みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

T. U. G どこまでも転がる丸い月

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T.U.Gにだけは順位なんかつけられない。そんな矛盾した思いでラップスタアを見ていた。そんな時出された新曲。

 

全部終わったらなる一番星

まだ磨かないと今はただの石

環境が擦った身体 垢が落ち

 

グループサイファーでも、何度も上を見て指を指していたT.U.G。だから、彼のリリックに「石」だけではなく、「星」が出てきてハッとした。あの時「転がるチャンス」と言っていたのは、道端の石(「今はただの石」)だけじゃなくて、銀河系に転がる光る石(星)を指しているのかと。そして、「磨か」れた石が、「擦った身体」が、T.U.Gという一番星だったんだと(「全部終わったらなる一番星」)、そんな気がしたからだ。

 

悔しくてたまらない夜に

浮かぶ顔 月明かり

深く埋めた悩みのタネに

あげ過ぎて水たまり

 

T.U.Gが歌う「夜」は「悔しくてたまらない」ような、そんな暗闇だ。それでも、暗闇でなければ星は光らない。この夜には、この悔しさには、星を輝かせる力がある。だからここではさらに、光の世界ではなく、闇の中の光という矛盾を抱え込むT.U.Gのリリックが、「月明かり」を歌っている。そして「月明かり」が「水たまり」と韻を踏んでいるのがすごい。重なるのは、音(あかり/たまり)だけじゃない。水たまりに浮かんだT.U.Gの顔がそのまま、月になってるのが本当にすごい。悔しいくてたまらないT.U.Gの顔を、足元の水たまりが、光り輝く月へと反射する。音と同時に、天と地までもが重なってる。足元の石が、天上の月へと反する。あの時「転がるチャンス」と歌ってていたT.U.Gが転がるのは、もはや平面な道だけじゃない。地面から宇宙へと、この世界そのものを縦へと反していくものすごい力が、T.U.Gのリリックにはある。

 

忙しく過ごし減った溜め息

アイツの分も背負った都会行き

まだ終わってないんだよ正直

テクもコネもカネも無いけどこんな曲

聞いて欲しいんだT.U.G.

道の端で意思を持ったこの心

丈夫に持つ自分自身 

 

」「都会行き」「正」が「T.U.G(ティー・ユー・ジー)」と韻を踏む。もちろん、「自分自身」もそうだ。この箇所は、ある意味T.U.GがT.U.Gと口に出して、自分が自分と重なっている(まさに「自分自身」)ようにも聞こえる。そういえば、この曲には『ラップスタア』で歌われた「“貰う側から渡す側に”」もセルフサンプリングされている。あの水たまりに写ったもう一人の自分のように、この曲にはもう一人のT.U.Gが映し出されている。道の端で「意志/石」を持った、この心を丈夫に持った、そんなもう一人のT.U.G(自分自身)がここにいる。

 

重ねる日々

積み重ねる日々

 

自分自身。自分という言葉が二度繰り返されるようなこの言葉が、「日々」という言葉で再び繰り返される。そこに、「積み重ねる」という言葉が添えられる。「重ねる日々」と言って、続けて「積み重ねる日々」と歌う。繰り返しの中で顔をだす「積み」という言葉は「」とかけられているのかもしれない。

 

意志を重ねて、石/星を重ねて、月を重ねる。『ラップスタア』で、T.U.Gの石/意志は転がっていた(「転がるチャンス」)。Chanceの英語的語源には、「下降する」という意味があるから、T.U.Gの「転がる」という言葉選びはピッタリだった。でも、この曲のT.U.Gは次のレベルにいる。転がる道端の石が、水たまりの顔が、夜空の星に、月に、姿を変えているからだ。T.U.Gのチャンスは道を転がるどころか、下降するどころか、空を突き抜けて宇宙まで上昇している。ラップスタア。まさに、上へ上へと、星まで、月まで、T.U.Gの日々が積み重なっている。あの日のT.U.Gが上へと歌っていたように、今は私たちがT.U.Gを見上げている。私たちが歩く道端の、水たまりに写る私たち自身の悔しい顔を通して、T.U.Gという星を、月を、見上げている。

 

この曲のYoutubeページを見ると、T.U.Gを大好きでたまらない人たちが幾つもコメントを残している。もらうから渡す側に、そんなハードな道を、T.U.Gは本当に体現したみたいだ。でも、これからもっと色んなことを体現していくはず。そんなT.U.Gを、心から応援している。

 

 

ラップスタア T.U.Gのリリックに勝手に感動&勝手に考察

泥のように寝るのに起きて夢を見る
言葉にできないfeel 紐解くペンシル


あれもこれも過去全部意味があり
叶った先に許せると信じてる


惚れた相手間違ってこんなザマ
感謝しかしてないんだ本当はな


俺の人生は変わらない300万
ただ抜け出したいんだここから


貰う側から渡す側に

ハードなの I know 道の果てに


仲間が追う背中伸びるShadow
お前が言ってくれた間違いない


ただ素直にもっと上に行きたいんだもっと
今も変わらず毎日思うこと


形じゃないもの追いかけてきた
転がるチャンスモノにする今Rapstar

(引用先 https://lyrnow.com/1325226)

 

「泥のように寝るのに起きて夢を見る」

この出だしからもうグッと来てしまった。T.U.Gのラップは、夢から目覚めるんじゃなくて現実という夢へと目覚める(「起きて夢を見る」)、という逆説から始まる。「泥のように寝る」のは彼の1日がハードだから。でもT.U.Gは「ハード」な現実と「追い求める夢」を別々の世界にわけない。「ハード」な現実が彼を「泥のように眠らせる」のに、その現実の中で、T.U.Gは「起きて夢を」見られる。この出だしでもう感動してしまった。

 

「言葉にできないfeel 紐解くペンシル」

「言葉にできないfeel」は、多分「夢」のこと。夢ほど言葉に変えにくいものはない。T.U.Gはそれを「紐解く」ために鉛筆を握る。彼は、起きながらながら夢を見て、しかもその夢を、目覚めた夢の中で紐解こうとしている。起きてから夢を日記に書くわけじゃない。現実から起きながら、現実という夢を紐解く。こうして、夢(言葉にできないfeel)と現実(紐解くペンシル)という真逆の世界は、T.U.Gの言葉で1つに重なる。

 

「あれもこれも過去全部意味があり

叶った先に許せると信じてる」

叶った先、という言葉の頭に「夢が」をつけないのがにくい。続けて、「過去」であったいろんなことが「先(未来)」で「許せると信じてる」と歌う。ここは普通のことを言っているようで、実はT. U. Gがなんか不思議な因果関係を生きていることが、次のバースでわかる。

 

「惚れた相手間違ってこんなザマ
感謝しかしてないんだ本当はな」

「惚れた相手間違ってこんなザマ」は、「あれもこれも過去」の中の1つの記憶だ。ただ、T. U. Gはそれを夢が「叶った先」(未来)の問題として先延ばしにしてない。彼は「感謝しかないんだ」と言ってる。そこに、「本当は」と言うリアルな気づきがくっつけられてる。「叶った先に許せると信じている」と1つ前で歌っていたのに、T.U.Gはもうすでに、T.U.Gを「こんなザマ」にした惚れた相手を許すどころか、「感謝」までしてる。「過去」と「未来」もまた、T.U.Gの言葉の中では1つに重なってる。

 

「俺の人生は変わらない300万

ただ抜け出したいんだここから」

ここで、T.U.Gの「逆説」がさらに具体化する。「300万」は優勝金だ。でも、それじゃ「俺の人生は変わらない」。じゃあ、彼は一体何のために『ラップスタア誕生』に参加するのか?

