考察『セッション』にはなぜメトロノームが登場しないのか
『セッション』は本当にすごい。映像、音、演技、最高。106分が爆速で過ぎていく。アカデミー助演男優賞をとったJ・K・シモンズ(フレッチャー)の演技は『フルメタルジャケット』の鬼教官ばりの迫力。初めてみる時は、見る前にかならずトイレは済ませとこう。
そんなわけだから『セッション』はわざわざ考察なんかしなくたって普通にそのまま見て面白い。けれども、この映画が単なる音楽映画ではなく、その裏に時間のテーマ、もっと言えば脚本のデイミアン・チャゼルの「テンポ」にまつわる深い洞察が隠されていることは話さずにいられない。なぜならそうすると、なんでこの映画のラストがあれほどまでに爽快で鮮やかなのか、そこにひとつの答えが出せそうだからだ。
目次
メトロノームを探せ
『セッション』で繰り返される台詞のひとつは、スキンヘッド鬼指揮者フレッチャーの「俺のテンポじゃない」"Not quite my tempo"だ。この台詞こそが、フレッチャーをただの指揮者ではなく、演奏者を完全支配する暴君にいたらしめている。
彼のパワーは、ある異常な構造のもとに成立している。鬼のようなフレッチャーの姿に演奏者たちの脳は萎縮してしまって、冷静に彼の異常さについて考える機会を奪われているが、何度も作品を見返せる観客はフレッチャーのおかしさを論理的に説明することができるだろう。
Not quite my tempoという台詞の何がおかしいか。まず、演奏者はみんな楽譜を持っている。その楽譜の左上には当然テンポが書いてある。たとえば"whiplash"という曲ならBPM(Beats per minute)は161だ。だから、ふつうの指揮者ならテンポがずれているとき、演奏者にこう言うはずだ。「楽譜のテンポじゃない」"Not quite the music tempo"と。けれどもフレッチャーはどうだろう。「俺のテンポじゃない。」は?って感じだ。誰がてめえのテンポに合わせるかよ。
だがフレッチャーの怖さに圧倒されてしまうと、みんな彼のテンポに合わせようと必死になってしまう。フレッチャーは次のように、最高のドラマーを目指すアンドリュー・ニーマンに向かって3つの選択をつきつける。
rushing or dragging or fucking my tempo!
急ぐのか、もたつくのか、俺様のテンポに合わせるのか!
やっぱりおいおい、って感じだ。ニーマン、頼むから楽譜の左上を見てくれ。そこにテンポが書いてある。だがニーマンはこの虐待を受けてもなお、あるいは虐待のゆえに、フレッチャーに言われるがまま、学校の練習室に閉じこもって必死に練習に打ち込むようになる。その練習シーンは何回か登場するが、彼の部屋にメトロノームはない。ニーマンは、ただ手から血が出るほどドラムを叩き続けるのみだ。ただフレッチャーに練習しろと言われた通りに練習をしている。いわば、フレッチャーこそがニーマンのメトロノームなのだ。この映画にあのメトロノームが登場しないのは、あのスキンヘッドおじさんがそのまま人間メトロノームと化しているからだ。
何にしてもまずこのメトロノームの異常性を理解しなければ、ニーマンはフレッチャーとの対立を一生解消できない。なぜなら最悪なことにこのメトロノームは恣意的にテンポを変えうるからだ。それは数字のテンポではない。「俺のテンポ」の異常性はこのように論理的に説明できる。だが、異常性の中身を理解することで少し希望が見えてくる。そこには論理があるから攻略できる。フレッチャーにも弱点がある。この映画のあのラストはその弱点を見事についたものであるはずなのだ。
時計、巨大なメトロノーム
フレッチャーはその恣意性ゆえに絶対的な指標=メトロノームとなるが、このメトロノームの針は音楽のテンポだけではなく、人間の動きのテンポすらもコントロールしている。
