みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

T. U. G どこまでも転がる丸い月

www.youtube.com

 

T.U.Gにだけは順位なんかつけられない。そんな矛盾した思いでラップスタアを見ていた。そんな時出された新曲。

 

全部終わったらなる一番星

まだ磨かないと今はただの石

環境が擦った身体 垢が落ち

 

グループサイファーでも、何度も上を見て指を指していたT.U.G。だから、彼のリリックに「石」だけではなく、「星」が出てきてハッとした。あの時「転がるチャンス」と言っていたのは、道端の石(「今はただの石」)だけじゃなくて、銀河系に転がる光る石(星)を指しているのかと。そして、「磨か」れた石が、「擦った身体」が、T.U.Gという一番星だったんだと(「全部終わったらなる一番星」)、そんな気がしたからだ。

 

悔しくてたまらない夜に

浮かぶ顔 月明かり

深く埋めた悩みのタネに

あげ過ぎて水たまり

 

T.U.Gが歌う「夜」は「悔しくてたまらない」ような、そんな暗闇だ。それでも、暗闇でなければ星は光らない。この夜には、この悔しさには、星を輝かせる力がある。だからここではさらに、光の世界ではなく、闇の中の光という矛盾を抱え込むT.U.Gのリリックが、「月明かり」を歌っている。そして「月明かり」が「水たまり」と韻を踏んでいるのがすごい。重なるのは、音(あかり/たまり)だけじゃない。水たまりに浮かんだT.U.Gの顔がそのまま、月になってるのが本当にすごい。悔しいくてたまらないT.U.Gの顔を、足元の水たまりが、光り輝く月へと反射する。音と同時に、天と地までもが重なってる。足元の石が、天上の月へと反する。あの時「転がるチャンス」と歌ってていたT.U.Gが転がるのは、もはや平面な道だけじゃない。地面から宇宙へと、この世界そのものを縦へと反していくものすごい力が、T.U.Gのリリックにはある。

 

忙しく過ごし減った溜め息

アイツの分も背負った都会行き

まだ終わってないんだよ正直

テクもコネもカネも無いけどこんな曲

聞いて欲しいんだT.U.G.

道の端で意思を持ったこの心

丈夫に持つ自分自身 

 

」「都会行き」「正」が「T.U.G(ティー・ユー・ジー)」と韻を踏む。もちろん、「自分自身」もそうだ。この箇所は、ある意味T.U.GがT.U.Gと口に出して、自分が自分と重なっている(まさに「自分自身」)ようにも聞こえる。そういえば、この曲には『ラップスタア』で歌われた「“貰う側から渡す側に”」もセルフサンプリングされている。あの水たまりに写ったもう一人の自分のように、この曲にはもう一人のT.U.Gが映し出されている。道の端で「意志/石」を持った、この心を丈夫に持った、そんなもう一人のT.U.G(自分自身)がここにいる。

 

重ねる日々

積み重ねる日々

 

自分自身。自分という言葉が二度繰り返されるようなこの言葉が、「日々」という言葉で再び繰り返される。そこに、「積み重ねる」という言葉が添えられる。「重ねる日々」と言って、続けて「積み重ねる日々」と歌う。繰り返しの中で顔をだす「積み」という言葉は「」とかけられているのかもしれない。

 

意志を重ねて、石/星を重ねて、月を重ねる。『ラップスタア』で、T.U.Gの石/意志は転がっていた(「転がるチャンス」)。Chanceの英語的語源には、「下降する」という意味があるから、T.U.Gの「転がる」という言葉選びはピッタリだった。でも、この曲のT.U.Gは次のレベルにいる。転がる道端の石が、水たまりの顔が、夜空の星に、月に、姿を変えているからだ。T.U.Gのチャンスは道を転がるどころか、下降するどころか、空を突き抜けて宇宙まで上昇している。ラップスタア。まさに、上へ上へと、星まで、月まで、T.U.Gの日々が積み重なっている。あの日のT.U.Gが上へと歌っていたように、今は私たちがT.U.Gを見上げている。私たちが歩く道端の、水たまりに写る私たち自身の悔しい顔を通して、T.U.Gという星を、月を、見上げている。

 

この曲のYoutubeページを見ると、T.U.Gを大好きでたまらない人たちが幾つもコメントを残している。もらうから渡す側に、そんなハードな道を、T.U.Gは本当に体現したみたいだ。でも、これからもっと色んなことを体現していくはず。そんなT.U.Gを、心から応援している。

 

 

ラップスタア T.U.Gのリリックに勝手に感動&勝手に考察

泥のように寝るのに起きて夢を見る
言葉にできないfeel 紐解くペンシル


あれもこれも過去全部意味があり
叶った先に許せると信じてる


惚れた相手間違ってこんなザマ
感謝しかしてないんだ本当はな


俺の人生は変わらない300万
ただ抜け出したいんだここから


貰う側から渡す側に

ハードなの I know 道の果てに


仲間が追う背中伸びるShadow
お前が言ってくれた間違いない


ただ素直にもっと上に行きたいんだもっと
今も変わらず毎日思うこと


形じゃないもの追いかけてきた
転がるチャンスモノにする今Rapstar

(引用先 https://lyrnow.com/1325226)

 

「泥のように寝るのに起きて夢を見る」

この出だしからもうグッと来てしまった。T.U.Gのラップは、夢から目覚めるんじゃなくて現実という夢へと目覚める(「起きて夢を見る」)、という逆説から始まる。「泥のように寝る」のは彼の1日がハードだから。でもT.U.Gは「ハード」な現実と「追い求める夢」を別々の世界にわけない。「ハード」な現実が彼を「泥のように眠らせる」のに、その現実の中で、T.U.Gは「起きて夢を」見られる。この出だしでもう感動してしまった。

 

「言葉にできないfeel 紐解くペンシル」

「言葉にできないfeel」は、多分「夢」のこと。夢ほど言葉に変えにくいものはない。T.U.Gはそれを「紐解く」ために鉛筆を握る。彼は、起きながらながら夢を見て、しかもその夢を、目覚めた夢の中で紐解こうとしている。起きてから夢を日記に書くわけじゃない。現実から起きながら、現実という夢を紐解く。こうして、夢(言葉にできないfeel)と現実(紐解くペンシル)という真逆の世界は、T.U.Gの言葉で1つに重なる。

 

