みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

NARUTOは生殖至上主義漫画か?大蛇丸から考えるNARUTO

はじめに

先日、大阪地裁が同性婚不認可を合憲とする判決を下した。しかも、異性間の婚姻関係を「男女が子を産み育てる関係を社会が保護するもの」と説明したことから、婚姻関係に織り込まれた再生産(生殖)至上主義の根深さが改めて露呈した。

 

この判決は、同性婚の是非をめぐる議論を超え、異性間の婚姻関係の定義を問うものとなった。子を持たない(持てない)夫婦はこの定義から逸脱してしまうことになる。そもそも、婚姻関係に当然のごとく再生産が期待され、それを保護するためだけの制度として国側が捉えていることに、疑問を覚える人も多かったはずである。

 

今回の裁判で、再生産至上主義イデオロギーに嫌悪感や疑問を覚えた人々は多かったようで、SNSでも多くのコメントが発信された。しかし、再生産至上主義に覚える疑問は、こうした司法のレベルで認知されるずっと前から、多くの人々の間で共有されてきたように思われる。

 

「最終回に全部のキャラをくっつけとけばいいと思うなよ?!」

NARUTOの話である。

表題の、「最終回に全部のキャラをくっつけとけばいいと思うなよ?!」という怒りは、NARUTOの最終回で随分聞こえた意見であるし(未だによく聞くよね)、フェミニストNARUTOが好きな人は少ないだろう。最終回で主人公クラスのキャラクター達(ナルト、サスケ、サクラ、ヒナタ)のみならず、ナルトの同期キャラクターがだいたい誰かしらと結婚、しかも子供まで設けた。しかも、NARUTOの場合、BORUTOという、ナルトの子供世代を主人公とした作品が現在連載されており、まさに再生産を体現する作品である。

 

NARUTOは元々、孤児であった主人公ナルトが自身のルーツの不明瞭さに悩み、両親の正体が判明した途端に大きな安心感を覚え、忍者としての力も桁違いになることからも、親子間の関係や、親の無償の愛といった主題を全面に押し出した作品であることは明らかである。ナルトの母クシナが息子の命を救ったエピソードなどは、岸本斉史自身が子を設けた時期とも重なっていることから、かなり熱の入ったものになっている。

余談だが、「孤児がルーツを探す」(BLEACHや鬼滅の場合は主人公の血統の不明瞭さの探求)というプロットはNARUTOBLEACH、少し遅れて鬼滅あたりを境に読者の共感性喚起にある程度の限界を迎えたと思う。チェーンソーマンなんかはその対極にある。「マ(キ)マ」を求めて裏切られてしまうのだから

 

そんなにNARUTOって悪くないんじゃない??

親子の絆的なものとか、「次世代に意志を繋ぐ」的な主題が作品を貫いていて、さらに主要キャラクターをほとんど男女カップルとして結婚させ、その子供たちの物語まで再生産しているのだから、NARUTOが再生産イデオロギーをまさに再生産してしまっている点は否めない。しかし、NARUTO最終回の結婚/出産エンドには描かれなかった「子供」がBORUTOには登場している。そう、大蛇丸の「子供」、ミツキである。

左がミツキ 右が大蛇丸

 

なぜカッコつきの「子供」なのかといえば、大蛇丸は異性との生殖行為によってではなく、彼の発明した技術(クローン技術とは異なり人工的なタマゴのような「胚」から子を作る)のようなものによって、ミツキを「産んだ」ためである。そう、NARUTOのキャラクター達の結婚・再生産のプロットの中で、大蛇丸の存在はなかなかに異質である。

 

大蛇丸はなぜ退場させられなかった?

ミツキの親が大蛇丸であることや、ボルト、サラダと同様第7班で活躍していることから、「BORUTOでも大蛇丸様は重要キャラなんだ!!」という喜びと感動を筆者(ぴんくぱんだちゃん)は覚えたが、そもそも大蛇丸は、NARUTOの敵キャラとしてはかなり異質であったことを思い出さねばならない。

 

大蛇丸について最も特筆すべき事実は、敵キャラにも関わらず物語から退場させられなかった点であろう。NARUTOが少年漫画史で大きな存在となっている理由の一つは、主人公が敵キャラを「赦す」点にある。ペイン編以降、「殺す」のではなく「赦す」ことによって、ナルトは敵を「倒し」てきた。つまり、赦されることで敵キャラたちはプロットから退場していたのだが、大蛇丸だけは、忍界大戦中にいつの間にか連合軍に加勢し、アニオリの「祝言日和」回では、監視付きではあるが木ノ葉隠れの里で再び生活している。つまり、ナルト達の再生産の物語の構想を恐らくはNARUTO連載時から描いていた岸本にとって、大蛇丸も同様に、子供世代の物語に「親」として登場させることは想定されていたのだろう。