ニーマンが初めてフレッチャーのバンドに練習に参加する時、練習開始の9時よりも3時間も早く集合時間を伝えられていたことを思い出したい。前日に彼女とデートしていた彼は、集合時間の朝6時過ぎに目を覚ます。このとき、ニーマンが異常なほど高速で移動していることに注目したい。映画のカットも、直前のデートのゆったりとしたシーンに較べるとかなり高速になっている。そしてニーマンは階段から落ちて顔面を床にぶつける。結局、ニーマンの動きのテンポを決めているのは、スキンヘッドのメトロノーム・フレッチャーであり、このような階段からの転倒も、ドラムを叩かせて出血させたり、テンポが違うと言ってビンタしたりするあのフィジカルな虐待と同じだと言える。
そして、あの忘れがたい交通事故のシーンも、この初めての遅刻の焼き直しになっている。けれども交通事故のシーンが忘れ難いのは、交通事故のあと、ニーマンが血だらけでふらふらになりながら会場に向かい、なんと演奏それ自体には間に合うという点だ。彼はこのとき初めてフレッチャーよりも遅れて会場に入ることに成功した。この遅い入場により、フレッチャーの恣意的なメトロノームが半ば破壊されている。なぜなら、ここではフレッチャー自身が、時計の時間というより大きなメトロノームには逆らえないことが明らかになったからだ。
先のセクションでフレッチャーがニーマンら演奏者に3つの選択を突きつけたことを示した。
1 急ぐ
2 もたつく
3 フレッチャー様のテンポに合わせる
これをそのまま集合時間に当てはめてみよう。
1 フレッチャーよりも早く着く
2 フレッチャーよりも遅く着く
3 フレッチャーの入り時間にぴったりに合わせる
これまでフレッチャーに教わった全ての演奏者には「1」の選択しかなかった。練習室でも、コンサート会場でもテンポを決めるフレッチャーよりも少し早めに入ってチューニングをして準備をするほかない。けれどもニーマンは、交通事故のあとなんとか会場に漕ぎ着けたことで、初めて「2」を選ぶことに成功した。はじめてフレッチャーを待たせる側になった。フレッチャーの指定する時間/テンポが恣意的なものであることがこのとき暴露されているのだ。
再び音楽に話を戻すと、結局、フレッチャーの要求したmy tempo「3」に合わせられた人間は一人もいなかったということになろう。実際、フレッチャーはニーマンが主奏者を勝ち取る場面で、何度も「もっと速く」"Faster!"と叫び、テンポに合わせることよりも速さを要求している。ちょうど練習開始よりも3時間も早く来ることを要求したときのように。俺のテンポに合わせろということは結局、テンポを忘れろ考えるなといっているようなもので、実はフレッチャーが求めていたのは「速さ/早さ」だったことがわかる。驚くべきことに、あれだけ俺のテンポに合わせろと言っていたフレッチャー自身がテンポを問題にしていなかったのだ。
映画のテンポ
ここまでフレッチャーを悪人として、悪を倒すヒーローとしてニーマンを書いてきてしまったけど、本当にそれだけだろうか。たしかにフレッチャーはクソ野郎だ。けれども、フレッチャーは確実にある技術をニーマンに与えたのもまた事実だ。それは演奏/行動のスピードである。遅くすることは難しくない。遅刻することにも非常にゆっくりしたビートを刻むことにも、特別な能力はいらない。だが、速さ/早さはフィジカルな問題であり、トレーニングしなければ獲得できない。ほんとうに抜きん出たスターになりたいならなおさらそうだ。誰かの先を行くのはいつだって難しい。
ニーマンがフレッチャーに最高の仕返しを果たすときも、まさにこの鍛え抜いた「速さ/早さ」が武器となる。ニーマンに退学を、フレッチャーに解雇を与えたコンサートでは、ニーマンがフレッチャーよりも遅いテンポで動いても音楽が成立することが明らかになった。逆に言えば、自分のテンポを強要するフレッチャーですらも時計の時間に合わせて動いていることが暴露されたのだった。そして最後のコンサートでは、ニーマンはフレッチャーよりも早いテンポで行動する。
それは、フレッチャーが次の曲を告げる前に、別の曲を演奏することだった。フレッチャーはこのとき観客におそらく事前に配布されているであろう演目プログラムの順番通りに曲を告げようとしていたのだが、ニーマンがそこをぶった切る。そうすることで彼はフレッチャーだけでなく、コンサートに来場した観客すらも置き去りにしている。演奏者も一瞬置き去りにされるが、彼らはあとから遅れて着いてくる。そしていつの間にかテンポが出来上がっている。次第にフレッチャーも、ニーマンのあとに続いて遅れて腕を振る。彼はもはや指揮者ではなく演奏者と同じようにニーマンのビートに合わせて手を動かしているにすぎない。ここでようやく完全にフレッチャー=メトロノームが粉砕されているのではないか。