「あれもこれも過去全部意味があり

叶った先に許せると信じてる」

叶った先、という言葉の頭に「夢が」をつけないのがにくい。続けて、「過去」であったいろんなことが「先(未来)」で「許せると信じてる」と歌う。ここは普通のことを言っているようで、実はT. U. Gがなんか不思議な因果関係を生きていることが、次のバースでわかる。

 

「惚れた相手間違ってこんなザマ
感謝しかしてないんだ本当はな」

「惚れた相手間違ってこんなザマ」は、「あれもこれも過去」の中の1つの記憶だ。ただ、T. U. Gはそれを夢が「叶った先」(未来)の問題として先延ばしにしてない。彼は「感謝しかないんだ」と言ってる。そこに、「本当は」と言うリアルな気づきがくっつけられてる。「叶った先に許せると信じている」と1つ前で歌っていたのに、T.U.Gはもうすでに、T.U.Gを「こんなザマ」にした惚れた相手を許すどころか、「感謝」までしてる。「過去」と「未来」もまた、T.U.Gの言葉の中では1つに重なってる。

 

「俺の人生は変わらない300万

ただ抜け出したいんだここから」

ここで、T.U.Gの「逆説」がさらに具体化する。「300万」は優勝金だ。でも、それじゃ「俺の人生は変わらない」。じゃあ、彼は一体何のために『ラップスタア誕生』に参加するのか?

 

「貰う側から渡す側に

ハードなの I know 道の果てに」

T.U.Gは、どん底から成り上がりたいと言う定番のHIPHOPマインドを歌っていない。彼は、貧乏や底辺から抜け出してラップスタアになりたいとは歌っていない。そうじゃなくて、「貰う側」から「ただ抜け出したい」と歌っている。彼のリリックが貫いてきた「逆説」が、ここで一気に具体化する。「貰う側」から「渡す側」になる。自分のためが、人(仲間)のためと重なる。T.U.Gのハードで幸福な人生が見える気さえしてくる。

 

「仲間が追う背中伸びるShadow
お前が言ってくれた間違いない」

そして次に歌うのは「Shadow(影)。T.U.Gと仲間は、影の中で1つだ。だから、これはT.U.Gのラップなのに、ここで、自然と仲間のセリフが挿入される。「お前が言ってくれた間違いない」。これは仲間が彼へとかけた言葉。まるで一緒に歩く友人同士の影が重なって伸びるように、友達のセリフがT.U.Gの声と重なって、私たちへと響いてくる。

 

ただ素直にもっと上に行きたいんだもっと

今も変わらず毎日思うこと

「形じゃないもの追いかけてきた
転がるチャンスモノにする今Rapstar」

最後、T.U.Gは逆説を畳み掛ける。彼は夢を追い求めるとは言わずに、「形じゃないもの追いかけてきた」と言う。実体がないものなのに、まるで実体があるように追いかけて行くT.U.G。逆説はさらに続く。

 

「転がるチャンスモノにする今Rapstar」

 

「チャンスは転がってる」と言うよくある言葉が、「追いかけて」の一節のせいで、本当に「転がって」いるように聞こえる。「チャンス」に「形」はないけど、それはT.U.Gの前で本当に「転がって」いるみたい。だから彼はそれを「追いかける」ことができる。これらは全部、カッコつけて空回った歌詞とかじゃなくて、ちゃんとT.U.Gに生きられた法則な気がする。頑張ってほしい。

 

 

 

 

 

 

エロス・イン・BLEACH!②――剣卯戦はなぜ「エロい」のか?

はじめに

ザエルアポロ戦のマユリ&ネムの描写がエロいという話はしたが、いやもしかするとそれ以上にBLEACH史上最もセクシュアルなのは、剣卯戦だろう。

 

映像化され話題沸騰のこの戦い、なぜエロく、そしてなぜエロスが必要なのだろうか。

 

ファリック・シンボルとジェンダーロール

BLEACHにおける刀とは、死神のみが帯刀を許され、斬魄刀の大きさが霊圧の大きさに比例する、という大変にファリックな(男根的な)モチーフである。

 

刀や銃をファリックなパワーの表象として読む/描くというのは、古今東西の文化に浸透した方法論であろう。BLEACHもその例に漏れず、むしろそのやり方を積極的に採用している。

 

戦闘特化部隊の十一番隊は、(斬魄刀の化身的存在のやちるは例外として)男性が占めている。しかも、「十一番隊では鬼道系の斬魄刀では馬鹿にされ、直接攻撃系の斬魄刀でなければ認められない」との弓親の言葉が示すように、刀を刀として使い「斬る」ことが第一義なのである。

 

一方、治療部隊である四番隊は、隊長・副隊長共に女性であることから、護挺十三隊には明確なジェンダー分業が存在している。

 

卍解できない更木剣八斬魄刀

 

隊長になるには、卍解が必須条件となっているにも関わらず、更木剣八卍解ができない。いわば更木剣八は、隊長(死神としての成熟の最終段階)へのイニシエーションが済んでいないまま、あまりの潜在的強さゆえに隊長になってしまったのである。

 

「未熟ではあるが潜在能力の異常な高さゆえに特権性を手に入れる」という設定は、ジャンプ漫画の定石である(一護もこの好例だ)。一護は主人公であるがゆえ、段階的に斬月との修行を積み、レベルアップしていくが、剣八は最終章まで、「卍解をもたない唯一の隊長」のままである。

 

千年血戦編において、更木剣八のレベルアップがソウル・ソサイエティの必須事項とされたことで、初代剣八、すなわち卯ノ花烈/八千流に「斬術の手ほどき」を受けることになる。

 

剣卯戦は、卯ノ花隊長が更木剣八に出会ったときの胸の古傷を衝かれることで幕を閉じる。戦いの最中、幾度も卯ノ花は更木剣八を刺し殺しているのだが、卯ノ花は回道(治癒能力)を駆使することで、この戦いは更木剣八が己が一度死んだことにも気づかぬうちに繰り返される。

 

この繰り返しの末、更木剣八は自身の斬魄刀に名を尋ね、のちに卍解に至る。=(ハイパーマスキュリンなシンボルである)斬魄刀の使い手としてのイニシエーションを終えるのである。

 

要するに、この「手ほどき」とは、卯ノ花烈/八千流による更木剣八の筆下ろしなんですよ。そりゃあエロいわけだ。

 

「私を悦ばせた男」

剣卯戦が更木剣八の筆下ろしは、卯ノ花烈/八千流の最期が胸元の傷を貫通する描写で終わる。しかも卯ノ花を貫通するカットが二種類も描かれることからも、ここはかなり性器挿入を意識されているだろう。

 

 

BLEACH_59巻_p. 120

BLEACH_59巻_p. 116

 

 

 

では、卯ノ花烈/八千流は、デンジにとってのマキマ的な「母であり最初の女」的なテンプレのエロスにすぎないのだろうか?

