みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

歌詞考察 相対性理論「夏至」青春=物語

まずはそんなに長くないので歌詞をざっとみてほしい。

 

HEY YO

そういやそんな笑い話もあったね

後悔してもあとの祭り

そうすったもんだ挙げ句の果てには

なんだかんだの仲直り

 

いやいやそんな昔話はいいよ

どうせろくな思い出じゃない

ねえそれよりこんなおとぎ話はどう?

なんか心がざわめくの

 

HEY YO

ところでこんな独り言はやめて

公園でちょっと一服しよう

ねえそれよりそうだおとぎ話のつづき

なんかやっぱりざわつくの

 

13才 夢を見る 14才 闇を知る

15才 恋に溺れては 暑く暑く焦らす夏が来る

 

18才 桜散る 19才 向こう見ず

20才 大人になれず 暑く暑く茹だる夏が来る

 

こんな街から脱出してやる

いつかBIGになってやる

妄想以下そうとうバカ

おとなしくテレビを見るのよ

 

そんなこんなで退屈してたら

あっという間の花盛りなんて

妄想以下そうとうバカ

めくるめくあの夏の迷走ラプソディー

 

いいよ おとなになっても

いいよ こどもになっても

いいよ おとなになっても

いいよ いいよ

 

相対性理論夏至」 作詞:ティカ・α/山口元輝

 

夏至」は一年でもっとも太陽が出ている時間が長い日。この日を境にだんだんと日が短くなる。この自然現象を人間の生にあてはめて考えるのはあまりにも簡単かも知れない。人生にはピークとしての青春時代があって、たのしかったあの頃にはもう戻れない、あとは私の人生しぼんでいくだけだ、というようにしみじみと物思いに耽ることもできるかもしれない。

 

だが、この相対性理論の「夏至」はそのような「楽しかったあの頃に戻りたい」的な言い回しが「おとぎ話」だと言い切っている。だから、この歌には夏の熱に動じないクールなトーンが響いていると思う。

 

この歌は、いつかの「笑い話」を思い出すところから始まっている。それから続けて、いつかの「すったもんだ」とか「仲直り」とかいった過去の些細なできごとを思い出している。これらは「挙げ句の果て」「なんだかんだ」という予測不可能な流れのなかで起こったことで、うまく言葉で説明がつかない。これが語り手の言う「昔話」「思い出」だ。

 

続く第2連で語り手は、そのような「思い出」や「昔話」をそんなものは「いいよ」と脇に置き、「おとぎ話はどう?」と代わりに切り出している。心がざわつくかららしいが、語られる作り話の始まりは次のようなものだ。

 

13才 夢を見る 14才 闇を知る

15才 恋に溺れては 暑く暑く焦らす夏が来る

 

18才 桜散る 19才 向こう見ず

20才 大人になれず 暑く暑く茹だる夏が来る

 

これ、どこがおとぎ話なんだろう。シンデレラストーリーとか、いつか王子様が迎えに来るみたいなおとぎ話とはちがって、この歌詞の作者と同じ文化圏で育った人はけっこう割に共感しやすい、あるいは共感はしなくても周りで流行っていたことは知っている現実のように見えるのではないか。たとえばひどく大雑把に言ってしまうと、「14才 闇を知る」はそのまま端的に「中二病」を意味しているように見えるし、「20才 大人になれず」は、「成人式」を迎えても大人になりきれない人たちのことを指していると言えそうだ。とすれば、ぜんぜんおとぎ話なんかよりむしろリアルに感じられる。

 

けれどもこうしたリアルを「おとぎ話」と定義してから語り出すところに、「夏至」のクールがある。夏に植物が芽吹き、気温が上昇するというソリッドな科学的事実が、この「おとぎ話」を成立させるプロットにすりかわっている。さりげない、どうでもいい日常の思い出ですら「なんだかんだ」「すったもんだ」という説明のつかなさを示す言葉でなんとか言いくるめられていたのに、一年という長いスパンをたった一言で表せるはずがない。にもかかわらず、この大胆な嘘をリアルだと感じさせてしまうところに「おとぎ話」の装置がはたらいている。

 