けれどもこれは単にニーマンがフレッチャーから主導権を奪い、復讐を果たしたということでは全くない。むしろ二人は初めてのセッションを開始した。フレッチャーはコンダクターではなく、プレイヤーになることで初めて音楽の一部になることができた。ラストシーンの直前に指揮者不在のジャズコンサートでフレッチャーがピアノを演奏していたことは、このことと無関係ではない(さりげないけどフレッチャーはニーマンのシンバルを直してやってもいる)。速いも遅いもぴったりももはや関係ない。テンポなんかはどうでもよくて彼らはただセッションをしている。
ただ最後に、この映画の終わりと彼らの演奏の終わりがぴたりとそろっていることにも触れたい。結局、この映画、デイミアン・チャゼルの「テンポ」に乗せられっぱなしだったというわけなのかもしれないから。監督はフレッチャー以上にmy tempoに追い付かせることを俳優に求め(実際、ニーマン役のマイルズテラーは本当に血を流した)、しかもそれを自らにも課した狂人なのかも、と妄想もしたい。
考察『ショーシャンクの空に』Another One 天を仰いだもうひとりのクソ男
悪人が本質をつく、というのは名作によくある法則のひとつかもしれない。たとえばアメリカ南部ジョージア出身の小説家フラナリー・オコナーの短編「善人はなかなかいない」"A Good Man Is Hard to Find"では悪人ばかりが登場するが、そのなかでも極悪の人物〈はみ出しもの〉"The Misfit"は常人では思いつかないユニークな発想を読者に提示する。この男は刑務所を脱獄した直後、たまたま出会った家族旅行中の一家を皆殺し(罪に罪を重ねる)にするクソ極悪非道男なのだが、最後に残った命乞いをするおばあちゃんを殺す前、興味深い言葉を残す。
[おばあちゃんは]ようやく声が出た。気がつくと、「イエス様、イエス様」と言っていた。自分では、イエス様があんたを救ってくれますと言っているつもりだったが、これだけだと、畜生! 畜生! と呪っているようにも聞こえる。
〈はみ出しもの〉は同意するように言った。「そうだよ。イエスはあらゆるものの釣り合いを取っぱらったんだ。イエスもおれも同じ立場だよ。ただちがうのは、イエスのほうはなんにも罪を犯してなくて、おれは犯しているところだ。」
『フラナリーオコナー全短編(上)』「善人はなかなかいない」(横山貞子訳)32
神と自分が同じ立場なのだとか、自分は罪を犯しているのにイエスだけ罪をひとつも犯さずにいて不公平だとか言って、神と自分の罪の数を競うという発想は常人には思いつかない狂ったものに思えるが、案外論理が通っている。ただ漫然と盲目的に神に祈り赦しをこうルーティンのなかにいると、こうしたことに気付きづらいはずだ。彼ははみ出したからこそ、新しい視点や発想で世界を見ている。
糞野郎が意表をつくという公式は、スティーブン・キング原作の映画『ショーシャンクの空に』Shawshank Redemptionにも当てはまりそうだ。〈はみ出しもの〉に劣らない極悪人の所長が割にするどい。だって、登場人物や観客が気づかなかったアンディの脱出穴を発見するのは、他でもないこのクソ所長なのだから。
アンディが穴から脱出して消えた後、所長はアンディの牢獄のなかで、怒りまかせに何度も「お前ら目ついてるんか?」"You think I'm blind?" "Are you blind?"といいはなつ。そして、レッドに問いただし、ポスターにも話しかけ、最後に「盲点」blind spotを発見する。
所長: やつとお前は親しいな? 何か聞いただろう。
レッド: 聞いてません 一言も
所長: 奇跡だな 人が 屁のように消えるとは
残ったのはいくつかの石ころと
あのポスターだけだ
彼女に聞こう やつはどこだ?