 

筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、卯ノ花隊長には母性とエロスの混同とは多少異なる特徴づけがなされているように思う。

 

孤児である更木剣八が、戦いの最中何度も死ぬのを卯ノ花隊長の回道によって治癒される、すなわち「生まれ変わる」という筋書きは、まさに卯ノ花烈/八千流と更木剣八の疑似母子関係とも読み取ることができる。

 

しかし、卯ノ花隊長が亡くなるときのモノローグ、「私を悦ばせた男よ」に込められる、刀の貫通と併せても、明らかに性的な含みをもつエクスタシーの瞬間である。

 

更木剣八との関係は、師弟関係とか、疑似親子である以上に官能性を帯びる。

しかも、更木剣八のイニシエーション/筆おろしの踏み台として卯ノ花隊長がいるのではなく、彼女の「うずいてしかたなかった」傷を貫通させるよう卯ノ花隊長自身が仕向けることで、更木剣八のためであったはずの戦いが、いつのまにか卯ノ花隊長の性的なクライマックスを迎えることが到達点になっている

 

卯ノ花隊長は、ややもすれば「男性主要キャラの成長の踏み台的母性エロス」の型にはまってしまうところを、彼女の性的な到達感をこの戦いのクライマックスとして据えることで、彼女の不在は逆説的に強烈である。

 

ユーハバッハ戦に臨むソウル・ソサイエティの戦略として、(特記戦力に匹敵するであろう)卯ノ花隊長が死ななければ特記戦力の更木剣八の力は解放されないという点からして、彼女の強烈な不在という逆説はとんでもないインパクトだ。総力戦である以上、実際的に戦力を考慮するとき、卯ノ花隊長は生き残るべきだったのだから。

 

一見、自らの死をもって更木剣八を解放し、ソウル・ソサイエティの勝利に自己犠牲的に貢献したかに見える卯ノ花烈/八千流は、実はどこまでもエゴイスティックに自身の欲望を追求したのかもしれない。

 

地獄に落ちた「死剣」卯ノ花烈は、今後どのような姿を見せてくれるのだろうか。

楽しみでならない。

 

 

他力本願―宇多田ヒカル「Automatic」とVaundy「不可幸力」の抗えなさ

最近、中島岳志さんの『思いがけず利他』を読んでいたら、宇多田ヒカルのデビュー曲「Automatic」が引用されているのを見つけた。

それから「イッツ オートマーティック そばーにいーるだーけで〜」が永遠脳内再生されている。いまも文章を書きながらサビが止まらない。PVで、あの中腰というか、屈んだ姿勢で横揺れしている感じ。わたしの身体まで勝手に動く。

 

なんてautomaticな曲なんだ!!

 

中島さんは次のように述べていた。

It’s automatic

側にいるだけで その目に見つめられるだけで

ドキドキ止まらない Noとは言えない

I just can’t stop

 

「あなたがそばにいて、見つめられているだけで、ドキドキ止まらない。ドキドキしたいと思っているわけでも、ドキドキしようと思っているわけでもない。どうしようもなくドキドキしてしまう。それはオートマティックなもので、意思を超えたもの。不可抗力です。

『業』とは、 It’s automaticなのです。」(39)

 

中島さんが宇多田ヒカルを引用していたのは、「業」を説明するため。

「業」とは「私の力ではどうにもならないもの。縁という力に支配されているもの」で、私たち人間も仏もまた「業」に突き動かされているという。

鎌倉時代の仏教家である親鸞は、「自力の限界」をみつめたときにやってくる「他力」の瞬間に私たちは救済されると考えた。この「他力」というのは仏の力なのだけど、私たち人間も「どうしようもない」んだけど、私たちがその「限界」に徹底的に向き合ったとき、仏もまた私たちを「どうしようもなく」救ってしまうのだそうだ(33–9)。

 

15歳の宇多田ヒカルは、自分の気持ちのどうしようもなさという「自力の限界」と、相手もまたどうしようもなく反応しているという「他力」、恋愛のautomaticallyな感じを歌う。

宇多田ヒカル「Automatic」

七回目のベルで

受話器を取った君

名前を言わなくても

声ですぐに分かってくれる

電話をかけた自分は、もしかしたら相手が応えてくれないんじゃないかとドキドキしていたことだろう。「君」は目を見つめなくても、自分をドキドキさせてくる。そして、「君」はこちらの名前を言わなくても「すぐに分かってくれる。」

 

声や音に対して瞬時に反応するという感覚は、普段の生活でも経験することだろう。懐かしの人の声を聞けば(良かれ悪かれ)ドキッとしたり、大きな音に驚いて身体がビクッと動いたり。そのような即座的な反応のあとに「あぁ、懐かしい人がいるのでちょっと挨拶しよう」とか「ぎょえ!アイツいるから逃げよう」とか「いやー全然びっくりなんかしなかったよ、平気平気」とか思う。

唇から自然と

こぼれ落ちるメロディー

でも言葉を失った瞬間が

一番幸せ

 

嫌なことがあた日も

君に会うと全部フッ飛んじゃうよ

君に会えない my rainy days

声を聞けば自動的に

Sun will shine

まさに、わたしにとっての「Automatic」のように頭に残るメロディーがあるのだろう。でもこの脳内再生を、鼻歌を止めないと、「君」の声をじっくりと聞くことはできない。あるいは、自分が発する言葉がメロディーのように流れているのかもしれない。自分が話すのを止めないと「君」の返事が聞けない。

会えなくても「声を聞けば自動的に/Sun will shine」なんだから、「君」の声にはすごい力がある。いつ太陽が昇って沈むかなんて変えられることなんぞできないんだけど、当たり前なんだけど、その当たり前を覆しちゃうのが「君」なんだな。

 

ここまで宇多田ヒカルの歌詞をその通りに読んできただけなんだけれど、恋愛は「意思を超えたもの」とか考えるのは想像がつくことなんだけど、自分がその渦中にあるとき、自分の可能性と限界、外部的な力の大きさとそれを受容する力を意識できるのか・・・というと、それは想像が難しい。日常の「難しい」があのリズムであの声で歌われる「Automatic」から逃れられない・・・中島さんの言葉を借りると「あちら側からやってくる不可抗力」なのである(42)。

 

