みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

【考察】『トイ・ストーリー』シリーズのおもちゃらしさ/人間臭さ

 

もげる腕

トイ・ストーリー1』の最も切ないシーンをひとつ挙げるとすればどこでしょうか。きっと宇宙飛行士のおもちゃバズ・ライトイヤーが、シドの家から飛べると信じて落下する場面を思い出す人は少なくないではずです。あえなく地面に激突した彼が落ちた片腕をさびしげに見つめるあのシーンはなんとも言えないさびしさがあります。

 

ただ、このあっけない腕の分離は切ない演出のためだけにあるわけではなさそうです。というのは、『トイ・ストーリー2』でも同じように片腕の脱落がくりかえされるからです。今度はバズのではなく、カウボーイ人形のウッディの片腕で。彼の腕はアンディが遊んでいるときにやぶれてしまい、そのあとアルのおもちゃ屋に誘拐されたあとで腕がもげ落ちます。もちろん1・2でもげ落ちるどちらの腕もお話が終わる頃には無事に修理がおこなわれ、元の位置におさまり、そしておもちゃ自身も一度離れた持ち主の元に戻り、大円団を迎えるという筋書きです。

 

こうした彼らの大怪我と気楽な手術は、この作品の登場人物たちがパーツを組み合わせることで完成された「おもちゃ」であることを自ら主張しているように思えます。そう考えると、トイストーリーのリアルさは、たんにリアルなコンピュータグラフィックスを使って作られた映像美だけにあるのではなく、取り外したりくっついたりできるおもちゃらしさによっても担保されていると言えるのかもしれません。

 

さらに、このようなおもちゃの分解性はもっと大きく、シリーズ全体をささえるパターンにも浸透していると考えることもできそうです。というのは、離れたりくっついたりするのはおもちゃの体だけではないからです。このアニメーション映画では、おもちゃの体の分離がさらに持ち主とおもちゃを引き離すというように連動をみせています。本記事では、トイ・ストーリーをつらぬく法則のひとつに〈分離と結合〉があるという仮説を、作品を分解したり別のものに接続することで試してみたいと思います。

 

 

お引越し

そもそもトイ・ストーリー1の開始直後の時点でアンディが理由もなしに引っ越し(moving)間近であることには注目すべきかもしれません。インターネットに出回る考察記事を読む限り、アンディの引っ越し理由が気になる人は多いようですが、「理由なしの引越し」が描かれることそれ自体をそのままひとつの答えとして考えることができるでしょう。それはつまり、登場人物(アンディ一家)の動機は問題とされず、あくまでピクサー製作陣が貫いていると思われる〈あるものとあるものの分離と結合〉という法則のための機械的な引越しと受け取れるのです。

 

引越し、つまり、古い家から新居への移動は、家と持ち主の分離と新たな結合であり、この移動関係は、古いおもちゃ(ウッディ)から新しいおもちゃ(バズ)へとアンディの関心が推移することと無関係ではないでしょう。また、アンディが引越しする直前まで、ウッディとバズが別の〈持ち主/家〉である悪童シドの手にわたることにもリンクしています。

 

続く『トイ・ストーリー2』でも移動・引越し(moving)が間近に迫っているという状態がデフォルト設定になっています。アンディはカウボーイスカウトに行くことになっていて、ウッディを連れて行こうとします。出発まで残り5分をお楽しみに使おうとしたアンディは、この間にウッディの腕をバズの腕に引っ掛けて破ってしまいます。この時点ではまだ腕は分離されませんが、この「怪我」によってウッディはボーイスカウトに置いていかれ、1で別の人の手にわたったように、2でもおもちゃ屋のアルのもとの手に渡り、腕が修復されます。

 

このように、胴体と腕の分離は、おもちゃと持ち主の分離を招き、反対に、その腕の修復は新たな持ち主との関係を結ぶという連動がトイ・ストーリー作品ではパターンとして一貫されているようです。実際、トイストーリー2のラストではウッディを取り戻したアンディが、ウッディの腕にわたをつめて自分で縫い合わせます。