そうか 話したくないのか
お前ら皆 グルなんだな
これは我々に対する陰謀だ
みんなグルだ 彼女も
(石をポスターに投げると穴が開く)
ここで所長はなかなかすごいことをやってのけている。
「奇跡だな」("Lord! It's miracle!)と神を賛美しているのは意外とすごい。彼の表情や言い方からは憎々しい皮肉の色がみえるけれど、彼の意図とは裏腹にたまたま石をポスターになげたことで穴がみつかる前触れになってもいる。しかも、「屁のように消える」"Man up and vanished like a fart in the wind!"というのも大当たりだ。だってアンディはクソ臭い排水管、まさにケツの穴のような通路を通って外に出ているから。実際、原作の原文では「クソの中を通り抜けて、向こう側へきれいに出ていったアンディー・デュフレーン」(『ゴールデンボーイ』新潮文庫 152)とレッドが言っている。こうした奇跡的な予知を所長が知らぬ間に果たしていたと考えれば、神を讃え天を仰ぐ所長も、雨に打たれるアンディのあの美しい姿に呼応している。所長は気づかぬままで、アンディは何かに気づいているという違いはあるが。
所長はもっとすごいことも言っている。それは、「お前らみんなグルなんだな」という台詞で、彼はここでも真実を言い当てている。「グル」は"conspiracy"「集団による陰謀」と原文では読まれているが、所長は誰も彼もが見境なくポスターのなかの人物ですらがアンディの脱出の共謀者であるという異常な結論に至った。けれども狂った所長の発想が真実を彼に与えた。もちろんハンマーを手配したレッド、そのハンマーを本に挟んで渡してくれたブルックス、ロープを渡した〇〇……こうしたすべての人々の共謀によってアンディは脱出に成功したことは確かだ。けれどもレッドたちですら気づかなかった最後の重要な共謀者は、ポスターのなかの女優であった。ここがblindだったのだ。正面を向いた女優のポスターの背面にある穴がクソまみれだったのも偶然ではない。
この"conspiracy"「集団による陰謀」は、アンディの脱出だけではなく、アンディの罪である妻の死にもかかわる重要なワードである。アンディは裁判所で、自分の無実(innocent)を主張した。実際、彼は銃弾を撃っておらず、別の男がアンディに濡れ衣を着せたのだとわかる。ところが、彼は自分が妻を殺したのだとレッドに告白する。
妻は私が陰気な男でーー閉じた本のようだと文句ばかり言っていた
きれいだった。愛してた。でもそれを表現できなかった。私が殺したんだ。
引き金は引いていない。けど死に追いやったも同然だと思う。
こんな私が彼女を死なせた。
My wife used to say I'm a hard man to know. Like a closed book.
Complained about it all the time. She was beautiful. God, I loved her.
I just didn't know how to show it, that's all. I killed her, Red.
I didn't pull the trigger. But I drove her away.
And that's why she died, because of me, the way I am.
これに対し、レッドは引き金を引いたわけじゃないのだから君は殺人犯ではないとアンディを慰めようとする。ただ「悪い夫だっただけかも」"Bad husband maybe"と。アンディは再度自分が引き金を引いていないことを主張するが、描かれていないこのあとに続く彼の台詞はさっきと変わらず、それでも自分が殺人犯と同然なのだという告白になるだろう。
アンディが引き金を引いていないにもかかわらず自分が殺したと認めたことを、妻の死にかかわる人間との共犯関係(conspiracy)を認めたと言い換えても良いだろう。そうすれば、さらに次のようにも展開できる。つまり、妻の体に放たれた四発の銃弾の一発が、比喩的な意味ではアンディの一発であったのだと。すると、なぜ妻の体に放たれた弾の数が4発であったのかもわかる。殺人がコンスピラシー・共謀なのであれば、この死にかかわるアンディ・妻・妻の浮気相手のゴルファー・実際の犯人、この四人が比喩的な意味では誰も彼もが一発をはなっている。
引き金はひいていないけど私が殺したいうアンディの論理に則れば、死んだ妻ですらも、比喩的な意味では、自分で自分に弾を打ち込んでいてもおかしくはない(ちょうど所長が自分に一発射ったように)。そしてこれは浮気相手のゴルファーも同じことだ。一つの死に対して一人一発。四人が皆でかかわって合計八発の弾丸があの夜放たれていたのだ。その意味で、ロックンローラーのもみあげ男に発射された弾が四発だったのも偶然ではないだろう。もちろん引き金を引いたのは刑務官だが、その場にいた3人以外の誰かの一発が彼の背中に当たっていると考えても、これまでの文脈からはそうおかしくない。
こうした垣根をこえた共謀関係・共犯関係はまるで穴の入口と出口のように連続的につながっている。それはクソみたいに切っても切り離せない有機的な関係性でつながっている。脱獄を決意したアンディがレッドに言った次の二択も、二つの違いを分けるはずの"or"の役割が消失しandでつながっているように見えないだろうか。
「要するに次の選択に行き着く。頑張って生きるか、頑張って死ぬか」
I guess it comes down to a simple choice, really. Get busy livin', or get busy dyin'.