そして思い出したのが、Vaundyの「不可幸力」だった。タイトルのまんま。

「なんでもかんでも欲しがる世界」では、自分が何を求めているのか、なぜ求めているのかが分からなくなったりする。しかし、その行き詰まり感に向き合うことから新しい世界が見えてくる。らしい。

あれ なに わからないよ

それ なに 甘い理想に

落ちる

 

Welcome to the dirty night

みんな心の中までイカれちまっている

Welcome to the dirty night

そんな世界にみんなで寄り添い合っている

Welcome to the dirty night

みんな心の中から弱って朽ちていく

Welcome to the dirty night

そんな世界だから皆慰めあっている

「僕」は「the dirty night」の住人にとてつもなく歓迎されている。多くの人たちにとって「dirty night」に向かうことは堕落を意味するのだろう。だって、汚いし暗いんだから。

だけど、実は違う。そこは落ちてしまえば、皆で寄り添い慰め合うところだった。自分ひとりの力の限界を感じ、それにじっくり向き合ったとき、他者の力に気付き、支えられるようになり、自分も支えるようになる。「不可幸力」は「幸せは(抗えない)外部からやってくる」ということ、そして「自分もまた他者に幸せを与えている、かもしれない」ということも意味しているのだろう。

 

だめだ、もう明日は赤いセーターにカーキのパンツ履いて踊りに行かないと・・・

 

引用文献

中島岳志『思いがけず利他』株式会社ミシマ社、2021年。

 

【考察】『ぐりとぐら』の呪い――『作りたい女と食べたい女』に思うこと

 

はじめに

『作りたい女と食べたい女』(以下『つくたべ』)が2022年11月29日よりNHKでドラマ化されている。ジェンダーセクシュアリティ表象に関する懸念の声が放送開始前からトレンド入りするなど、単に人気漫画が映像化されることによる盛り上がりというよりは、もう少しイデオロギー的に、あるいは社会問題の一側面として注目を集めている。

 

筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、ゆざきさかおみによる原作のファンである。

本記事では、映像については言及しない。あくまでも、漫画としての本作をどう受け取るか、ということに焦点を絞りたい

 

クィア・ロマンス」という新たな王道ジャンル

きのう何食べた?』(よしながふみ)の原作&映像化作品のヒットが記憶に新しいが、近頃「クィア・ロマンス」とでもいうべき漫画ジャンルの人気が急上昇している。過剰に異性愛中心主義的であった地上波TV連続ドラマという市場に、こうした作品が頻繁に取り上げられるということは、まあ喜ぶべきことだろう。

 

『つくたべ』のヒットに思うところがある。

本記事はただの感想であり、全く考察ではない。そして、本作品にやや批判的に聞こえる書き方もしているが、筆者はわざわざ単行本でこの作品を定価で購入し、何度も読み返す程度には『つくたべ』が大好きだ。ディスるための記事ではなく、この作品をどう受け入れていくか考えることが本記事の目的である。

 

『つくたべ』のイデオロギー性(やや『つくたべ』あらすじ紹介 飛ばし読み推奨)

料理を「作りたい」(が、小食)の野本ユキが、(「女性の規範的な食事量」よりもはるかに多く)「食べたい」春日十々子という隣人に料理を振舞うことで、二人の女性が親密になってゆくさまを『つくたべ』は描いている。

 

十々子との距離が近づくにつれてユキが自身の性指向をレズビアンと自認するようにいたる過程が大変丁寧に描かれる。

 

十々子との初めての外出のために着ていく服のコーディネートを検索すると、「モテ服」などの異性愛中心主義とルッキズムゴリゴリの検索結果しか得られなかったり、

レズビアン」という言葉を検索したときに、ヘテロ男性がエロティックにレズビアニズムを消費するようなメディアが多いことが示唆される。それにユキが「異性にモテるための服しかないのか」と説明的に落ち込むまでがセットである。

 

さらに、アセクシャルレズビアンをカムアウトしている矢子可菜芽に、ユキが自身のセクシュアリティについて相談する回では、可菜芽のレクチャー的な口調から、読者もユキと共にセクシュアリティの多様性や各語の定義を学ぶ仕組みとなっている。つまり、本作は「LGBTQの教科書」となることが隠れていない裏テーマとなっているのである。

 

また、各話の扉に「嘔吐表現注意」や「同性愛差別的表現が含まれます」などの注意書きがかなり詳細に記されており、本作は、表現とポリコレの問題にも、明確にスタンスを示している。

 

つまり、「ポリコレに配慮しすぎると作品はつまらなくなる」というジレンマに対して、多少つまらなくなってもポリコレに振っているのが本作品だ(『つくたべ』の説明的な言い回しと注意書きの多さは、一定数の読者を確実に遠ざけているだろう)。

 

筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、この徹底した姿勢が好きだ。だってこの作品は、ジャンプとかりぼんとかアフタヌーンの連載じゃないんだから。目的の90%を読者ウケにする必要はないのだ。

 

ぐりとぐら』と『つくたべ』(ここからようやく考察!)

ユキが初めて十々子に晩御飯をふるまったとき、

「ふわふわのおっきなカステラ」

「だからずっと探してたんだ 一緒におなべをからっぽにしてくれるひとを」

 

というユキの幼少期回想モノローグが挿入される。

 

「ふわふわのおっきなカステラ」とはもちろん、ぐりとぐらのカステラのことである(著作権問題上なのか『ぐりとぐら』という作品名は言及されないが)。

 

ぐりとぐら』にユキが憧れていたことは、作中に何度か描かれているから、『ぐりとぐら』は『つくたべ』創作に重要なインスピレーションを与えているのだろう。

 

説明不要かもしれないが、『ぐりとぐら』は二匹のネズミを主人公とする大ヒット絵本だ。青い服の「ぐり」と赤い服の「ぐら」は、仲良くデカいカステラを作ったり海水浴に行ったりする

 

そして気になるぐりとぐらの関係性やジェンダーの問題であるが、作品を読むだけでは、「ぼくらのなまえはぐりとぐら」という文言から、ぐり(青)がおそらく男の子ということしか推測できないようになっている

 

その後作者がぐりとぐらは「ふたごのきょうだい」という設定を公開してしまう。

「きょうだい」という平仮名表記なので、兄弟かもしれないし兄妹かもしれないという想像の余地は残してくれているのがせめてもの良心か。「ぐら」(赤い服)をA音で終わる名前の響きと服の色から女の子と読む読者も多かったことは容易に推測できる。

 