 

「貰う側から渡す側に

ハードなの I know 道の果てに」

T.U.Gは、どん底から成り上がりたいと言う定番のHIPHOPマインドを歌っていない。彼は、貧乏や底辺から抜け出してラップスタアになりたいとは歌っていない。そうじゃなくて、「貰う側」から「ただ抜け出したい」と歌っている。彼のリリックが貫いてきた「逆説」が、ここで一気に具体化する。「貰う側」から「渡す側」になる。自分のためが、人(仲間)のためと重なる。T.U.Gのハードで幸福な人生が見える気さえしてくる。

 

「仲間が追う背中伸びるShadow
お前が言ってくれた間違いない」

そして次に歌うのは「Shadow(影)。T.U.Gと仲間は、影の中で1つだ。だから、これはT.U.Gのラップなのに、ここで、自然と仲間のセリフが挿入される。「お前が言ってくれた間違いない」。これは仲間が彼へとかけた言葉。まるで一緒に歩く友人同士の影が重なって伸びるように、友達のセリフがT.U.Gの声と重なって、私たちへと響いてくる。

 

ただ素直にもっと上に行きたいんだもっと

今も変わらず毎日思うこと

「形じゃないもの追いかけてきた
転がるチャンスモノにする今Rapstar」

最後、T.U.Gは逆説を畳み掛ける。彼は夢を追い求めるとは言わずに、「形じゃないもの追いかけてきた」と言う。実体がないものなのに、まるで実体があるように追いかけて行くT.U.G。逆説はさらに続く。

 

「転がるチャンスモノにする今Rapstar」

 

「チャンスは転がってる」と言うよくある言葉が、「追いかけて」の一節のせいで、本当に「転がって」いるように聞こえる。「チャンス」に「形」はないけど、それはT.U.Gの前で本当に「転がって」いるみたい。だから彼はそれを「追いかける」ことができる。これらは全部、カッコつけて空回った歌詞とかじゃなくて、ちゃんとT.U.Gに生きられた法則な気がする。頑張ってほしい。

 

 

 

 

 

 

小袋成彬の『分離派の夏』「門出」はどこから来たのかーー話したがらない主人公の謎

 

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小袋成彬(おぶくろ なりあき)のデビューアルバム『分離派の夏』に収録されている「門出」が謎めいている。まず、タイトルの意味が微妙にわかりづらい。そして作品の語り手が「あまり話さないでいい」「それぞれ何も言えないまま」「かける言葉は特にない」のように言葉を使うことに対して一貫して消極的であることもなんだか妙だ。いったいこの曲はどこへ向かっているのか? 

 

この歌には「祝いの門出」という言葉が出てくるため、聞いていると、新しい人生への「門出」っていう感じがぼんやりする。結婚式とか、人生の節目を迎えるイベントの、たとえば卒業式や退職やお葬式のあの別れは寂しいけれど前に進もうって感じを想起させるような音楽だ。気持ちよいビートとストリングス、小袋のリラックスした声の組み合わせに酔いしれてればいいのだが、それらをあきらめたくなるくらい歌詞には不可解な点が多い。

 

あなたが誓うとき

親父の目尻にじりじり

肥えた顎を伝って

無精髭に溶けた

 

式場で新郎新婦が並び、そのそばで父親が涙を流す場面が想起されるだろう。ありきたりだけどグッとくるシーンとして多くの人に登録されているかもしれない(そんなことないかもしれない)。しかしこの感傷的ムードを誘うかに思える場面は、より強烈なものにかき消されながら別の感動へすりかわっていく。このことは文字では決して伝えられないが、音楽を聞けばすぐに引っかかるはず。それは、音声で聞いてこそ分かる「じり」×3の言葉遊びのリズムだ。「じり」が三度流れることで、親父の「涙」は直接的な表現としては消え落ちながらも同時にまた別の形で流れ落ちている。

 

親父の目尻にじりじり

(「じりじり」:ある一定の方向に、ゆっくりとではあるが確実に動いていくさま。じわじわ。大辞林より)

 

いったいこれは「誰の」言葉だろう。もちろん作詞家「小袋成彬の」言葉だ。いや、本当にそうだろうか。「目尻」と「じりじり」という単語がじりという共通の音声を持つことになんの必然性もないが、小袋はこの結びつきがたまたま成立する場面を音に載せる作業を通しておそらくきっとたまたま想起することに成功したに過ぎないのではないか。小袋はいつか誰かに発見されるかも知れなかった言葉の組み合わせの発見者であり、けっして言葉それ自体を所有したわけではない。

 

この文脈でかんがえると、語り手が「あまり話さないでいい」「それぞれ何も言えないまま」「かける言葉は特にない まあ元気でいてほしい」のように言語を使うことに消極的であったことも理解できる。かけるのでも書けるのでもなく掛ける。小袋は作詞家でありながら言葉を所有すること、つまり、能動的に作詞することがペンを握っているにもかかわらず不可能であることに自覚的なアーティストなのではないか。こうやって考えているせいで、「深い愛の物語には 栞をつけましょう」も、物語は書くものではないという意思表示として聞きちがえてしまいそうだ。*1

 

すると、さっきの詩行にはより深みがみつかる気がする。内容と表現が正反対の方向へすれ違うように思うからだ。歌詞が語っている内容は、新たな家族(苗字という所有格)への「門出」である。しかしそれとは裏腹に表現のレベルでは、言語を放棄し、なぜかよくわからないけど書けてしまった、ただじりの音に引っ張られて書くとある景色が浮かんでしまうった、というような書き手が言葉に操られるような光景が見えるからだ。何かを所有するような門出からの「門出」。そのような認識への分離。

 

さらに、親父の涙につづく直後の4行も、いっけん矛盾しているように見えるが筋が通っている。

 

僕の記憶にないから

きっと大切な秘めごと

その思い出の深さに

なんだか心が揺れた

 

「自分の」記憶でないのに、その場面が見えているその何かに心が揺れている「僕」。だが、その場面が現れたのは「目尻にじりじり」と流れるように進む言葉の組み合わせのせいだろう。この流れ、「目尻」と「じりじり」が並んでペアににあることそれ自体になんの因果も意味もない。だがさらに、この言葉の組み合わせの発見が彼によってなされなければならなかった必然性は説明できないという意味で、発見それ自体も彼の手をはなれている、とも言えるのかもしれない。もしここまで言えるなら、出会った偶然のできごとを「自分の」体験として驚くことすらが難しい。