生死、牢屋の内外、引き金を引いたか引いていないか、ポスターか人間か、こうした二択の問題をandでつないでみることのできる目は、一度〈はみだし〉てみないと手に入らないのかもしれない。
新たなSATCのトイレ事情「And Just Like That...」
トイレは “女子のコミュニケーションの場”だった。
クラブでお相手探しをしているとき、トイレに入ってちょっと休憩。
パーティ会場でソーシャライズしているとき、仲良しグループでトイレに集合。
トイレでメイクを直してるとき、他の女子の会話からゴシップをゲット。
セックス・アンド・ザ・シティ(SATC)とポリコレ
NYC在住セックスコラムニストのキャリー・ブラッドショーと友人らが送るニューヨーク・ラブ・セックス・ライフのコメディシリーズ。シーズン6までテレビドラマとして1998〜2004年まで放送され、2度の映画化のあと2021年より「And Just Like That」というタイトルで新シーズンが放送されている。日本ではU-NEXTで毎週水曜に1話ずつ更新されており、2022年1月29日現在、5話まで配信されている。
2000年前後に放送されていたドラマは、ポリコレ的に見てられなくなる。例えば一部を挙げるだけでも、登場人物は白人ばかり(舞台はNYC!)、メインで登場するのはシスヘテロ女性たち(クィアな関係は一時的なこととして処理される)、キャリーとシャーロットの親友はそれぞれオシャレなゲイ男性で口が達者(というシスヘテロ女性とゲイ男性のステレオタイプな友情)などなど。
あと笑っちゃったのは、ニューヨーク・タイムズ紙などに書評を書いている文芸評論家で日系アメリカ人のミチコ・カクタニの名前が言及されたとき。キャリーはコラムを集めて書籍を出版するのだが、ミチコ・カクタニの毒舌の書評が怖くてたまらなかった。そこで、「ミチコ・カクタニって名前、なにこれ!発音しづらいんだけど!やだ!」みたいなことを言っていた。
筆者は数年前にドラマを見ていたとき、キャリーたちが名前をいじっているのを「おお!まじか!」と思いつつ、ドラマ制作当時はこんなこともテレビで言ってたのか、そうだったよなと思って自分も笑ってた。ほかにも筆者も無神経で気づけていないおっとっとポイントがたくさんあると思う。
新章「And Just Like That」での様変わり
舞台設定はポストコロナのNYC、というか2021年の後半頃。オミクロン株の拡大は起きていないころの撮影だから、パンデミック終わったー!みたいなテンションなのがまずウケる。前ドラマシリーズからは20年弱経っているわけだ。
この20年弱の間、出演陣にはいろんなことがあった。サマンサはロンドンに移住して主な登場人物はキャリー、ミランダ、シャーロットの3人。ドラマ制作時にサマンサ役のキム・キャトラルが出演を断ったためという裏事情のためだ。キャリーの大恋愛相手で夫のミスター・ビッグ役のクリス・ノースが複数の性的暴行疑惑で訴えられていたり、スタンフォード役のウィリー・ガーソンが2021年9月に57歳で亡くなっていたり…。
「And Just Like That」は、かつてのドラマ・映画に描かれていたジェンダーやセクシュアリティ、人種、若さと老いの問題にとにかく自己言及的だ。あのときはああだった、でも今はこう、というのを受け入れて前に進もうとしているらしい。出演陣だけでなく社会全体に様々な変化が訪れたので、ドラマにもそれらが反映されているよう。
で、トイレに注目してみる。SATC好きはすぐにも気付いたと思うけど、「And Just Like That」でもトイレはコミュニケーションの場として機能している。いろんな形で。
「行こう 55歳だし漏れそう!」(第1話)
