みんなのBento

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小袋成彬の『分離派の夏』「門出」はどこから来たのかーー話したがらない主人公の謎

 

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小袋成彬(おぶくろ なりあき)のデビューアルバム『分離派の夏』に収録されている「門出」が謎めいている。まず、タイトルの意味が微妙にわかりづらい。そして作品の語り手が「あまり話さないでいい」「それぞれ何も言えないまま」「かける言葉は特にない」のように言葉を使うことに対して一貫して消極的であることもなんだか妙だ。いったいこの曲はどこへ向かっているのか? 

 

この歌には「祝いの門出」という言葉が出てくるため、聞いていると、新しい人生への「門出」っていう感じがぼんやりする。結婚式とか、人生の節目を迎えるイベントの、たとえば卒業式や退職やお葬式のあの別れは寂しいけれど前に進もうって感じを想起させるような音楽だ。気持ちよいビートとストリングス、小袋のリラックスした声の組み合わせに酔いしれてればいいのだが、それらをあきらめたくなるくらい歌詞には不可解な点が多い。

 

あなたが誓うとき

親父の目尻にじりじり

肥えた顎を伝って

無精髭に溶けた

 

式場で新郎新婦が並び、そのそばで父親が涙を流す場面が想起されるだろう。ありきたりだけどグッとくるシーンとして多くの人に登録されているかもしれない(そんなことないかもしれない)。しかしこの感傷的ムードを誘うかに思える場面は、より強烈なものにかき消されながら別の感動へすりかわっていく。このことは文字では決して伝えられないが、音楽を聞けばすぐに引っかかるはず。それは、音声で聞いてこそ分かる「じり」×3の言葉遊びのリズムだ。「じり」が三度流れることで、親父の「涙」は直接的な表現としては消え落ちながらも同時にまた別の形で流れ落ちている。

 

親父の目尻にじりじり

(「じりじり」:ある一定の方向に、ゆっくりとではあるが確実に動いていくさま。じわじわ。大辞林より)

 

いったいこれは「誰の」言葉だろう。もちろん作詞家「小袋成彬の」言葉だ。いや、本当にそうだろうか。「目尻」と「じりじり」という単語がじりという共通の音声を持つことになんの必然性もないが、小袋はこの結びつきがたまたま成立する場面を音に載せる作業を通しておそらくきっとたまたま想起することに成功したに過ぎないのではないか。小袋はいつか誰かに発見されるかも知れなかった言葉の組み合わせの発見者であり、けっして言葉それ自体を所有したわけではない。

 

この文脈でかんがえると、語り手が「あまり話さないでいい」「それぞれ何も言えないまま」「かける言葉は特にない まあ元気でいてほしい」のように言語を使うことに消極的であったことも理解できる。かけるのでも書けるのでもなく掛ける。小袋は作詞家でありながら言葉を所有すること、つまり、能動的に作詞することがペンを握っているにもかかわらず不可能であることに自覚的なアーティストなのではないか。こうやって考えているせいで、「深い愛の物語には 栞をつけましょう」も、物語は書くものではないという意思表示として聞きちがえてしまいそうだ。*1

 

すると、さっきの詩行にはより深みがみつかる気がする。内容と表現が正反対の方向へすれ違うように思うからだ。歌詞が語っている内容は、新たな家族(苗字という所有格)への「門出」である。しかしそれとは裏腹に表現のレベルでは、言語を放棄し、なぜかよくわからないけど書けてしまった、ただじりの音に引っ張られて書くとある景色が浮かんでしまうった、というような書き手が言葉に操られるような光景が見えるからだ。何かを所有するような門出からの「門出」。そのような認識への分離。

 

さらに、親父の涙につづく直後の4行も、いっけん矛盾しているように見えるが筋が通っている。

 

僕の記憶にないから

きっと大切な秘めごと

その思い出の深さに

なんだか心が揺れた

 

「自分の」記憶でないのに、その場面が見えているその何かに心が揺れている「僕」。だが、その場面が現れたのは「目尻にじりじり」と流れるように進む言葉の組み合わせのせいだろう。この流れ、「目尻」と「じりじり」が並んでペアににあることそれ自体になんの因果も意味もない。だがさらに、この言葉の組み合わせの発見が彼によってなされなければならなかった必然性は説明できないという意味で、発見それ自体も彼の手をはなれている、とも言えるのかもしれない。もしここまで言えるなら、出会った偶然のできごとを「自分の」体験として驚くことすらが難しい。

 

飛んだ考察だ。だが、たしかにこの歌のはじめの4行で語り手は飛んでいる。この視点を持つ名も形もない「何か」が、どこへ行ったのかを追うことはできないが、少なくともやってきた場所はわかる。おそらくこの「何か」は上述したような意味での特別な門を飛び出してきているのだろう。

 

夏空にそびえ立つ

うろこ雲を見下ろして

旋回の半ばで

白い街が見えた

 

 

 

*1:「自分が得た知見や知識をフルに動員して、顕在化させていく作業に近かったのかなと。だから何か書きたいと思ったわけではなく、何か降りてきたものを専ら知的・修辞的な操作として掴んでいったという状態なので、没頭してるんですよね。これはなんだろう、言葉にしたらこうだ、でも音楽にしたらこうだって感じで、常に色んな側面を考えながら作っていきましたね。」【インタビュー】小袋成彬 『分離派の夏』 | 「喪の仕事」の果てで歌う - FNMNL (フェノメナル)