 

飛んだ考察だ。だが、たしかにこの歌のはじめの4行で語り手は飛んでいる。この視点を持つ名も形もない「何か」が、どこへ行ったのかを追うことはできないが、少なくともやってきた場所はわかる。おそらくこの「何か」は上述したような意味での特別な門を飛び出してきているのだろう。

 

夏空にそびえ立つ

うろこ雲を見下ろして

旋回の半ばで

白い街が見えた

 

 

 

*1:「自分が得た知見や知識をフルに動員して、顕在化させていく作業に近かったのかなと。だから何か書きたいと思ったわけではなく、何か降りてきたものを専ら知的・修辞的な操作として掴んでいったという状態なので、没頭してるんですよね。これはなんだろう、言葉にしたらこうだ、でも音楽にしたらこうだって感じで、常に色んな側面を考えながら作っていきましたね。」【インタビュー】小袋成彬 『分離派の夏』 | 「喪の仕事」の果てで歌う - FNMNL (フェノメナル)

エロス・イン・BLEACH!②――剣卯戦はなぜ「エロい」のか?

はじめに

ザエルアポロ戦のマユリ&ネムの描写がエロいという話はしたが、いやもしかするとそれ以上にBLEACH史上最もセクシュアルなのは、剣卯戦だろう。

 

映像化され話題沸騰のこの戦い、なぜエロく、そしてなぜエロスが必要なのだろうか。

 

ファリック・シンボルとジェンダーロール

BLEACHにおける刀とは、死神のみが帯刀を許され、斬魄刀の大きさが霊圧の大きさに比例する、という大変にファリックな(男根的な)モチーフである。

 

刀や銃をファリックなパワーの表象として読む/描くというのは、古今東西の文化に浸透した方法論であろう。BLEACHもその例に漏れず、むしろそのやり方を積極的に採用している。

 

戦闘特化部隊の十一番隊は、(斬魄刀の化身的存在のやちるは例外として)男性が占めている。しかも、「十一番隊では鬼道系の斬魄刀では馬鹿にされ、直接攻撃系の斬魄刀でなければ認められない」との弓親の言葉が示すように、刀を刀として使い「斬る」ことが第一義なのである。

 

一方、治療部隊である四番隊は、隊長・副隊長共に女性であることから、護挺十三隊には明確なジェンダー分業が存在している。

 

卍解できない更木剣八斬魄刀

 

隊長になるには、卍解が必須条件となっているにも関わらず、更木剣八卍解ができない。いわば更木剣八は、隊長(死神としての成熟の最終段階)へのイニシエーションが済んでいないまま、あまりの潜在的強さゆえに隊長になってしまったのである。

 

「未熟ではあるが潜在能力の異常な高さゆえに特権性を手に入れる」という設定は、ジャンプ漫画の定石である(一護もこの好例だ)。一護は主人公であるがゆえ、段階的に斬月との修行を積み、レベルアップしていくが、剣八は最終章まで、「卍解をもたない唯一の隊長」のままである。

 

千年血戦編において、更木剣八のレベルアップがソウル・ソサイエティの必須事項とされたことで、初代剣八、すなわち卯ノ花烈/八千流に「斬術の手ほどき」を受けることになる。

 

剣卯戦は、卯ノ花隊長が更木剣八に出会ったときの胸の古傷を衝かれることで幕を閉じる。戦いの最中、幾度も卯ノ花は更木剣八を刺し殺しているのだが、卯ノ花は回道(治癒能力)を駆使することで、この戦いは更木剣八が己が一度死んだことにも気づかぬうちに繰り返される。

 

この繰り返しの末、更木剣八は自身の斬魄刀に名を尋ね、のちに卍解に至る。=(ハイパーマスキュリンなシンボルである)斬魄刀の使い手としてのイニシエーションを終えるのである。

 

要するに、この「手ほどき」とは、卯ノ花烈/八千流による更木剣八の筆下ろしなんですよ。そりゃあエロいわけだ。

 

「私を悦ばせた男」

剣卯戦が更木剣八の筆下ろしは、卯ノ花烈/八千流の最期が胸元の傷を貫通する描写で終わる。しかも卯ノ花を貫通するカットが二種類も描かれることからも、ここはかなり性器挿入を意識されているだろう。

 

 

BLEACH_59巻_p. 120

BLEACH_59巻_p. 116

 

 

 

では、卯ノ花烈/八千流は、デンジにとってのマキマ的な「母であり最初の女」的なテンプレのエロスにすぎないのだろうか?

 

筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、卯ノ花隊長には母性とエロスの混同とは多少異なる特徴づけがなされているように思う。

 

孤児である更木剣八が、戦いの最中何度も死ぬのを卯ノ花隊長の回道によって治癒される、すなわち「生まれ変わる」という筋書きは、まさに卯ノ花烈/八千流と更木剣八の疑似母子関係とも読み取ることができる。

 

しかし、卯ノ花隊長が亡くなるときのモノローグ、「私を悦ばせた男よ」に込められる、刀の貫通と併せても、明らかに性的な含みをもつエクスタシーの瞬間である。

 

更木剣八との関係は、師弟関係とか、疑似親子である以上に官能性を帯びる。

しかも、更木剣八のイニシエーション/筆おろしの踏み台として卯ノ花隊長がいるのではなく、彼女の「うずいてしかたなかった」傷を貫通させるよう卯ノ花隊長自身が仕向けることで、更木剣八のためであったはずの戦いが、いつのまにか卯ノ花隊長の性的なクライマックスを迎えることが到達点になっている

 

卯ノ花隊長は、ややもすれば「男性主要キャラの成長の踏み台的母性エロス」の型にはまってしまうところを、彼女の性的な到達感をこの戦いのクライマックスとして据えることで、彼女の不在は逆説的に強烈である。

 

ユーハバッハ戦に臨むソウル・ソサイエティの戦略として、(特記戦力に匹敵するであろう)卯ノ花隊長が死ななければ特記戦力の更木剣八の力は解放されないという点からして、彼女の強烈な不在という逆説はとんでもないインパクトだ。総力戦である以上、実際的に戦力を考慮するとき、卯ノ花隊長は生き残るべきだったのだから。

 

一見、自らの死をもって更木剣八を解放し、ソウル・ソサイエティの勝利に自己犠牲的に貢献したかに見える卯ノ花烈/八千流は、実はどこまでもエゴイスティックに自身の欲望を追求したのかもしれない。

 

地獄に落ちた「死剣」卯ノ花烈は、今後どのような姿を見せてくれるのだろうか。

楽しみでならない。

 

 

他力本願―宇多田ヒカル「Automatic」とVaundy「不可幸力」の抗えなさ

最近、中島岳志さんの『思いがけず利他』を読んでいたら、宇多田ヒカルのデビュー曲「Automatic」が引用されているのを見つけた。

それから「イッツ オートマーティック そばーにいーるだーけで〜」が永遠脳内再生されている。いまも文章を書きながらサビが止まらない。PVで、あの中腰というか、屈んだ姿勢で横揺れしている感じ。わたしの身体まで勝手に動く。

 

なんてautomaticな曲なんだ!!