ちなみに、筆者(ぴんくぱんだちゃん)は『ぐりとぐら』の余計な作中外での設定公開について福音館書店を未だに許していない。

 

つまり、ぐりとぐら』は、作品だけを読んでいる子供の読者にとって、ジェンダーや関係性を曖昧にされた二人組でしかないのである

 

おそらく、『つくたべ』のユキの憧れを『ぐりとぐら』に設定したのは、上記のような理由からだと思われる。ジェンダーも関係性はどうでもよくて、ただ仲が良いだけで一緒にいる二人。一緒にいる要因がジェンダーや関係性から脱中心化されている、という点から、ぐりとぐらはユキと十々子のロールモデルなのである。

 

ぐりとぐらの組み合わせが、『つくたべ』の二人のロールモデルとなりうるもう一つの理由は、子供向け絵本の主人公であるぐりとぐらの性別の曖昧さが性の未分化を前提とするものでもあるからだろう。『つくたべ』は、ジェンダー規範への抵抗を重点的に描くが、彼女らの性的な欲望については意図的に(まだ)描かない。レズビアニズムをヘテロ的性的視線によって消耗するポルノ産業への抵抗もあるのかもしれない。

 

ぐりとぐら』の呪いと選択的家族

ユキが『ぐりとぐら』的なパートナーをずっと探していたのだ、と認識する場面は、大変ロマンティックで、こういうのに「ああ素敵」と思うのはもう仕方ない。犬猫が死ぬ話が自動的に悲しいのと同じだ。

 

ユキだけでなく十々子も(十々子は内面描写がかなり少ないにもかかわらず、わざわざ両者別個の場面で)、「選択的家族」という言葉を耳にし、居心地の悪い血縁の家族のオルタナティブとして「これこそ探していたものだ」というようにその概念を受け入れる。「女らしくない」量を食べても受け入れてくれるひと。「一緒におなべをからっぽにしてくれる」ひと。自身の意思で選択した相手。

 

きのう何食べた?』と同様、クィアカップルの恋愛ストーリーに食事の描写を伴うのは偶然ではない。「家族」になることの象徴的な振る舞いに食事があるからである。

 

しかしこれ、クィア恋愛模様が、異性愛の模倣と受け取られかねないのではないか。

 

ややマスキュリンな十々子がフェミニンなユキに食費を渡して、料理を「作る」-「食べる」の関係を結ぶのは、あの忌まわしき「私作るひと、僕食べる人」というハウス食品のCM(1975年)を想起させる

 

おそらく本作品のタイトルは、この悪名高い流行語を踏まえて設定されているのだろう。究極的に異性愛規範的なCMのタイトルを、レズビアンカップルのラブストーリーのタイトルと置き換えてしまうという戦略である。

 

ところが、この戦略、結局クィアであろうとも、異性愛規範的なパートナーシップの模倣を望むかのように取られかねない。さらにぐりとぐら』の呪いともいうべき「パートナーをずっと探していた(そして見つけた)」という、対(カップル)幻想の系譜をなぞっているように見える。

 

もちろん作者は上記の点は折り込み済みで、これからポリアモリ描写やアセクシャル描写を描くことでこの問題を解決しようとしているのかと予想する。

 

でも、色々なケースを描いたからって、この対幻想のプロットは脱色されることはないのではないか。それくらい、セクシュアリティを問わず、「ずっとたった一人のあなたを探していた」的な対幻想プロット、すなわちぐりとぐら』の呪いは強いのである。

 

ぐりとぐら



 

 

 

 

 

 

 

 

【考察】「剣八」の崩し字以外にも意味がある?!卯ノ花烈/八千流の苗字の秘密 

卯ノ花烈/八千流という沼

初代護廷十三隊のビジュアル、そして翌週には隊長のフルネームが発表され、BLEACH界隈は大変な盛り上がりを見せている。齋藤不老不死はトレンド入りを果たした。

 

「齋藤不老不死」や、「松本乱菊」などが好例だが、久保帯人のネーミングは「普通の苗字+特徴的な名前」というような組み合わせを取ることが少なくない(日番谷冬獅郎など例外も多くいるが)。

 

今週発表された初代護廷十三隊隊長の名前には、四楓院など既出の名家の苗字や、逆骨など、明らかに物語設定に関係のある苗字を与えられた者もいる。

 

では、卯ノ花八千流はどうだろうか。

普通の苗字+重要なgiven nameのパターンなのだろうか?

 

BLEACH連載当時から、卯ノ花烈という名、烈の部分を崩すと剣八になるという考察は出ており、その後最終章で卯ノ花烈四番隊隊長は初代剣八、すなわち初代十一番隊隊長、そして更木剣八最愛の人、卯ノ花八千流であったことが明らかになった。

(この扉絵から「烈」=「剣八」の崩し字説が上がった。)

 

つまり、我らが卯ノ花隊長は、下の名前に関して既に多くの考察+伏線回収がなされてきたわけである。

 

今回は、卯ノ花隊長の苗字について考えてみたい。

筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、卯ノ花という苗字にあえて意味を見出すとしたら、という方向性で考察してみた。

 

そもそも卯ノ花って、「おから」のことだ。

おから

あの、白くてふわふわしたヘルシーフードの代表選手。

穏やかな卯ノ花烈四番隊隊長時代から、「好きなもの:濃い味 嫌いなもの:薄味」がしばしばネタにされる卯ノ花隊長だが、その嗜好からいえば「おから」なんて一番嫌いな類のものだろう。

『カラブリ』p. 90より

 

正体が判明する前は、あの優し気な雰囲気を、あの優しい味の食べ物が体現する苗字なのかと思ってした。

 

しかし、「おから」とは、特定の地域では「きらず」と呼ばれることはご存じだろうか。

(参考URL:https://otonanswer.jp/post/63753/

 

というのも、「おから」は包丁を使わずに調理できる(「切らず」)のため、縁起物として「きらず」と呼ぶことが好まれるらしい。

 

ちなみに筆者は、山田詠美の『無銭優雅』という小説で、主人公の恋人が「おから」を「包丁を使わないから「きらず」っていうんだよ」と教える場面を読んだことがある。

 

あの、卯ノ花隊長、いや、初代剣八の苗字が「斬らず」?!?!

偶然なわけがない。

 

剣八とは、「幾度切り殺されても絶対に倒れない」当世代最強の者に与えられる称号である。

つまり下の名前は「斬られず」、苗字の「卯ノ花」は「斬らず」なのだろか?