長い列ができた女性用トイレに並ぶのに飽き飽きとして男性用トイレを使うミランダとキャリー。あまり記憶が定かじゃないけど、こんなこと今までのドラマではなかったよね?ミランダが「55歳だし」と付け足していることから、歳を重ねた今は女子トイレ絶対主義ではなく、どのトイレでもいいから用を足すこと絶対主義になったよう。ちなみにミランダが男性用トイレで用を足している間も個室の前に立っているキャリーとお喋りを続けている。トイレがコミュニケーションの場であることは絶対。
"オールジェンダートイレ”(第3話)
散歩中におしっこが漏れそうになったキャリーはカフェで飲み物を買って、そこのトイレを使おうとする。すると、オーマイゴッシュ!あの人が先にトイレに入っていた。そして、キャリーはあの人とトイレで会っちゃったのをきっかけに久しぶりに話をする。トイレに入ろうとしたとき、“オールジェンダートイレ”という標識が読めるように画面に映る。誰でも使えるトイレで、仲良しグループだけじゃないトイレで、あの人と再会する。トイレきっかけに話をすることで、キャリーとあの人の間にあった緊張もちょっと溶ける。“オールジェンダートイレ”は分断を解消する象徴なのかもしれない。
"彼女をトイレに座らせよう”(第5話)
キャリーは股関節の手術をすることになった。術後一人で歩いてトイレに行くことができないため、シャーロットがキャリーを支えてトイレの便座に座らせ、最中も見守る。信頼のおける友だちでないと、なかなかこの頼みはできない。トイレのケアって大切。人は生まれたときオムツをつけてもらって、自分でトイレに行けるようになって、また助けが必要になるときがくる。突然の病気や事故で、助けが必要になるのがいつやってくるかは分からない。トイレは通常個室になってて「見られない」ことが前提の行為であるが、「見てもらわないとならない」のはどちらの立場でも大変だろう。普段のコミュニケーションがあるからできることだろう。
ちなみに筆者は酔っ払ったときやお腹が痛すぎたときに友達に見守られながらトイレをしたことがある。ありがとう、友達…。
「ベッドで漏らした 誰も手伝ってくれないから」(第5話)
術後キャリーは家に帰るがまだ自由に歩けるようにはなっていないので、ミランダとシャーロットが交代でキャリーのケアにやってくる。ミランダ担当の日、キャリーはベッドで寝ていたのだが “色々あって” 目が覚めた。キャリーはおしっこが漏れそうなのにミランダが寝室のキャリーに気付いてくれないため、トイレに間に合わなかった。 そして“色々あった”ミランダは自分でトイレに行き用を足す。自由に動けないキャリーがベッドで漏らしたのとは反対にミランダはすっきりした顔でトイレから出てきてキャリーに気づく。二人は口論になるのだが、そこで“色々あった”こと含め、ぶっちゃけた話をする。お漏らしやトイレを挟んで、二人は決定的なコミュニケーションを取ることができたのだ。トイレはコミュニケーションの大事な場面で登場してくる。
ここ1週間で配信分をイッキ見した。ポリコレ意識しすぎてないか?言及しすぎでは?と思いはじめは見るのを辞めようと思ったけど、やっぱり見続けたら面白くなってきた。ゴリ押し感、いやだと思う人たくさんいるんだろうな、と思うと悲しいんだけど。まあ、続きを楽しみにしてる。このあと登場するトイレ場面も。
今のところ思う名台詞は第4話で新しいキャリーの友だちシーマが言ってたこと。
「人は時々 自分の無神経さに気づかない」
過去のドラマ・映画を踏まえてしつこいくらいに自己言及的なのも、無神経さに気づけないよりいいんじゃね。無神経なところがあるって分かった上で人は試行錯誤していくんだね。
いやーそしてやっぱりミランダ好きなんだよなー!