 

中島さんは次のように述べていた。

It’s automatic

側にいるだけで その目に見つめられるだけで

ドキドキ止まらない Noとは言えない

I just can’t stop

 

「あなたがそばにいて、見つめられているだけで、ドキドキ止まらない。ドキドキしたいと思っているわけでも、ドキドキしようと思っているわけでもない。どうしようもなくドキドキしてしまう。それはオートマティックなもので、意思を超えたもの。不可抗力です。

『業』とは、 It’s automaticなのです。」(39)

 

中島さんが宇多田ヒカルを引用していたのは、「業」を説明するため。

「業」とは「私の力ではどうにもならないもの。縁という力に支配されているもの」で、私たち人間も仏もまた「業」に突き動かされているという。

鎌倉時代の仏教家である親鸞は、「自力の限界」をみつめたときにやってくる「他力」の瞬間に私たちは救済されると考えた。この「他力」というのは仏の力なのだけど、私たち人間も「どうしようもない」んだけど、私たちがその「限界」に徹底的に向き合ったとき、仏もまた私たちを「どうしようもなく」救ってしまうのだそうだ(33–9)。

 

15歳の宇多田ヒカルは、自分の気持ちのどうしようもなさという「自力の限界」と、相手もまたどうしようもなく反応しているという「他力」、恋愛のautomaticallyな感じを歌う。

宇多田ヒカル「Automatic」

七回目のベルで

受話器を取った君

名前を言わなくても

声ですぐに分かってくれる

電話をかけた自分は、もしかしたら相手が応えてくれないんじゃないかとドキドキしていたことだろう。「君」は目を見つめなくても、自分をドキドキさせてくる。そして、「君」はこちらの名前を言わなくても「すぐに分かってくれる。」

 

声や音に対して瞬時に反応するという感覚は、普段の生活でも経験することだろう。懐かしの人の声を聞けば(良かれ悪かれ)ドキッとしたり、大きな音に驚いて身体がビクッと動いたり。そのような即座的な反応のあとに「あぁ、懐かしい人がいるのでちょっと挨拶しよう」とか「ぎょえ!アイツいるから逃げよう」とか「いやー全然びっくりなんかしなかったよ、平気平気」とか思う。

唇から自然と

こぼれ落ちるメロディー

でも言葉を失った瞬間が

一番幸せ

 

嫌なことがあた日も

君に会うと全部フッ飛んじゃうよ

君に会えない my rainy days

声を聞けば自動的に

Sun will shine

まさに、わたしにとっての「Automatic」のように頭に残るメロディーがあるのだろう。でもこの脳内再生を、鼻歌を止めないと、「君」の声をじっくりと聞くことはできない。あるいは、自分が発する言葉がメロディーのように流れているのかもしれない。自分が話すのを止めないと「君」の返事が聞けない。

会えなくても「声を聞けば自動的に/Sun will shine」なんだから、「君」の声にはすごい力がある。いつ太陽が昇って沈むかなんて変えられることなんぞできないんだけど、当たり前なんだけど、その当たり前を覆しちゃうのが「君」なんだな。

 

ここまで宇多田ヒカルの歌詞をその通りに読んできただけなんだけれど、恋愛は「意思を超えたもの」とか考えるのは想像がつくことなんだけど、自分がその渦中にあるとき、自分の可能性と限界、外部的な力の大きさとそれを受容する力を意識できるのか・・・というと、それは想像が難しい。日常の「難しい」があのリズムであの声で歌われる「Automatic」から逃れられない・・・中島さんの言葉を借りると「あちら側からやってくる不可抗力」なのである(42)。

 

そして思い出したのが、Vaundyの「不可幸力」だった。タイトルのまんま。

「なんでもかんでも欲しがる世界」では、自分が何を求めているのか、なぜ求めているのかが分からなくなったりする。しかし、その行き詰まり感に向き合うことから新しい世界が見えてくる。らしい。

あれ なに わからないよ

それ なに 甘い理想に

落ちる

 

Welcome to the dirty night

みんな心の中までイカれちまっている

Welcome to the dirty night

そんな世界にみんなで寄り添い合っている

Welcome to the dirty night

みんな心の中から弱って朽ちていく

Welcome to the dirty night

そんな世界だから皆慰めあっている

「僕」は「the dirty night」の住人にとてつもなく歓迎されている。多くの人たちにとって「dirty night」に向かうことは堕落を意味するのだろう。だって、汚いし暗いんだから。

だけど、実は違う。そこは落ちてしまえば、皆で寄り添い慰め合うところだった。自分ひとりの力の限界を感じ、それにじっくり向き合ったとき、他者の力に気付き、支えられるようになり、自分も支えるようになる。「不可幸力」は「幸せは(抗えない)外部からやってくる」ということ、そして「自分もまた他者に幸せを与えている、かもしれない」ということも意味しているのだろう。

 

だめだ、もう明日は赤いセーターにカーキのパンツ履いて踊りに行かないと・・・

 

引用文献

中島岳志『思いがけず利他』株式会社ミシマ社、2021年。

 

【考察】『ぐりとぐら』の呪い――『作りたい女と食べたい女』に思うこと

 

はじめに

『作りたい女と食べたい女』(以下『つくたべ』)が2022年11月29日よりNHKでドラマ化されている。ジェンダーセクシュアリティ表象に関する懸念の声が放送開始前からトレンド入りするなど、単に人気漫画が映像化されることによる盛り上がりというよりは、もう少しイデオロギー的に、あるいは社会問題の一側面として注目を集めている。

 

筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、ゆざきさかおみによる原作のファンである。

本記事では、映像については言及しない。あくまでも、漫画としての本作をどう受け取るか、ということに焦点を絞りたい

 

クィア・ロマンス」という新たな王道ジャンル

きのう何食べた?』(よしながふみ)の原作&映像化作品のヒットが記憶に新しいが、近頃「クィア・ロマンス」とでもいうべき漫画ジャンルの人気が急上昇している。過剰に異性愛中心主義的であった地上波TV連続ドラマという市場に、こうした作品が頻繁に取り上げられるということは、まあ喜ぶべきことだろう。

 

『つくたべ』のヒットに思うところがある。

本記事はただの感想であり、全く考察ではない。そして、本作品にやや批判的に聞こえる書き方もしているが、筆者はわざわざ単行本でこの作品を定価で購入し、何度も読み返す程度には『つくたべ』が大好きだ。ディスるための記事ではなく、この作品をどう受け入れていくか考えることが本記事の目的である。

 

『つくたべ』のイデオロギー性(やや『つくたべ』あらすじ紹介 飛ばし読み推奨)

料理を「作りたい」(が、小食)の野本ユキが、(「女性の規範的な食事量」よりもはるかに多く)「食べたい」春日十々子という隣人に料理を振舞うことで、二人の女性が親密になってゆくさまを『つくたべ』は描いている。