 

「絶対に誰も一人にしない」 "We're all in this together!"の部分性

上にあげたようなトイ・ストーリーを貫くプロットは、当然ながら『トイ・ストーリー3』においても継続されます。今度は片腕の落下ではなく、ミセス・ポテトヘッドの片目の消失によって描かれます。ですが、1・2では腕の分離が所有者とおもちゃの分離を連鎖的に促していたのに対し、3で描かれる片目の消失は、むしろ所有者とおもちゃを再接続するために使用されているように思えます。ミセス・ポテトヘッドの目は、アンディの部屋のベッドの下に置き去りにされているおかげで、彼女を含むおもちゃたちがアンディの家を去った後も、絶えずアンディの部屋をのぞくことを可能にします。この目はしかもおもちゃを捨てたと思っていたアンディに実はその気がなく、彼が必死におもちゃを探す様子を知るための目として機能し、結果的に彼らをアンディの元に帰らせるために大きな役割を果たします。(ミスター・ポテトヘッドのパーツの分離性も3では特に大活躍しますね。トルティーヤで移動するシーン。)

 

ここまで、おもちゃのパーツ性(分離/接続性)は、おもちゃの所有者とおもちゃの関係に影響を与えるという話をしてきました。『トイ・ストーリー3』が前2作と一線を隠すのは、ウッディを含むおもちゃたちが自ら所有者との関係を断つという逆転が描かれるからです。おもちゃの置かれた立場はその道具的な面にあり、おもちゃは持ち主に遊ばれてこそ生きることができる、というのは1・2で繰り返し描かれてきたことでした。アニメーションで生き生きと動くおもちゃは、実際には人間を前にして固まるしかない瞬間、おもちゃらしく静止したまま持ち主に動かしてもらう瞬間にもっとも生きる。だから、おもちゃにとって持ち主は操り人形の糸を握るパペットマスターのようなものだった。

 

もちろんトイ・ストーリー3でも、2のジェシーのように持ち主に捨てられる運命をたどったキャラクターは登場します。ピクニックに連れて行かれ、置き去りにされてしまった苺の香りのするピンクのクマ人形のロッツォは、自力で持ち主の女の子の元に戻りますが、すでに彼女は新しいクマの人形を抱いていた。このときロッツォが言う「彼女は代わりを手に入れた」"She replaced us"という言葉は非常に現実的です。ふつう、ここでは捨てられたというべきですが、ロッツォはそう言うことができません。彼は非人間的な言い方、つまり自分が大量生産された代替可能なおもちゃであることを自分に言い聞かせるように「彼女は我々を置き換えた」と言っているように聞こえます。

 

ところが、『トイ・ストーリー3』でアンディのおもちゃたちが下す決断はこれまでに出てきた例とは異なります。ウッディ・バズらおなじみのおもちゃたちは、「誰も一人にしない」"We're all in this together!"と全員の生還を目指します。1・2とはちがい、彼らの目的はアンディと共にいることではなく、おもちゃ同士でともに生きていくことに変換されているのです。

 

このことをWeの内容が「持ち主/おもちゃ」から、おもちゃ同士の連帯へと変化したと言い換えても良いでしょう。ウッディがアンディと母親が抱き合うのを見て、仲間の元へ帰る道を選択するあの瞬間がおそろしくすごいのは、大学に一緒に連れていってもらうはずのウッディが持ち主を置き換えた(replace)から、もっと言えば、まさに持ち主を捨てたからでしょう。ウッディ一行は新しい持ち主のもとで無事に「誰も一人にしない」"We're all in this together!"を成し遂げています。『トイ・ストーリー』シリーズの真摯で執拗なリアルさは、このようなざんこくな別れ(分解・解散)を描き抜いたこのシーンにこそ描かれているのかもしれません。