映画『わたしたち』 海に行くときに見ているもの
この映画を見終わったあと、モヤモヤしていた。終わり方が中途半端に思えたからだ。けど、それから少し経ってもう一度見返したら、あの終わり方でベストだったんだと思うようになった。
ネタバレしています
Amazon.co.jp: わたしたち(字幕版)を観る | Prime Video
『わたしたち』ってタイトルだけに、この映画、ずっと人間関係のはなしをしている。クラスで仲間はずれにされている小学四年生のソンは、夏休み直前に、転校生のジアに出会う。
夏の間、ソンとジアは「これあげる」「これ使っていいよ」「いっしょに食べよう」とかのやりとりを繰り返すことで距離を縮めていく。たとえば、
・手作りのブレスレット
・ひらたくて四角い缶に入った24色の色鉛筆
・花びらをつぶして作った手作りのマニキュア
などなど。こうやって夏休みを楽しく過ごしていたが、いざ2学期が始まると、転校生のジアはソンを仲間はずれにするグループと連むようになってしまう。遠のいた二人の距離は、贈り物の取り消しを通して描かれている。「あの時あげた色鉛筆返してよ」とか、「なんでまだブレスレットつけてるの」とか。仲の良かったはずの二人は、いざこざを重ね、しまいには教室で取っ組み合いするまでに。
こういうやりとりは、学校の教室だけではなく、大人の世界でも行われる。主人公の母親は小さなキッチンテーブルで海苔巻きをせっせと山のように作って、神父さんに持っていくんだと話す。父親は病気の父のお見舞いに行ってやらない。かつて自分の父にされたことを恨んでいるようで、仕返しのつもりのようだ。
けれども、こんなことはどうだっていいようだ。最後から二番目のシーンで、こういうシーソーゲームの外に出るシンプルな方法が突然に示される。主人公のソンの弟ユンは、顔にあざを作って家に帰ってくる。ソンとジアのように、弟も友達のヨノと喧嘩したのだと言う。姉は「もうそんな友達と遊ぶな」「叩かれたら叩き返せ」と忠告するが、それに対して弟は「じゃあいつ遊ぶ? ヨノが叩いて僕も叩いたらいつ遊ぶの? 僕は遊びたい」と答える。それで姉はハッとしたような表情をする。
監督はインタビューで、この弟のユンのセリフを重要視したことを次のように語っている。
4歳のユン役の子は実際には7歳ですが、小柄で幼い子。途中まではセリフがなくてただ遊んでいればいいという役なんですが、最後に一言だけ印象的な決めゼリフを言わなくてはなりません。それを何度も練習させたので、すごいストレスだったらしく、最後にはすっかり嫌われてしまいました(笑)
嫌われてまでしても撮ったこのシーンは、ラストシーンの直前にインサートされている。だから、ユンの迫真の演技(または迫真の演技指導)は、本当のオチを伝えるために必要だったはずだ。まだこの映画には先がある。
ラストシーン。子供たちが学校の体育の授業でドッジボールをしている。映画のオープニングと全く同じシチュエーションだ。ゲームに夢中な子供たちは、ジアが白線を踏んだかどうかで揉めはじめる。ドッジボールのルール(ローカル・ルールかも?)では、コートの線を踏んだときボールに当たらなくてもアウトになるようだ。
A:「ジア 線を踏んだでしょ? 出て」
ジア:「踏んでない」
ソン、それまでぼーっとしていたがハッとして顔を上げる
A:「踏んだのに出ないよ」
B:「「踏んだら出て」
ジア:「なんで急に そう言うの」
C:「早く出ろよ 時間がない」
D:「ウソつきだよね」
ジア:「本当に踏んでない」
A:「怒らないでよ」
ソン:「ジアは線 踏んでない」
A:「何?」
ソン:「本当に踏んでないもん 私が見てた」
このシーンは、変だ。だってソンは自分の手を見てぼーっとしていたはずで、全然ゲームに集中していないからだ。でも、嘘をついている感じは全くない。
じゃあソンは何を見ていたか。この質問には、ソンの目線を順に追っていけば答えられる。
まず、ドッジボールのチーム分けのとき、ソンは親指を噛むジアを見ている。このときジアが「左」の親指を噛んでいることに注目してほしい。
それを見て、ソンも親指を噛むが、ジアとは反対の「右」の親指を噛んでいる。
ゲームが開始する。
ボールに見向きもしないソンは開始1秒でアウトになり、外野に回る。そして、ソンは自分の噛んだ指を見る。
このとき、指をよく見ると、さっき噛んだのは右の親指であるはずなのに、他の指もくわれてることがわかる。特に、左の薬指の爪は赤くなっており、血が出ているように見える。ここから、ソンはジアのまねをして指を噛んだつもりでいて、実はそれ以前から噛んでいたことがわかる。ずっと二人は同じことをしていたのだ。自分とジアの共通性に、彼女はこの時たまたま気づいた。
続くショットで、ソンは顔を指から離し、何かを思い出したように目を左に右にゆっくりと動かす。その直後、「ジア 線を踏んだでしょ? 出て」という声にハッとして顔をあげるのだが、ソンはやっぱりグラウンドに引かれた線を見ていたとは思えない。
指を噛むという癖がジアと同じだったと気づいたソンは、おそらく、あの夜の約束のことを思い出し、その記憶に集中していたはずだ。
ジア:あのね
パパとママは私が一年の時 離婚したの
ソン:本当?
ジア:その時は離婚って知らなかった 笑えるよね
ソン:そんなことない
ジア:パパとは長く暮らすと思ったのに
ソン:なのに何?
