みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

他力本願―宇多田ヒカル「Automatic」とVaundy「不可幸力」の抗えなさ

最近、中島岳志さんの『思いがけず利他』を読んでいたら、宇多田ヒカルのデビュー曲「Automatic」が引用されているのを見つけた。

それから「イッツ オートマーティック そばーにいーるだーけで〜」が永遠脳内再生されている。いまも文章を書きながらサビが止まらない。PVで、あの中腰というか、屈んだ姿勢で横揺れしている感じ。わたしの身体まで勝手に動く。

 

なんてautomaticな曲なんだ!!

 

中島さんは次のように述べていた。

It’s automatic

側にいるだけで その目に見つめられるだけで

ドキドキ止まらない Noとは言えない

I just can’t stop

 

「あなたがそばにいて、見つめられているだけで、ドキドキ止まらない。ドキドキしたいと思っているわけでも、ドキドキしようと思っているわけでもない。どうしようもなくドキドキしてしまう。それはオートマティックなもので、意思を超えたもの。不可抗力です。

『業』とは、 It’s automaticなのです。」(39)

 

中島さんが宇多田ヒカルを引用していたのは、「業」を説明するため。

「業」とは「私の力ではどうにもならないもの。縁という力に支配されているもの」で、私たち人間も仏もまた「業」に突き動かされているという。

鎌倉時代の仏教家である親鸞は、「自力の限界」をみつめたときにやってくる「他力」の瞬間に私たちは救済されると考えた。この「他力」というのは仏の力なのだけど、私たち人間も「どうしようもない」んだけど、私たちがその「限界」に徹底的に向き合ったとき、仏もまた私たちを「どうしようもなく」救ってしまうのだそうだ(33–9)。

 

15歳の宇多田ヒカルは、自分の気持ちのどうしようもなさという「自力の限界」と、相手もまたどうしようもなく反応しているという「他力」、恋愛のautomaticallyな感じを歌う。

宇多田ヒカル「Automatic」

七回目のベルで

受話器を取った君

名前を言わなくても

声ですぐに分かってくれる

電話をかけた自分は、もしかしたら相手が応えてくれないんじゃないかとドキドキしていたことだろう。「君」は目を見つめなくても、自分をドキドキさせてくる。そして、「君」はこちらの名前を言わなくても「すぐに分かってくれる。」

 

声や音に対して瞬時に反応するという感覚は、普段の生活でも経験することだろう。懐かしの人の声を聞けば(良かれ悪かれ)ドキッとしたり、大きな音に驚いて身体がビクッと動いたり。そのような即座的な反応のあとに「あぁ、懐かしい人がいるのでちょっと挨拶しよう」とか「ぎょえ!アイツいるから逃げよう」とか「いやー全然びっくりなんかしなかったよ、平気平気」とか思う。

唇から自然と

こぼれ落ちるメロディー

でも言葉を失った瞬間が

一番幸せ

 

嫌なことがあた日も

君に会うと全部フッ飛んじゃうよ

君に会えない my rainy days

声を聞けば自動的に

Sun will shine

まさに、わたしにとっての「Automatic」のように頭に残るメロディーがあるのだろう。でもこの脳内再生を、鼻歌を止めないと、「君」の声をじっくりと聞くことはできない。あるいは、自分が発する言葉がメロディーのように流れているのかもしれない。自分が話すのを止めないと「君」の返事が聞けない。

会えなくても「声を聞けば自動的に/Sun will shine」なんだから、「君」の声にはすごい力がある。いつ太陽が昇って沈むかなんて変えられることなんぞできないんだけど、当たり前なんだけど、その当たり前を覆しちゃうのが「君」なんだな。

 

ここまで宇多田ヒカルの歌詞をその通りに読んできただけなんだけれど、恋愛は「意思を超えたもの」とか考えるのは想像がつくことなんだけど、自分がその渦中にあるとき、自分の可能性と限界、外部的な力の大きさとそれを受容する力を意識できるのか・・・というと、それは想像が難しい。日常の「難しい」があのリズムであの声で歌われる「Automatic」から逃れられない・・・中島さんの言葉を借りると「あちら側からやってくる不可抗力」なのである(42)。

 

そして思い出したのが、Vaundyの「不可幸力」だった。タイトルのまんま。

「なんでもかんでも欲しがる世界」では、自分が何を求めているのか、なぜ求めているのかが分からなくなったりする。しかし、その行き詰まり感に向き合うことから新しい世界が見えてくる。らしい。

あれ なに わからないよ

それ なに 甘い理想に

落ちる

 

Welcome to the dirty night

みんな心の中までイカれちまっている

Welcome to the dirty night

そんな世界にみんなで寄り添い合っている

Welcome to the dirty night

みんな心の中から弱って朽ちていく

Welcome to the dirty night

そんな世界だから皆慰めあっている

「僕」は「the dirty night」の住人にとてつもなく歓迎されている。多くの人たちにとって「dirty night」に向かうことは堕落を意味するのだろう。だって、汚いし暗いんだから。

だけど、実は違う。そこは落ちてしまえば、皆で寄り添い慰め合うところだった。自分ひとりの力の限界を感じ、それにじっくり向き合ったとき、他者の力に気付き、支えられるようになり、自分も支えるようになる。「不可幸力」は「幸せは(抗えない)外部からやってくる」ということ、そして「自分もまた他者に幸せを与えている、かもしれない」ということも意味しているのだろう。

 

だめだ、もう明日は赤いセーターにカーキのパンツ履いて踊りに行かないと・・・

 

引用文献

中島岳志『思いがけず利他』株式会社ミシマ社、2021年。