 

初代護廷十三隊の頃は「空前絶後の大悪人」だったという卯ノ花烈の苗字が「斬らず」の意味を持つとするならば、それは単なる頓智なのだろうか?

それとも、「斬らず」の意味を持つ「卯ノ花」を苗字とする家系の者であるならば、卯ノ花隊長の出生は、今後何か明かされることがあるのではなかろうか。

 

そもそも、初代の頃の「卯ノ花八千流」という名は、「あらゆる流派・あらゆる刃の流れは我が手にありと、彼女自ら名付けた」とされている。ということは、元々八千流ではない名前を与えられていた可能性もある。

 

更木剣八草鹿やちるのように、辺境の流魂街出身である場合、自身の苗字を出身地とし、自身で考案した名前を名乗る場合もあるが、今のところ「卯ノ花」が流魂街の名前であるという情報は出ていないだろう。

 

ということは、苗字もない(出生もわからない)生まれであるなら、「斬らずの八千流」と自ら名付けたことになるわけだし、「卯ノ花」が本当のfamily nameであった場合、それは「斬らず」を掲げる家系というわけ。

 

え?卯ノ花さんは一族の反逆者になっちゃうの?!などと、どちらのパターンにせよ想像が膨らむわけである。

 

今後、卯ノ花八千流のgiven name(出生時つけられた下の名前)が明かされることはあるのだろうか?また、「卯ノ花」とは彼女のfamily nameなのだろうか?

 

今後のアニオリ情報がますます楽しみである。

 

そしてもう一つ追記。

更木剣八の嫌いな食べ物は、納豆。理由は「切れない」から。

納豆も卯ノ花/おからも、もとは同じ大豆である。

ほんとに剣ちゃんったら、、、もう、、、。

 

家カレーの謎〜カレー漫画『今日もカレーですか?』〜

 

 

今日も一日が過ぎるのが遅くて気が狂いそうなので、kindle unlimitedで漫画を探して読んでいる。そこで見つけたカレー漫画、『今日もカレーですか?』。印度カレーカリー子のレシピを爆読みしたせいでサジェストされたのかもしれない。

 

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黒部ちな、18歳。
この春、上京して来ました。
不安はいっぱいだけれど、ここから私の・・・カレーなるキャンパスライフが始まる!?

女子大生×カレー×青春!!

実在の名店たちが多数登場する
超本格カレーストーリーここに開幕!!

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実在の名店?

料理系かと思ったら、孤独のグルメ系の実レポ系グルメ漫画じゃないか。一身上系の都合で東京のカレー屋には行けないけど、しかし行けないからこそ読みたい。気づいたらダウンロードしていた。

 

目次を読むと、色んなカレー屋が並んでいる。いい感じ。でも左側のコマはどの「お店」でもない。このコマはどう考えても「家カレー」だ。第一話は中村屋なはず。さっさと見せてくれ、中村屋の、あの魔人のランプの上半分切ったみたいな容器に入れたカレールーを、、、、と、そんなにいらつかなくてもちゃんと中村屋のカレーは出てくる。しかし、そこにはなぜかあるカレーの影がチラつく、、、、

 

 

「私の知ってるカレー」、それってなにカレー?もちろん「家カレー」だ。中村屋のカレーを食べて開口一番、「え!?私の知ってるカレーと全然違う!」って、普通なんだろうか?「複雑な味がする、、、」。家のカレーと比べてるんだからそりゃそうだろう。

 

こいつ、いつまで「家カレー」の話する気だろう?また「複雑」って言ってるし。でも拙者にはわかる。この漫画は、実在のカレー店をルポってく漫画と見せかけて、実は究極の謎である「家カレー」をルポするという真意を隠しているに違いないコポォ。「中村屋のカレー、、、家カレーと違う、、複雑、、、、」というこの一連の流れは、そのための屈伸にしか見えないでおじゃ。

 

しかし、確かに「家カレー」って謎だ。カレーはそもそも謎系の料理だけど、家カレーの謎っぽさは味がどうとかの話ではない。家で食べてるときは何も思うことがないのに、家から出ると途端に「家カレー」という特別さを伴って意識に急浮上してくるのが謎なのである。

 

家で食べてる時はカレー。家を出るとそれが「家カレー」になる。簡単に言えばそういう流れだ。この謎っぽさは、多分「カレー」ではなく「家」に起因するものだと思う。自分の家の匂いは、実は自分が一番よく知らない(「お前んちドブ臭くない?」)。久しぶりに帰ったりして、ようやく気がつくようなものなのだ(「俺んちドブ臭くない?」)。

 

だけど、同時にこうも思う。なぜ家「カレー」なのか。「家生姜焼き」とか「家焼きそば」とか「家ハンバーグ」とかじゃなくて、なぜ「家カレー」なのか。その謎はおそらく、逆に「家」じゃなくて「カレー」にあるのだろう。そんなことを思いながら、今日が終わるのを待ちたい。

 

 

 

クジラと時間とクィア

クジラと時間とクィア...

 

メルヴィルヘミングウェイの話ですか?

いいえ、今日読んだ最高の漫画の話です。

 

 

 

マユリの記事とかホローナイトの記事とか大蛇丸の記事とか相米映画の記事とかでクィア・テンポラリティを我々はよく話題にしている。

 

この漫画についての記事も書かずにはいられない。

 

この漫画は、「伝説のクジラ」というお題で描かれた4ページ漫画である。

 

船を造り、鯨を追うことに生涯の時間をかけた男女が、女性のいまわの際に人生を振り返る。



 

ここにあるのは、再生産至上主義と、直線時間指向への懐疑である。

 

「何も見つけられず」「何も残さず」という事態が、他者と対比したとき、人生の「意味の無さ」を思わせてしまう。

 

「普通」の人々が「安定した暮らし」に「落ち着く」ことを求める直線時間と、二人の(何も生/産まないかに見える)「何度も」繰り返す航海が対比される。

 

直線時間と螺旋時間の鮮やかな対比だ。

 

そしてまさに再生産されず「死」へ向かい、それは鯨との邂逅により祝福されるかのようである。(リー・エーデルマンのクィア・ネガティヴィティって翻訳出るまではこの漫画のこんな感覚っていう理解でいいのでは。。。)

 

それにしても、なんで「クジラ」と「航海」のモチーフはクィア表象の原動力になるんでしょうか。この漫画から『白鯨』と『老人と海』を想像する読者は多いはずなんだけど、そのモチーフの普遍性って本当に不思議だ。

 

エイハブやサンチャゴの執念は「狂気」という形で差し出されてしまうけれど、こうやって、私たちが「どこか知ってる」感情で描かれていると、作品と親密になった気がするものである。

台湾ホラー『呪詛』 究極の逆転 あれは本当に大黒仏母の呪いなのか?