 

師弟愛と親子愛――NARUTOBORUTOが描く「育てる」ことについて

NARUTOの物語の主題が「親子愛」であることは明らかなのだが、同時に、「師弟愛」も重大な主題であった、忍界大戦までは。忍界大戦前後でナルトは両親の正体を知り、禁術・穢土転生の術によって彼らと会話することまで叶ってしまう。これを機に、ナルトの師匠として仮の父親役であった自来也が回想される場面は激減する。血縁の父親が明らかになった瞬間から父親との絆のほうが、自来也との師弟関係に前景化してしまう。親子愛>師弟愛ともとれるこの「自来也退場現象」は、筆者(ぴんくぱんだちゃん)がNARUTOの中で最も問題視する点である。自来也は「父」を知らないナルトのためにアイス分け合ってくれたじゃん!!結局血縁なのかよ!!という怒りが収まらない。

またしても余談だが、このあとの銀魂で、共に孤児である月詠・銀時の地雷亜・松陽との師弟愛が同じ雑誌で描かれたのは、強烈な対比になっていると思う。

 

このように、実の親>師匠という血縁至上主義がNARUTOメインプロットから読み取れるものの、血縁の親子愛以外にも「育てる」ことへの問題提起を岸本がしようとしていたことは確かである。伝説の三忍である大蛇丸綱手自来也には、結婚も生殖もさせていない。綱手自来也の結婚エンドは、自来也の戦死によって果たされない。しかし、綱手はサクラを、自来也はナルトを、忍術の師匠として「育て」ている。問題含みではあるが、サスケの忍術の師匠の一人は確実に大蛇丸である。つまり、血縁の親と子世代の物語を描くと同時に、血縁ではない疑似親子として師弟関係を描いているのである。

自来也とナルト

いわば、独身を貫いた綱手大蛇丸は、“rich single aunt”のような、血縁の親ではないが特権的に子を「育てる」ことに携われるキャラクターとして読み解くこともできるだろう。

 

しかし、BORUTOの連載がスタートし、ミツキと大蛇丸の「親子」関係が明らかになってから、大蛇丸だけさらにクィアに特権的なキャラクターであることがわかる。多くの弟子(身寄りのない子を弟子に取ることが多かった)を魅了し、「親」のように慕われてきた大蛇丸が、本当に「親」になってしまったのだ。

 

サラダはミツキに、大蛇丸は父親なのか母親なのかと尋ねるが、ミツキの口癖「どうでもいいことだよ」であしらわれてしまう。大蛇丸が「親」となるために異性愛結合のプロセスを排したことをよく体現する一コマである。

 

さらに、ここで思い出されるのは、大蛇丸の「オネエ言葉」(と称されることが多い)についてである。アニメでしかNARUTOを追ってない視聴者には、大蛇丸ジェンダーを女性だと認識する人も多かったという。しかし、大蛇丸ジェンダーを女性と認識する要因は、その口調にだけではなく、優秀な弟子を取りたがり、目ぼしい子を見つけるとただならぬ執着心を見せ自分の弟子としようとする姿が、女性特有のものとしてしばしば描かれる「子が欲しい」欲望に重ねられたことにもあったのではないか。

 

ジェンダーを不確定にする口調のマッドサイエンティストキャラクターが、科学技術によって「子」を再生産するという物語は、まさしくアンチ・再生産プロットである(「オネエ言葉」と「子産み技術」についての考察は、涅マユリについての記事に詳しい)。

 

物語の序盤から重要な敵キャラとして登場した大蛇丸には、当初から「オネエ言葉」や、強烈なまでの「育てたい願望」が付与されていた。大蛇丸の欲望が科学技術による再生産として結実し、その「子供」が主人公たちの異性愛ロマンスの結果たる子供たちと交わる次世代の物語は、岸本によって随分早い段階から想定されていたのではないだろうか。だとしたら、NARUTOBORUTOに顕在化する再生産表象は、大蛇丸・ミツキの「親子」関係によって複雑さを帯びる。

 

極めつけは、ミツキの好きな食べ物は、スクランブルエッグである。科学技術によって「産まれた」子が無精卵をぐちゃぐちゃに炒めたものが好きだなんて、NARUTO、意外とパンチが効いているじゃないか。