だからむしろこう考えても良いのかもしれない。この「おとぎ話」をリアルに感じられるなら、それはきっと13才のときに夢(物語)を見るように仕向けられていたからかもしれず、また14才のときには、誰しもが一度はダークサイドに落ちるのだという成長物語に飲まれていたのかも知れず、また15才で初恋が・・・そして、18、19と20才の成人に向けて「大人の階段」を登るというストーリーを信じさせられてきたからなのかもしれないのだと(夏と青春を紐づけたテレビドラマ・映画は非常に多い『花盛りの男たちイケメンパラダイス』『ウォーターボーイズ』『サマーウォーズ』)。

 

次の連でもおとぎ話は続いている。

 

こんな街から脱出してやる

いつかBIGになってやる

妄想以下そうとうバカ

おとなしくテレビを見るのよ

 

都会に出て成功するという上京物語は、妄想ですらなく「妄想以下」であると言っているのは非常に興味深い。もっと良いのは、そう言いつつも結局、妄想を植え付けた発信源である「テレビ」に戻っていくところのバカっぽさを書き落とさない賢さだ。物語にふれることはやっぱりやめられない、というのは単なるおとぎ話じゃないだろうから。

 

ただ少し戻るけど、さっきの13才から始まる青春にまつわる「おとぎ話」の箇所には単純じゃないつくりがある。

 

13才 夢を見る 14才 闇を知る

15才 恋に溺れては 暑く暑く焦らす夏が来る

 

18才 桜散る 19才 向こう見ず

20才 大人になれず 暑く暑く茹だる夏が来る

 

 

この「おとぎ話」、16才と17才の2年間が書かれていないのだ。3年ー2年の空白ー3年は、この前後にも繰り返し同様のパターンがループすることを想起させる。そういえばそうだこれは「おとぎ話」なのだった。ということはすっ飛ばされて語られなかった16、17才の二年間は、きっとこの語り手が脇に追いやろうとした、あるいは語りきれない「昔話」「思い出」に該当するようなものだと想像できる。

 

実際、この歌詞全体が昔話(現実)→おとぎ話(フィクション)→昔話(現実)・・・のようにループしている。まず、最初は現実にあった思い出を話し、おとぎ話を話そうとしつつ、公園で一服しようとしたり、現実と妄想をざわざわとせわしなく行きつ戻りつする運動が見られる。

 

するとさいごに繰り返される「いいよ」には別の響きを聞き取ることもできるかもしれない。

 

いいよ おとなになっても

いいよ こどもになっても

いいよ おとなになっても

いいよ いいよ

 

最後の2回の「いいよ」は意味が定まらない。Aでもいいし、Bでもいいし、AでもBでもなくてもどうだっていいよ。この迷いと狂いこそがまさに「めくるめくあの夏の迷走ラプソディー」なのだろう。迷って走って狂ってしまう様子には、夏の暑さに恋心を重ねるような安直さはない。また、ラプソディ・イン・ブルーのように、あるカラーに染められてもいない。そのことを象徴するように「迷走ラプソディー」という文字それ自体が、迷走狂詩曲のようなダブった言葉のベタ塗りになっている。この意味で、もう「あの夏」は全ての生に一致する(迷わない人間はいない)。であればもう夏は夏であることができない。夏じゃなくてもいい。定点を取る必要はない。すったもんだの挙げ句の果てのなんだかんだでいい。

 

よく耳にする「あの頃はよかった」「何歳からでも青春を」という言い回しには、「やり直し」「取り返す」ということばが紐づけられる。これは過去に何か特別で果実のように爽やかな美しい時間があったという物語に裏付けされている。けれども、青春はおとぎ話に過ぎない。人生のピークを夏至に喩えることそれ自体が物語なのだ。だとすれば、たとえ心がざわつこうがわざわざ自分の人生を季節の流れに重ねて悔やんだり期待したりする必要もないのかもしれない。妄想以下のそうとうバカな記憶、脇に追いやりたい昔話、どうにも語りきれない思い出が、妄想以上にそうとうたのしい思い出(現実の日常体験)だったってこともあるだろうから。

 

とはいってもやっぱり物語を聞くと心がざわついてしまうのは本当のことだ。今私が書いている解釈も、「夏至」という物語に触発されて書かれたことは否定しようがないのだし。