 

大ネタバレ注意仏母!!!

 

 

 

 

 

台湾ホラーの『呪詛』、怖くも面白い仕掛けの映画で、細かい説明はいろんなブログやツイート参照。簡単に要約すると、母親が子供を救うために視聴者に呪いをかける(そのため全部記録してる)、というドス黒い映画だった。

 

一方、呪いの正体もまた「大黒仏」で、「母親」だ。呪いも母、呪いに争って視聴者を呪うのも母。根底には幽霊ではなく、母(親)が子にとっていかに呪霊的か、親が子にむける言葉が時としていかに呪詛的か、という現実に根ざしたおぞましさがある、、、、と、あとちょっとで思いかけた。

 

しかし、ある場面がひっかかるのである。

そもそもなぜ呪われたかというと、言っちゃダメ系地下道に行ったせいなのだが、そこに行く直前、やはりなんか怖い感じでやめようという向きになる。だが、地下道の向こうからある音がするのだ。

 

 

それは子供の声だ。ここで、地下道へ向かう必然性が生まれる。もしかしたら向こう側に子供がいるかもしれない。であれば、助けなきゃ。しかし、向こう側にいるのは大黒仏母であって子供ではない。子供の声をたどって辿り着くのは、子とは真逆の母(親)である。

 

しかし、ではなぜ「子供の泣き声」だったのだろう。呪いの正体は母であるのに、どうして地下道からした声の主は子供だったのだろう?ここに無視し難い捩れがある。子供かと思ったら母親だった。いや、むしろ、この声をそのまま受け取ってみてはどうだろうか?つまり、やはり奥にいたのは子供だった。呪いの正体は、大黒仏母ではなく、子供だったのだと。

 

映画の巧妙な出だしは、この仮定を裏切らない。

そこではあるイメージが提示されていた。

 

映画はまず初めに観覧車の絵を見せる。それから、「右回り」と「左回り」の両方を思い浮かべるよう我々に求める。そして、そのどちらのイメージも成功することを確認すると、「私たちの意思が世界を作っている。それが”祈り”の原理だ」と告げる。

 

”祈り”は映画内では”呪い”へと反転される。その呪いは、我々視聴者へと向けられている。そうした映画の特質から行って、このメッセージは極めて巧妙な「暗示」である。しかし、ここにはもう一つのイメージがある。それは逆回転だ。おそらく、この「観覧車が回っていることをイメージして」と言われれば、我々の誰もが右回転で回すはずだ。それはおそらく、時計の回転のイメージにひきづられてのことである。故に、それがイメージによって逆回転も可能というのは、時間軸という究極のルールへの抵抗を意味してもいるのだ。

 

 

もう一つ提示されるイメージも、同様の見方ができるだろう。

 

電車が進んでいるのか、それとも戻っているのか。これは電車の進行方向のイメージであるようでいて、実際は時間の進行方向のイメージに対する撹乱だ。電車は進んでいるのか、それとも戻っているのか。時間は進んでいるのか、それとも戻っているのか。時計は右回りなのか、それとも左回りなのか

 

時間の逆転。

 

それは究極の逆転だ。この隠されたイメージを親と子に当てはめればどうなるか。我々は『呪詛』を、親の呪いのイメージで見ていた。大黒仏母も、子を供物に求めている。主人公である母親も、子供を守るため視聴者に呪いをかけている。だから、ここにあるのは「母の呪い」なのだと、自然に思おうとしてしまう。

 

しかし、地下道で彼らを誘ったのは「子供の声」だった。「子供の声」こそが、踏みとどまりかけた彼らを地下道に誘ったのだ。であれば、我々はこの声をストレートに受け取りつつ、映画のイメージを、その初めの「暗示」通りに、逆転して考えてみるべきではないのだろうか?つまり、これは親の呪いではなく、子の呪いの映画であると時間的に先立って存在する親の優位ではなく、時間的には遅れてやってくるはずの子供によるやり返し(時間の逆転/時計の逆回転)のなのだと

 

そう考えれば、映画で描かれる超常現象も全てが幼児的だ。冷蔵庫のミルクをこぼし、意味もなくトイレを流し、大人と手を繋ぎたがる。そして、呪われたものは「歯が痒い」と言って歯を落としてゆく(乳歯の生え変わりだ)。

 

この「逆転」は、映画の大オチであるあの「顔」のイメージにおいて問いかえしても良い。我々はそこに「穴」を見た。それは果たして、母親のもつ穴なのか、それとも子が”やってくる”穴なのか。穴は、この映画の呪いの正体が「親」ではあり得ないことを示すにうってつけな、両儀的な「道」である。

 

そして映画は最後に、ある不思議なメッセージを残す。全てが終わった後、マーベル映画でいうエンドクレジットで、子供がヘンテコな歌を歌っているのだ。

 

おうちってお城から遠いね

バスにのっていきたいけど

お城にいくバスがないの

お城が泡になって消えちゃったからね

       ドゥオドゥオ 作詞

 

これは、いわば子供が吐く「呪詛」だ。故に、それはこれまで映画が繰り返し続けたあの「呪詛」の裏側に隠れていた、逆転のメッセージである。映画が執拗に繰り返す呪詛(「ホーホーッシオンイー」)は、禍福倚伏の訛りで「名を捧げて呪いを受ける」という意味を持つ。呪いがその全貌を隠して拡散するシステム性は、巧妙に構築されいる

 

一方、ドゥオドゥオの歌には意味がなさそうだ。なにせ、これは子供の歌なのである。しかし、この無意味さこそが重要なのだ。我々が最後に聞く「呪詛」は意味と意図に満ちた大黒仏母の呪詛ではなく、この無意味な子供の歌だ。

 

しかし、子供こそがまさに穴の向こうからやってくる、異界の存在なのである。

そして我々が最後に耳にするのは、大黒仏母の意図に満ちた理解可能な「ホーホー、、」ではなく、理解さえ許さない真の呪文なのである。

 

追記

偉そうなこと(「理解さえ許さない真の呪文なのである!)を言った後で申し訳ないけど、ドゥオドゥオの歌には理解可能な意味がありそうだ。原語の文法で順序がどうなっているかわからないが、少なくとも日本語ではある特徴がある。

 

彼女はまず初めに、

 

「おうちってお城から遠いね」

 

と歌っている。そういうからには、位置関係的に、彼女はお城にいるはずだ。家にいるなら、「お城っておうちから、、」となるはずなのだから。

 

しかし、第3節では

 

「お城にいくバスがないの」

 

と言っている。今度はお家からお城へ行こうとしていて、彼女の位置は「おうち」に変わっているわけだ。ドゥオドゥオは第1節から第3節の間に、一瞬にして「おうち」に飛んだのか?(笑)もちろんそれは不可能だ。彼女自身、「バスがない」と言っているのだから。

 

であれば、ここで可能な想定は1つだ。彼女は「移動」したのではない。第2節と第3節の間で、ドゥオドゥオの位置関係は逆転(逆転は「移動」ではない、「交換」だ)したのである。

 

なぜ我々は結局「亀山くん」が好きなのか?


