目から生気が消え失せるのだ。もちろん大事な友達が死んだのだから当然なのだが、落ち込むとか悲しむとかそういう感じではない。彼女の最後の言葉を引きずり、まるで力が吸い取られているかのようにも見える。

 

ここからが面白い。なぜなら、ヒョンジュの言葉がもう一度反転して元に戻るからだ(GO BACK)。チャヨンは力を取り戻すために死んだヒョンジュを追いかけ始めるのだ。それが力を吸い取って楽になる方法だと教わったから。しかも、その追跡は死者相手だからといって決してスピリチュアルなものに移行するのではなく、また単純に後を追って自殺するのでもなく、これまでと同じランニングのようにどこまでもフィジカルなものでありつづける。チャヨンはヒョンジュの住んでいたタワーマンションに行き、彼女の遺品にふれる。彼女の書いた小説を読み、彼女の作ったお酒を飲み、彼女の背中がむき出しになったモノクロ写真を床に置いて一緒に寝る。

 

このようなフィジカルな追跡は機械の技術に頼ることでより洗練されていく。彼女はスマホのランニングアプリで、ヒョンジュのアカウント(死んでもSNSアカウントは残る)を開き、記録された走行経路、走行距離、時間を完全に模倣しはじめる。もうここには「背中を追う」ことが「have someone’s back / 信頼する」とか憧れの人を目指すというようなあたたかな人間くささはない。

 

数値で測定可能なレベルでの機械的な追跡は、結果的にチャヨンの肉体を限りなくヒョンジュが死ぬ直前の身体状態に近づける。チャヨンはそのことを自分の背中を鏡でみてたしかめる。彼女はあの美しい背中の写真を思い出し、自分の背中とその背中までの距離を確認する。つまり、ここでは単に走って背中を追いかけるのではなく、器官としての背中に肉体的に追いつくという異常な追いかけっこが起きている。比喩的な意味での到達ではなくシンプルにフィジカルな一致が目指されている。

 

その背中同士の距離が消えたとき「他人の背中を追う」という慣用表現は物理的に突破され「他人の背中になる」というそれ以上近づけないほど直接的な表現へと化ける。これは裏を返して自分の背中でもある。だからこのときチャヨンはヒョンジュに追いつくだけでなく同時に追いつかれてもいる。ぴたりと同一方向への背中合わせという異常な追いかけ方が互いに起きている。しかもヒョンジュはすでに死んでいる。これがこの映画の描くわたしたちの身体「アワ・ボディ」の特異性だ。ちょうどすでに背中合わせのKappaのロゴを半分に折りたたんでもう一度重ねるような合わせ方だ。

 

kappa ロゴの画像23点|完全無料画像検索のプリ画像💓byGMO

 

このような身体の同一化(Our BodiesではなくOur Body)が極めてとくべつであることを思えば、あの謎めいたシークエンスも矛盾なく理解できそうだ。ヒョンジュが「後ろを走っていい? 疲れたらあなたの力を吸い取る」といいつつもその言葉を裏切ってチャヨンの前を走っていたのは、異様な接地を達成するための予備動作だったのだろう。ヒョンジュは自分の発言を即座にひっくり返すことで前後の差の消失させているから。*2

 

チャヨンが「わたしたちの身体」へと変化することで「わたしの身体」を手放したと言い換えられるなら、同じような変化がヒョンジュにも起きていると考えてもよいだろう。この意味でヒョンジュの死亡時刻はずれ込んでいく。彼女は車の事故で死んだのではなく、チャヨンに追い着く/追いつかれることで正確に死んでいると考えられるかもしれない。「一緒に走ろ」というときの一緒感がぶっ飛んでいる。歩幅を合わせるとかそんなレベルじゃない。

 

真にヒョンジュと「一緒に」走れる身体へと変化したチャヨンの身体は、さらにヒョンジュが生前に抱いていた肉体的な願望を達成し始める。チャヨンはヒョンジュがランニング後の飲み会で「年上の男とセックスしたい、若い男は自分の鍛えあげた体をさわらせたがるから」と言っていたことを覚えており、実行する。いま「チャヨンは. . . 覚えており」と書いたけど本当は前後の区別をつけられるのかはもはや微妙だ。したがって、チャヨンが高級ホテルの最上階で自分の身体を愛撫するラストシーンも単なるマスターベーションではないのだろう。前述のインタビューでチャヨンを演じた俳優チェ・ヒソはこのシーンを「誰の目線もなく、誰も私のことを気にしない。この部屋の中に私1人、私の存在だけ」であることが重要と性的解放を強調しているが、映画のタイトルに戻ればチャヨンが本当に部屋の中に一人だったとは思えない。

 

しかし、この映画は注意深く、このような異次元のフィジカルな一致(死者との邂逅)に頭がスパークしそうな私に待ったをかけてくる。というのは、創造的な仕方で融合された身体は、たとえ二者間では複数的でありえても、その身体の外にいる第三者の目からはどう考えても一人にしかみえないからだ。そのため、チャヨン/ヒョンジュは、再び背中を追いかけられる存在として、つまりかつてのヒョンジュ的な存在に、少なくとも外的には再び解体されてしまう。そのことはチャヨンの歳の離れた妹によって実践される。中学生の妹は、かつてのチャヨンがそうであったように、ランニングで美しい身体に変わった姉にあこがれを抱き走り始める。

 

このように「AとBの関係はCとDの関係と同じです」という構造主義的なロジックでアワ・ボディが分裂してしまう。たしかにチャヨンは追い着き追い越せの単純なレースとは異なる走り方を発見した。それは徹底的にフィジカルな追跡によって成し遂げられた。しかしながら結局、このようなシンクロはたとえその内部に複数性を孕んでいても自己完結的で一元的な身体となる。

 

以前私が書いた『わたしたち』(原題:우리들ユン・ガウン、2015)の考察では二人の親友の親指の一致(ゆびきりげんまん)とその約束の行き先である海の水平線を一致の終着点ととらえることができた。ここにはもちろん親指の異常な融解はないし、水平線も身体の外部にあるものであり、差異を含んだ同一化が達成された。だから感動したまま映画を見て安心した気持ちでいられる。しかし、『アワ・ボディ』は不安で満ちている。複数所有格を持ちながらの単一化という言語表現(概念)としては達成されても、客観的リアルでの事実上は、つがいの片方の死が必要条件になっているからだ。この先があるのか、あるはずだと思うので知りたい。もっと不安になるような奥があるかもしれない。韓国人の女性監督(括るべきではないがなぜか多い気がする)が描くわたしたちの身体に今後も注目する。