 

十々子との距離が近づくにつれてユキが自身の性指向をレズビアンと自認するようにいたる過程が大変丁寧に描かれる。

 

十々子との初めての外出のために着ていく服のコーディネートを検索すると、「モテ服」などの異性愛中心主義とルッキズムゴリゴリの検索結果しか得られなかったり、

レズビアン」という言葉を検索したときに、ヘテロ男性がエロティックにレズビアニズムを消費するようなメディアが多いことが示唆される。それにユキが「異性にモテるための服しかないのか」と説明的に落ち込むまでがセットである。

 

さらに、アセクシャルレズビアンをカムアウトしている矢子可菜芽に、ユキが自身のセクシュアリティについて相談する回では、可菜芽のレクチャー的な口調から、読者もユキと共にセクシュアリティの多様性や各語の定義を学ぶ仕組みとなっている。つまり、本作は「LGBTQの教科書」となることが隠れていない裏テーマとなっているのである。

 

また、各話の扉に「嘔吐表現注意」や「同性愛差別的表現が含まれます」などの注意書きがかなり詳細に記されており、本作は、表現とポリコレの問題にも、明確にスタンスを示している。

 

つまり、「ポリコレに配慮しすぎると作品はつまらなくなる」というジレンマに対して、多少つまらなくなってもポリコレに振っているのが本作品だ(『つくたべ』の説明的な言い回しと注意書きの多さは、一定数の読者を確実に遠ざけているだろう)。

 

筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、この徹底した姿勢が好きだ。だってこの作品は、ジャンプとかりぼんとかアフタヌーンの連載じゃないんだから。目的の90%を読者ウケにする必要はないのだ。

 

ぐりとぐら』と『つくたべ』(ここからようやく考察!)

ユキが初めて十々子に晩御飯をふるまったとき、

「ふわふわのおっきなカステラ」

「だからずっと探してたんだ 一緒におなべをからっぽにしてくれるひとを」

 

というユキの幼少期回想モノローグが挿入される。

 

「ふわふわのおっきなカステラ」とはもちろん、ぐりとぐらのカステラのことである(著作権問題上なのか『ぐりとぐら』という作品名は言及されないが)。

 

ぐりとぐら』にユキが憧れていたことは、作中に何度か描かれているから、『ぐりとぐら』は『つくたべ』創作に重要なインスピレーションを与えているのだろう。

 

説明不要かもしれないが、『ぐりとぐら』は二匹のネズミを主人公とする大ヒット絵本だ。青い服の「ぐり」と赤い服の「ぐら」は、仲良くデカいカステラを作ったり海水浴に行ったりする

 

そして気になるぐりとぐらの関係性やジェンダーの問題であるが、作品を読むだけでは、「ぼくらのなまえはぐりとぐら」という文言から、ぐり(青)がおそらく男の子ということしか推測できないようになっている

 

その後作者がぐりとぐらは「ふたごのきょうだい」という設定を公開してしまう。

「きょうだい」という平仮名表記なので、兄弟かもしれないし兄妹かもしれないという想像の余地は残してくれているのがせめてもの良心か。「ぐら」(赤い服)をA音で終わる名前の響きと服の色から女の子と読む読者も多かったことは容易に推測できる。

 

ちなみに、筆者(ぴんくぱんだちゃん)は『ぐりとぐら』の余計な作中外での設定公開について福音館書店を未だに許していない。

 

つまり、ぐりとぐら』は、作品だけを読んでいる子供の読者にとって、ジェンダーや関係性を曖昧にされた二人組でしかないのである

 

おそらく、『つくたべ』のユキの憧れを『ぐりとぐら』に設定したのは、上記のような理由からだと思われる。ジェンダーも関係性はどうでもよくて、ただ仲が良いだけで一緒にいる二人。一緒にいる要因がジェンダーや関係性から脱中心化されている、という点から、ぐりとぐらはユキと十々子のロールモデルなのである。

 

ぐりとぐらの組み合わせが、『つくたべ』の二人のロールモデルとなりうるもう一つの理由は、子供向け絵本の主人公であるぐりとぐらの性別の曖昧さが性の未分化を前提とするものでもあるからだろう。『つくたべ』は、ジェンダー規範への抵抗を重点的に描くが、彼女らの性的な欲望については意図的に(まだ)描かない。レズビアニズムをヘテロ的性的視線によって消耗するポルノ産業への抵抗もあるのかもしれない。

 

ぐりとぐら』の呪いと選択的家族

ユキが『ぐりとぐら』的なパートナーをずっと探していたのだ、と認識する場面は、大変ロマンティックで、こういうのに「ああ素敵」と思うのはもう仕方ない。犬猫が死ぬ話が自動的に悲しいのと同じだ。

 

ユキだけでなく十々子も(十々子は内面描写がかなり少ないにもかかわらず、わざわざ両者別個の場面で)、「選択的家族」という言葉を耳にし、居心地の悪い血縁の家族のオルタナティブとして「これこそ探していたものだ」というようにその概念を受け入れる。「女らしくない」量を食べても受け入れてくれるひと。「一緒におなべをからっぽにしてくれる」ひと。自身の意思で選択した相手。

 

きのう何食べた?』と同様、クィアカップルの恋愛ストーリーに食事の描写を伴うのは偶然ではない。「家族」になることの象徴的な振る舞いに食事があるからである。

 

しかしこれ、クィア恋愛模様が、異性愛の模倣と受け取られかねないのではないか。

 

ややマスキュリンな十々子がフェミニンなユキに食費を渡して、料理を「作る」-「食べる」の関係を結ぶのは、あの忌まわしき「私作るひと、僕食べる人」というハウス食品のCM(1975年)を想起させる

 

おそらく本作品のタイトルは、この悪名高い流行語を踏まえて設定されているのだろう。究極的に異性愛規範的なCMのタイトルを、レズビアンカップルのラブストーリーのタイトルと置き換えてしまうという戦略である。

 

ところが、この戦略、結局クィアであろうとも、異性愛規範的なパートナーシップの模倣を望むかのように取られかねない。さらにぐりとぐら』の呪いともいうべき「パートナーをずっと探していた(そして見つけた)」という、対(カップル)幻想の系譜をなぞっているように見える。

 

もちろん作者は上記の点は折り込み済みで、これからポリアモリ描写やアセクシャル描写を描くことでこの問題を解決しようとしているのかと予想する。

 

でも、色々なケースを描いたからって、この対幻想のプロットは脱色されることはないのではないか。それくらい、セクシュアリティを問わず、「ずっとたった一人のあなたを探していた」的な対幻想プロット、すなわちぐりとぐら』の呪いは強いのである。

 

ぐりとぐら



 

 

 

 

 

 

 

 

【考察】「剣八」の崩し字以外にも意味がある?!卯ノ花烈/八千流の苗字の秘密 

卯ノ花烈/八千流という沼

初代護廷十三隊のビジュアル、そして翌週には隊長のフルネームが発表され、BLEACH界隈は大変な盛り上がりを見せている。齋藤不老不死はトレンド入りを果たした。

 

「齋藤不老不死」や、「松本乱菊」などが好例だが、久保帯人のネーミングは「普通の苗字+特徴的な名前」というような組み合わせを取ることが少なくない(日番谷冬獅郎など例外も多くいるが)。

 

今週発表された初代護廷十三隊隊長の名前には、四楓院など既出の名家の苗字や、逆骨など、明らかに物語設定に関係のある苗字を与えられた者もいる。

 

では、卯ノ花八千流はどうだろうか。

普通の苗字+重要なgiven nameのパターンなのだろうか?

