みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

相米慎二『台風クラブ』(1985)が「問題作」である本当の理由

男女一緒のプール授業に生徒が疑問を持っているというニュースや、ジェンダーニュートラルなスクール水着が開発されたことがツイッターのトレンドに入る時代に、今から三十年以上まえにとられた『台風クラブ』(1985年)のような映画が大きな顔をして公開されるのは、よほどの何かがないと、いや、あってもほぼ無理だろう。

news.yahoo.co.jp

 

「今の時代ではこれはあり得ない」という作品はテレビや映画のメディアの種類を問わずいくつもあり、こうした作品の倫理観は一面的に議論するべきでなく、簡単に片付けられるものではない。だが、『台風クラブ』の問題は、たんに中学生の俳優たちがスクール水着姿どころか、ほぼ裸の下着姿で踊るシーンを含むという倫理的なものだけではないように思われる。この映画には他にももっと問われるべき問題があるのではないか。

 

そこで、この記事では『台風クラブ』という作品を支えていると思われる2つの装置の問題を指摘する。先に言ってしまうと、一つ目は、子供たちが思春期に何かよくわからないエネルギーを持つという神話の問題(そもそも誰もが思春期を通過するのか)。二つ目は、中学生の内面的葛藤を台風という自然現象に重ね、祝祭的ムードとともにナチュラルに描く語りの問題だと、私は考えている。*1

 

このような問題の指摘を通して私が考えたいのは、相米監督のとったこの映画ががこうした問題といかに対峙しているのかと言えるのかということだ。脚本は別の人が書いており、相米はその本を読んで映画にしようと決めスタッフと俳優を集めて映画を完成させた。もちろん、相米自身が脚本のどの要素に惚れ込んだのか確定することはできない。だが、ひどく希望的に、上にあげた問題点を相米が乗り越え、別の方法で語る・撮ろうとしていたと言えるかもしれない可能性について考察したい。

 

 

 

台風クラブ』の仕事を評価する映画監督は、第1回東京国際映画祭(1985)でこの映画を絶賛したベルナルド・ベルトリッチだけではなく現代でも少なくない。たとえば、この映画の主題のひとつが「退屈さ」であると考える濱口竜介(『ハッピー・アワー』『ドライブ・マイ・カー』)は、むしろその「退屈さ」に積極的な価値を見ている。

 

彼ら[学校に閉じ込められた三上祐一たち]が始めるのは、祝祭とも言うべき歌と踊りであり、彼らはそれでもって自分たちにまとわりつく退屈を排除しようとする。

 体育館でのストリップショーを経て、台風の目の内にあった体育館の外へ出て、彼らが「もしも明日が」と歌い、踊るとき、雨が降り始める。「台風」を表象するのに申し分ないその雨は、まるでもう一つの主役のようにフレームの余白を埋め尽くす。

「あるかなきか」濱口竜介『甦る相米慎二』 18ページ

 

自然現象であるはずの「雨」すらを俳優の一人としてカウントしかけた濱口はところが、ふと我に帰ったように、実際にはその「雨」がスタッフたちが降らせている大量の水にすぎないという現実を指摘する。

 

当たり前だが、映画において「雨」として表彰されているものは、実際のところ特機部が「雨降らし」としてフレーム外の撒水車から撒き散らす大量の水であり、照明によってキャメラとは逆方向から照射されない限り、それが雨粒としてフィルムに定着することもない。それを台風に見せるなら、大型の送風機が幾つも必要になりもする。

「あるかなきか」濱口竜介『甦る相米慎二』 18ページ

 

しかしながら、濱口は、「雨=俳優」という妄想・印象から「雨=スタッフ」という現実を経由することで、今度はスタッフを画面の外の俳優としてカウントし、またそのように「スタッフを触発する」(19)監督をもそこにくわえることで、この映画に人間の一体感や「退屈を拒絶する意志」(18)というよくわからないもの(祝祭的なもの)が描かれているという結論に着地してしまう。

 

たしかに、濱口のように俳優、スタッフ、監督のなかに一体感のある熱意を読み取ることもできる。実際、相米のインタビューのなかには俳優たちが撮影は楽しかったと言っていたという記載がある。(キネマ旬報 1985年9月、59)

 

だが、このような熱量には「温度差」があるのかもしれない。分析の結果としてそのようなよく分からないエネルギーが感じられることは確かだとしても、濱口の分析がスタッフの熱意に着地していることが示すように、むしろ監督を含めたスタッフ陣の熱量が俳優を上回っていると考えることもできないだろうか。

 

相米自身が完成作を見た俳優たちから「こ〜んな映画だったんすか、撮影は面白かったのにね」と言われて傷ついたとインタビューで答えていることも、このように一体感に水をさす言い方をしたくなる一因だ(キネマ旬報 1985年9月、59)。もっと言えば、楽しめるくらい余裕があったのは子供たちの方というようにも受け取れる。

 

中学生の時期に通過すると思われている思春期が、半ば神秘的に持っていると信じられている特有のエネルギーを「台風一過」という自然現象にかさねたこの映画で、もっとも熱くなっているのは中学生の俳優ではなく製作陣だった、とすこし乱暴な言い方でまとめられるかもしれない。これは映画なのだから製作陣の熱意が高くて当然なんだけど、このような子供特有だと思われている思春期の「変な感じ」を体現しているのが大人たちであるということが、思春期がいかに物語的なものであるかを暴露しているのかもしれない。

 

ただし、監督本人は、大人が実は子供より暑苦しい生き物だという事実をわりと客観的に見れてもいるように思われる。それは、『台風クラブ』のエンドロールで流れている体育祭のアナウンスから聞き取れるかもしれない。エンドロールから聞こえる体育祭は、100m競技を終え、おそらく山場と思われる「部活動対抗リレー」を迎える。このとき、リレーの最終走者が「部活動の顧問の先生」であるとアナウンスされていることには注目したい。出演者とスタッフの名前が流れるエンドロールの最中に、体育祭の最大の盛り上がりが描かれ、その最終走者が大人たち。この編集は冷めているとも言える。

 

このような冷めた編集による演出は、単に映画を撮り終えて時間が経ちほとぼりが冷めているから、というだけではない。実はこの映画の本編のいくつかの場面で、熱気だけでは描けないように思われる細かい演出がなされている。これからこの映画の熱気とは別かもしない機械的な側面についても考察していきたい。そのことで、相米が上述した問題を乗り越えている可能性を検討したい。

 

続きは執筆中(近日公開)

2022/8/5 投稿完了!!!⇩

minnano-bento.hatenablog.com

 

*1:中学生の時期におとずれると一般的に教えられる「思春期」を、自然現象になぞらえることの不自然さについて一度真剣に考えてみてもいい。そもそも「思春期」という用語には「春」という季節がすでにくみこまれている。この用語が青年期(adolescence)をあらわすものとして使われ定着することで、子供(春)は大人(夏)になる準備時期であるという意味づけが自然に受容されることになる。さらに、春夏秋冬の自然のサイクルは「子供(幼児・学生)成人(社会人)老人(退職)」という発達主義(それに伴う再生産主義)のイデオロギーを受け入れやすくする単線的なストーリーテリングにもすり替わる。このように成長を前提とした規範的な価値観で青年期をとらえること、またそのために自然現象を使用することを問題視し、オルタナティブな青年期の捉え方・語り方を探るこころみはNicole Seymourの2009年の論文"SOMATIC SYNTAX: REPLOTTING THE DEVELOPMENTAL NARRATIVE IN CARSON McCULLERS’S THE MEMBER OF THE WEDDING"詳しい。