みなさん、歴代「相棒」は誰が一番好きですか?

・・・この質問を筆者(ぴんくぱんだちゃん)は幾度となく飲み会やデートの度に問うてきた。

そして落胆するのである。なぜなら、9割の人がこう答えるのだから。

「えー…そんなにちゃんと見てないけど〜やっぱり亀山くんじゃない?」

そんなにみんな亀山くん好き?!?!?!えっ?!だいたいのシーズンをぼちぼち見たことがあっても亀山くんが好き?!?!?!「やっぱり」って何?!?!


ミッチー、もとい神戸尊の「相棒」最推しの私は驚くばかりだ。ちなみに、神戸尊と答えてくれたのは、筆者と同様に重度のクリスティオタクの叔母だけであった。お通夜では右京と神戸のコンビネーションの尊さについて語り合ったものだ。親族の目が冷ややかだったこともよく記憶している。

なぜ右京さんの相棒は「やっぱり亀山くん」なのか?

「初期の頃がやっぱり懐かしいから」とか「神戸・冠城が相棒になると警察内部の話が複雑になるから」とか、そんな理由が最も良く聞こえる気がする。あとは「亀山くんの時代はまだトリックとかネタ切れの感がない」とかだろうか。

・・・うーん。わからなくもなくもなくもなくもない。

しかし、初期つまり亀山が相棒の頃は確かに警察内部の複雑な設定が描かれることは少なかったから、「わかりやすさ」を評価することはできるが、一話完結ものとしての「単純」さが、シーズンを重ねる度に「冗長さ」に感じられたのも確かだろう。

『相棒』は警察内部の複雑な人事・階級や、キャラクターの掘り下げが秀逸なドラマである。したがって、神戸以降の「複雑さ」はむしろエンタテイメントとしては優れていたし、ここまで続いていたのがその証左である。


では、なぜそれでも「亀山くん」なのか?

神戸・カイト・冠城と比較して亀山くんが最も秀でているのは、右京さんとの対照性にある。

並外れた推理力をもち、冷静沈着、絶対的な倫理観を持つ右京さんは、熱血!体力!人情!の亀山くんといることで、最も対照性が際立つ。すなわち、右京さんの天才性や奇人っぽさが最も鮮やかに描かれるのである。

対して、神戸・冠城は「右京さんほどではないが」他のモブに比べたら段違いにエリートかつ頭が切れる。

この「右京さんほどではないが」というのが曲者である。結局、右京さんを出し抜くことはできなかったが、神戸・冠城は、警視庁外部の機関から出向という形で特命係に任命されており、当初はスパイ的な役割だった。つまり、右京さんには及ばずも、捜査一課の面々をはじめとした警視庁内部の人間(そして視聴者)を欺く立ち位置であった。本作の主人公である天才・右京さんと渡り合えてしまう程度には、神戸・冠城は特権的な「相棒」なのである。


理想の「相棒」のかたち
一方、右京さんに比べたら「おバカ」で「熱血」なキャラの亀山くんと右京さんの関係は、放送当初からバディものの定石として、ホームズとワトソンに例えられてきた。

確かに、読者/視聴者と同じかそれ以下の視点をもつワトソン的なキャラクター(亀山くん)は、ホームズ(右京さん)の凄さを際立たせる。ポアロヘイスティングズも全く同じ構図だ。

しかし、推理力などの能力以外に重要なのは、ホームズ/右京さんの「奇人らしさ」、今風に換言すれば、「クィアさ」である。

ホームズが事件を解決するストーリーと並行して、ワトソンはロマンスを展開し、結婚し家庭を持つ。独身男性二人の気ままな同居生活はワトソンの結婚によって終止符を打たれる(ワトソンはその後も何かと理由をつけて妻と暮らす外国からロンドンへ帰ってくるのだが…)。

つまり、ホームズ&ワトソン的バディの定義として、「家族を持たない・異性愛ロマンスに興味のない孤高の天才」と「普通の生を歩む助手的な(能力の劣る)男」という構図がある。

まさに、右京さんと亀山くんだけがこの定義に当てはまるのだ。

全くロマンスの気配を見せない右京さん(バツイチかつ元妻との固い信頼関係から、恋愛から「引退した」という方がしっくりくる)と、作中でジャーナリストの美和子と結婚した亀山くん。

神戸・冠城は、右京さんと同様、独身を謳歌するばかりか、ウーマナイザー的な性質まで帯びていた(特に冠城)。つまり、やや右京さんに似ている。伊丹たちや視聴者から見れば、十分にホームズ的なのである。

もちろん、神戸・冠城は右京と能力が拮抗するがゆえに、騙し合いのようなスリリングな掛け合いを描くことができた。しかし、「卓抜した天才・杉下右京」を望む視聴者にとって、神戸・冠城はややアンバランスにうつったのかもしれない。安心して『相棒』を見るには、天才は一人でいいのかもしれない。孤高の独身も、一人だからウーマナイザー要素や、「独身貴族」の特権性が光るのだ。

・・・『相棒』ファン永遠のトラウマ、カイトくんに触れていないではないか。触れないのはズルいから少しだけ。

筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、カイトくん(最も若い相棒)と右京さんのバディを、「右京さんが『父親』になれなかった失敗の物語」だと思っている。孤高の天才が、カイト(右京さんの盟友・甲斐峰秋の息子)を託され、「育てる」ことを試みる。しかし、右京の厳しい倫理観を受け入れられなかったカイトは、大きな罪を犯す。
この失敗の物語によって、製作側は、杉下右京を「擬似の父親」にすらなれないキャラクターとして、その孤高の天才らしさをさらに強固にすることに成功したのである。

ともあれ、『相棒』の次回作が待ち遠しい。
私は神戸推しだけどね。