 

BLEACH連載当時から、卯ノ花烈という名、烈の部分を崩すと剣八になるという考察は出ており、その後最終章で卯ノ花烈四番隊隊長は初代剣八、すなわち初代十一番隊隊長、そして更木剣八最愛の人、卯ノ花八千流であったことが明らかになった。

(この扉絵から「烈」=「剣八」の崩し字説が上がった。)

 

つまり、我らが卯ノ花隊長は、下の名前に関して既に多くの考察+伏線回収がなされてきたわけである。

 

今回は、卯ノ花隊長の苗字について考えてみたい。

筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、卯ノ花という苗字にあえて意味を見出すとしたら、という方向性で考察してみた。

 

そもそも卯ノ花って、「おから」のことだ。

おから

あの、白くてふわふわしたヘルシーフードの代表選手。

穏やかな卯ノ花烈四番隊隊長時代から、「好きなもの:濃い味 嫌いなもの:薄味」がしばしばネタにされる卯ノ花隊長だが、その嗜好からいえば「おから」なんて一番嫌いな類のものだろう。

『カラブリ』p. 90より

 

正体が判明する前は、あの優し気な雰囲気を、あの優しい味の食べ物が体現する苗字なのかと思ってした。

 

しかし、「おから」とは、特定の地域では「きらず」と呼ばれることはご存じだろうか。

(参考URL:https://otonanswer.jp/post/63753/

 

というのも、「おから」は包丁を使わずに調理できる(「切らず」)のため、縁起物として「きらず」と呼ぶことが好まれるらしい。

 

ちなみに筆者は、山田詠美の『無銭優雅』という小説で、主人公の恋人が「おから」を「包丁を使わないから「きらず」っていうんだよ」と教える場面を読んだことがある。

 

あの、卯ノ花隊長、いや、初代剣八の苗字が「斬らず」?!?!

偶然なわけがない。

 

剣八とは、「幾度切り殺されても絶対に倒れない」当世代最強の者に与えられる称号である。

つまり下の名前は「斬られず」、苗字の「卯ノ花」は「斬らず」なのだろか?

 

初代護廷十三隊の頃は「空前絶後の大悪人」だったという卯ノ花烈の苗字が「斬らず」の意味を持つとするならば、それは単なる頓智なのだろうか?

それとも、「斬らず」の意味を持つ「卯ノ花」を苗字とする家系の者であるならば、卯ノ花隊長の出生は、今後何か明かされることがあるのではなかろうか。

 

そもそも、初代の頃の「卯ノ花八千流」という名は、「あらゆる流派・あらゆる刃の流れは我が手にありと、彼女自ら名付けた」とされている。ということは、元々八千流ではない名前を与えられていた可能性もある。

 

更木剣八草鹿やちるのように、辺境の流魂街出身である場合、自身の苗字を出身地とし、自身で考案した名前を名乗る場合もあるが、今のところ「卯ノ花」が流魂街の名前であるという情報は出ていないだろう。

 

ということは、苗字もない(出生もわからない)生まれであるなら、「斬らずの八千流」と自ら名付けたことになるわけだし、「卯ノ花」が本当のfamily nameであった場合、それは「斬らず」を掲げる家系というわけ。

 

え?卯ノ花さんは一族の反逆者になっちゃうの?!などと、どちらのパターンにせよ想像が膨らむわけである。

 

今後、卯ノ花八千流のgiven name(出生時つけられた下の名前)が明かされることはあるのだろうか?また、「卯ノ花」とは彼女のfamily nameなのだろうか?

 

今後のアニオリ情報がますます楽しみである。

 

そしてもう一つ追記。

更木剣八の嫌いな食べ物は、納豆。理由は「切れない」から。

納豆も卯ノ花/おからも、もとは同じ大豆である。

ほんとに剣ちゃんったら、、、もう、、、。

 

「見えない」の「三重苦」をよじ登るーー大島弓子「恋はニュートンのリンゴ」タイトルの意味を考察する

謝辞*1

 

 

 

考察⇩⇩

 

 

 

最初のページ。

 

書き出しの一文と、その下の女がなかなかなかなか結びかない。ちょっとしたコスプレにすら見えなくもない。この意味で、「いない」「どこにもいない」というサトコの心の声は、八歳の女の子を探す読者の声とも谺するかもしれない。

 

この「八歳には見えない」という違和感はしかし、漫画の最後まで解消されない。はずだったのに、読んでいくうちこの違和感は忘れられ、漫画はふつうに読み切れてしまう。たしかに2ページ目(下)に描かれた肩上のサトコは八歳にも見えなくはない。無意識にこうしたパーツだけを拾って都合よく読んでいるせいか、小学二年と大学二年の恋?物語を読み進められてしまう。

 

2ページ目

 

なんでこんな漫画を描いたのか、とわざわざ大島に問わなくても普通に読んでれば面白いのだけど、どうしてもその理由が気になる。読書体験からすぐ主観的な連想に飛びつけば、作者が「ハンデ」を逆手にとってみせた説を出せるのだがそれは浅い。大島は語ることが困難な設定をヘレン・ケラーさながら自らに与え、その負荷をものともせず読者に面白く漫画をプレゼンすることで、かえって自分の画力やストーリーテリングの実力、培った技巧のようなものを証明したのでありますとかなんとかーー。

 

けど、じゃあその「技巧」ってのは何なのよ。それを教えろよっ。

 

そう思って作品を読み返してみるとき、実はもうこの最初の2ページで大島の技巧が凝縮されている可能性に気づく。2ページ目に登場するヘレンケラーの話が、いま問題にしているサトコの「見た目と年齢の不和感」と無関係ではないように思われてくるからだ。つまり、1ページ目を見て「八歳には見えない」と感じる読者の「見えない」と、ヘレン・ケラーの三重苦の一つ目である「見えない」はねじれながらどこかでつながっていはしないか。さらにこの「見えない」は、タイトルが恋を視覚的にあらわした諺「恋は盲目」を別の表現へずらしたものになっていることにつながってもいないか。これら三つに編み込まれた「見えない」をほどくことができたら、ペンを握る大島の腕のようなものが見えてきそうなのだ。

 

 

読者と登場人物の視差による「見えない」

まず、1ページ目のセリフと絵の不和感の原因は何であったか。割り切ってまとめればそれは、キャラクターを構成する「身長、実年齢、精神年齢」の三要素のミスマッチ感だと言えるだろう。つまり、サトコは「見た目はオトナ、頭脳もオトナ、リアル八歳の小学生、その名も(でもべつに黒の組織に薬を飲まされたわけじゃない)」という、重なるとその姿が見えづらくなる要素を揃えたキャラクターなのだ、と。

 

当然、それは解消されるべき不和感なのか、という指摘も聞こえる。自分の先入観や偏見を捨て、背もIQもすごく高い八歳に違和感を感じる自身の認識をあらためる、とかの方法もあるから。だが、この記事ではサトコの「見えづらさ」は作者の技巧よる意図的なものとして描かれていると考え、大島の技巧それ自体を問題にしたい。というのは、この漫画は、法に触れる歳の差カップルに対する社会道徳的な違和感という問題を前景に置きながらも、同時にまた漫画という媒体の特性を活かしてつくられた違和感を後景に隠しているように思うからだ。

 

その違和感とは、漫画の読み手が見ている三時子と、登場人物が見ている三時子の視線をずらすという大胆なウソによって表現されている。たとえば、泡盛は三時子に二度目に会った時その姿をすぐに思い出すことができていないのだが、これは1ページ目、2ページ目を読んで彼女の背の高さを特徴としてとらえた読者からすると明らかに奇妙なシーンとしてうつるだろう。

289ページ

 

ここからわかるのは、三時子が、周囲の人間からは漫画のコマに描かれている姿とは異なり、他の小学生に紛れてわからなくなるようなサイズとして見えていることだ。とすると、八歳のサトコに違和感を感じているのは読者だけってことになる。漫画のコマのなかにいる登場人物たちにとっての三時子は、八歳なのにやたら頭が良い「おかしな女の子」にすぎない。読者にはサトコを見えにくくする「ハンデ」が与えられているのに。

 

見えてるやつもまた「見えない」

ところが、この漫画における「見えない」は両義的である。「ハンデ」は読者だけでなく、サトコの本来の姿が見えている登場人物にも課されている。というフェアネスがあるようだ。

 

サトコの家族、PTA、警察、国家権力や、泡盛に近づいてスクープ記事を書こうとする女たち。彼らには、泡盛が児童誘拐犯に見えている。もしこれらの人々が読者と同じようにサトコを見えていれば、少なくともすぐにはサトコが八歳の女の子だと気づかないはずだ。これに対し、読者にとって、サトコが八歳には見えないがゆえに、泡盛のとなりにいても違和感がないように思える。つまり、

 

読者には二人がカップルに見え、登場人物には彼らがカップルには「見えない」。

登場人物には泡盛が犯罪者に見え、読者にはそのことが「見えない」。

 

「見えなさ」の相対化と「見える」の相対化。見え方は非対称だが、それぞれ死角があること、盲目にならざるを得ないことに関して両者は同じ問題を抱えている。という書き方をしている大島はフェアだ。つまり、大島は、法に触れる年の差カップルに対して批判的な目を向ける役割を登場人物に与えつつ、その是非を問わせない視点を読者に与えることにより、視点を漫画のなかに二重化して両方の見えなさを描く。しかも、それでいて作者の自分はこの二つの対立のどちらについたと明言することなく、最後までこのあいだの均衡のなかにいるというのが、大島戦略なのではないか。と思いたくなる。

 

しかし、これだと二項対立の脱構築(二項の外ではなくその内部にとどまることで、二項を対立させている権力・制度を自壊させる)をなぞるにすぎない。もっとこの漫画だからこそわかること、ならではの真理のようなものがあるはずだ。大島はもっと高みを目指し、きちんと答えを出している、と仮定したい。実際、漫画の最後で、サトコと泡盛は高いところにいる。その答えは、タイトルで待っているニュートンに聞いてみると解けるかもしれない。

 

言葉に気が付くと「見えない」

タイトルが「恋は盲目」という諺をもじったものであるという仮説は、すでにイントロでふれたのだったが、このもじりの際に、大島は「恋は開眼」とかの誰でも思いつきそうな反転をおこなうのではなく、「ニュートンのリンゴ」へと変身させた。このおしゃれなひねりの仕組みはなんなのか。

 

ニュートンのリンゴ。これは当然、重力/引力の発見に関わっている。そして、この発見は、これまで議論してきた人間の盲目性の話と無関係ではないだろう。というのは、ニュートンのすごさは万有引力の法則を唱えたからすごいのだが、より本質的なすごさは、重力や引力という「目に見えない」ものを発見したところにあるだろう。

 

それだけではない。この発見はさらに、常識の放棄という点でグレートだ。なぜなら「リンゴはなぜ落ちるか?」という問いに、そもそもリンゴは落ちているだけなのか?引っ張られているのではないか?という逆説、つまり、逆方向のエネルギーを頭に描けたことがすごい。

 

さらに、このニュートンの功績を言い換えれば、言語によって獲得される知識の放棄とも言える。「リンゴの落下、りんごが木から落ちました」という言語表現は、一度知ってしまうとあまりにも日常的であるために、定着するとそれ以外の発想が難しくなる。あまりにも有名な神話、アダムとイブの墜落もまたりんごの落下を定着させる知識のひとつかもしれない。

 

この文脈において、漫画の2ページ目におけるヘレン・ケラーが出てきていたのは入念な準備の上であったと考えられる。

 

「言葉に気がつく前のヘレン・ケラーみたいな気分 なかなかなかなか自分が生まれないジレンマ」

 

言葉に気がつくことで見えるというヘレン・ケラーの有名な「ウォーター」は、タイトル以外では直接言及されることのないニュートンの見え方と正対照になっている。大島はむしろ人間の言語獲得、人間の知識を放棄する方向にむかったさいに真の発見があることを期待しているようだ。

 

これはつまり漫画の1ページ目が歩行から始まり、最後が木登りで終わっていることに連動している。しかも泡盛は、兄に椅子に縛り付けられていたため2足歩行に苦労しているコマもある。

 

332ページ

 

つまり、サトコと泡盛は、人間よりは猿へと、「見えない、聞こえない、話さない」の三重苦を、むしろ「見ざる、言わざる、聞かざる」を徹底することでニュートン的なパワー(現実を見ないで、真実を発見する思考法)を手に入れたのだろう。サトコが天才だったのも単なる突飛な設定ではなかった。

 

こんな漫画を描き終えた大島はきっとウキウキだったはずだ。

 

334ページ

 

*1:本記事は2022年8月21日に行われた「みんなのBento」読書会(夏休みBento!!)での議論を踏まえたものです。時間が経ってるから誰が何を言っていたのかを正確に区別できない、というわけではなく、その書き方が非常に面倒くさいのであきらめてしまいました。すみません。そのため、個々の発言を引用せず全て自分が思いついたかのようにこの記事を書いてしまっていますが、ほんとうは読書会で出たアイディアの集積がベースになっています。ありがとうございました。

出てこないのはサメだけではない 『ノー・シャーク』 馬鹿サメ映画を馬鹿真面目に考察してみた

 

鼻ピかっけえ金髪ギャル、コニーアイランドのビーチに上陸。

「猫のトイレ」と名付けたビーチに座った彼女の願いは

サメに食べられて肉の破片になること。

とか言いながら浅瀬のほうをウロウロしているのだけど。

 

 

 

 

 

考察。

 

No Parking「駐車禁止」をもじっていることがうっすらわかるポスター

 



 

No Shark

この映画は「排除」を突きつけている。

だが、いったいそれは誰に対してか。

 

なるほどタイトルはたしかに「サメ」を除外している。だからこれが「サメなし映画」とラベリングされ、『ジョーズ』など他のサメ映画との比較されるのも理解できなくはない。しかし、このような便利な図式をつかわずにタイトルの頭についたNoを考えられないだろうか。その一つの方法として「除外」を単にサメに向けられたものとするだのではなく、この映画が予算をなるべく削減してつくられるインディー映画であることに向けてはどうだろう。こうすれば「ノー」は映画自身に突きつけられていると考えられる。

 

 

必要最小限。

 

主演:ギャル1名

(厳密には途中でプロンプターが入るがむしろ際立つのは二人の違いのなさの方)

 

声優:必ずしも俳優と同一でなくてよい。二種類の声が必要。

 

脚本:フェイスにずっとしゃべらせ、他の俳優にセリフを与えない。登場人物は意外と多く、画面上に俳優の姿は見えるが、特に演技らしい演技をするわけでもない。

 

舞台:海岸

(厳密には7つの海岸だがむしろ移動のたびに際立つのはそれらの違いのなさの方)

 

 

 

 

しかしこのように「排除」の主題は予算の縮小に伴うロケーションの固定、少人数稼働といった映画自身に向けられている一方で、映画の画面上で起きていることに的を絞れば、主人公チェイスが他者や外部世界に対して行う「排除」という別の形で反復されている。

 

 

一つ目は、現実世界のレベルでの排除。

 

彼女は海岸にいる人間を追い出そうとしている。ただし、たんに全員を追い出すわけではなく、追い出すためには接触が必要というパターンがある。彼女が接触した人間たちが軒並み画面から消えていく。ちょうどサメは獲物に追いつくときに死が与えられるように。事実、チェイス本人が自分をサメと重ねている場面もあった。

 

 

 

もう一つは、映画手法を利用した排除だ。

 

場所として排除するだけではなく、モノローグをぶっ通すことで音声的にも外的な音を一才遮断している。環境音がゼロである。海の映像しか流れないこの映画でいちども波の音や、ビーチで遊ぶ人々の声はきこえない。代わりに異常な速度と、ありえないくらい感情の込められていない均一なトーンで語られるモノローグがしきつめられている。

 

急に暗転する場面。「目を瞑ると何も想像できなくなる」というチェイス自身が自らの病気と語る症状は、実際には暗闇をつきつけられたのが観客としての私たちであることを思えば、強制的に目を閉ざされ、見ていた映画の世界から締め出されたともとらえらる。このように、この映画が「ノー」を突きつけているのはサメであることを通り越し、語り手の外部にある一切のもの、しかも観客すらもが排除されようとしていたのかもしれない。

 

 

しかしながら、彼女が取り除けないものがあるように思われる。

 

それは彼女の名前チェイスに象徴される「追う」主体である自分自身だ。これは自殺を予期させるかもしれないが、そういう話ではなく、ただ単に彼女は自分自身には物理的・精神的に追いつけないのだと思われる。このことは彼女が一生しゃべるのをやめないことから示唆される。別の言い方をしてもいい。彼女は亀を追うアキレスのように自分の舌/言語(tongue)に追いつけない。

 

ノーシャークとはこのような意味での追跡不能性、つまり「ノーチェイス」という標語(禁止ではなく不可能)として読み替えてもよいのかもしれない。

家カレーの謎〜カレー漫画『今日もカレーですか?』〜

 

 

今日も一日が過ぎるのが遅くて気が狂いそうなので、kindle unlimitedで漫画を探して読んでいる。そこで見つけたカレー漫画、『今日もカレーですか?』。印度カレーカリー子のレシピを爆読みしたせいでサジェストされたのかもしれない。

 

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黒部ちな、18歳。
この春、上京して来ました。
不安はいっぱいだけれど、ここから私の・・・カレーなるキャンパスライフが始まる!?

女子大生×カレー×青春!!

実在の名店たちが多数登場する
超本格カレーストーリーここに開幕!!

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実在の名店?

料理系かと思ったら、孤独のグルメ系の実レポ系グルメ漫画じゃないか。一身上系の都合で東京のカレー屋には行けないけど、しかし行けないからこそ読みたい。気づいたらダウンロードしていた。

 

目次を読むと、色んなカレー屋が並んでいる。いい感じ。でも左側のコマはどの「お店」でもない。このコマはどう考えても「家カレー」だ。第一話は中村屋なはず。さっさと見せてくれ、中村屋の、あの魔人のランプの上半分切ったみたいな容器に入れたカレールーを、、、、と、そんなにいらつかなくてもちゃんと中村屋のカレーは出てくる。しかし、そこにはなぜかあるカレーの影がチラつく、、、、

 

 

「私の知ってるカレー」、それってなにカレー?もちろん「家カレー」だ。中村屋のカレーを食べて開口一番、「え!?私の知ってるカレーと全然違う!」って、普通なんだろうか?「複雑な味がする、、、」。家のカレーと比べてるんだからそりゃそうだろう。

 

こいつ、いつまで「家カレー」の話する気だろう?また「複雑」って言ってるし。でも拙者にはわかる。この漫画は、実在のカレー店をルポってく漫画と見せかけて、実は究極の謎である「家カレー」をルポするという真意を隠しているに違いないコポォ。「中村屋のカレー、、、家カレーと違う、、複雑、、、、」というこの一連の流れは、そのための屈伸にしか見えないでおじゃ。

 

しかし、確かに「家カレー」って謎だ。カレーはそもそも謎系の料理だけど、家カレーの謎っぽさは味がどうとかの話ではない。家で食べてるときは何も思うことがないのに、家から出ると途端に「家カレー」という特別さを伴って意識に急浮上してくるのが謎なのである。

 

家で食べてる時はカレー。家を出るとそれが「家カレー」になる。簡単に言えばそういう流れだ。この謎っぽさは、多分「カレー」ではなく「家」に起因するものだと思う。自分の家の匂いは、実は自分が一番よく知らない(「お前んちドブ臭くない?」)。久しぶりに帰ったりして、ようやく気がつくようなものなのだ(「俺んちドブ臭くない?」)。

 

だけど、同時にこうも思う。なぜ家「カレー」なのか。「家生姜焼き」とか「家焼きそば」とか「家ハンバーグ」とかじゃなくて、なぜ「家カレー」なのか。その謎はおそらく、逆に「家」じゃなくて「カレー」にあるのだろう。そんなことを思いながら、今日が終わるのを待ちたい。