ジア:ううん まあちょっと
最初 ママと暮らした時が一番よかった
ソン:じゃあ またママと暮らしたいって言えば?
ジア:無理だよ それに おばあちゃんは
ママの話をすると怒るし
ソン:本当? 私のパパも
ジア:本当?
ソン:おじいちゃんの話をすると
カッとなって お酒を飲むの
ジア:そう? 大人は分かんない
実はママにずっと会ってないの
海に行く約束したのに
ソン:本当? 私も海に行く約束を
ジア:本当?
ソン:ジア 2人だけで一緒に海に行かない?
ジア:本当? マジで? いいよ
ソン:約束
両者の口から交互に飛び出す「本当?」は本当にそのまま本当?!って感じだ。ママの話をして怒るジアのおばあちゃんと、おじいちゃんの話をすると怒るソンのパパが同じ。全然違うのに同じ。こういう不思議な一致に驚いた二人は、「ほんと?」と口の形も同じにして「同じであること」を確かめている。そして、この驚きの一致から二人は「海に行こう」という約束に行き着く。この約束のとき、韓国ではよく見る光景だが、ソンとジアは小指を絡めたあと互いの親指を押し込むように合わせている。
なんでさっき噛んだ指の左右を覚えておいてほしかったのか、もうお分かりだと思う。ラストシーンで噛まれていた親指は、あのとき合わせた親指だった。ジアは左の親指を、ソンは右の親指を。親指の一致を通して、ドッジボールのコートの外に立つソンはこの場面を思い出しているはずだ。
「海に行く約束」まで記憶をたどれば、おのずと別のシーンも思い出されるはずだ。ジアと約束をしたあと、ソンはジアではなく家族と海に行っていたからだ。ソンのおじいさんの死によって、破られたと思った約束が思わぬ形で守られたのだ。このとき、ソンがジアの親指を見る場面と似た視線の切り返しがある。最後まで父を許せずにお見舞いに行かなかったことを悔やむ父は海に目を細めているが、その父の顔をソンは見る。それから、彼女は父と同じように、海に目をやる。
その視線の先には水平線がある。この線は、空と海の境界に過ぎず、実際あるように見えて本当はそこにない線だ。(主人公の名前のソン(선)に、「線」の意味があるのもきっと偶然ではないだろう。)ドッジボールに脇目も振らずにいたソンが、指から目を離し、目を左右に走らせながら見ていたのはきっとこの水平線のはずだ。象徴的な意味としての線ではなく、ソンは自分が実際に見た海に浮かぶ水平線を見ていたのではないか。
A:「ジア 線を踏んだでしょ? 出て」*1
ジア:「踏んでない」
・
・
・
ジア:「本当に踏んでない」
A:「怒らないでよ」
ソン:「ジアは線 踏んでない」
A:「何?」
ソン:「本当に踏んでないもん 私が見てた」
ソンはやはり本当のことを言っていると思う。彼女がおそらくそのとき見ていた線はグラウンドに引かれた白線のことではなく、記憶の中の水平線だったような気がするから。もしそうなら、それはたしかに踏むことはできず、ただ見ることしかできないだろう。
このあと、結局ボールが当たってアウトになったジアが、敵チームなのにもかかわらずソン側の外野に周り、ソンの隣に並んで立つ。ジアはルールを無視することで、ドッジボールのゲームの外に出ていくように見える。
二人が横並びになると、画面は暗転し、ドッジボールを楽しむ子供たちの声だけを残してエンドロールが流れ出す。いっけん曖昧にぼやかしたように終わるこの映画の先で、ソンとジアが仲直りして、海に行くって話は無さそうだ。おそらく約束は暗転する前に果たされたのではないか。「水平線」を見たソンと、敵側の外野にいるソンのとなりに立つジア。もうこれだけで二人は仲直りの儀式なんかぶち抜いて、約束を果たしてしまった気がする。(リ)
*1:ここの線は映画では「금」(クム)と読まれており、「선」(ソン)と使い分けられているとらえたい。つまり、ジアは「금」(クム)は踏んだけど、「선(ソン)」は踏んでないってことなのではないか。「水平線」は「수평선」(スビョンソン)だ。
映画『アイランド』 消えた靴の謎
『アイランド』っていう映画をアマプラで観た。2005年公開。スカーレットヨハンソンとユアンマクレガーのコンビで繰り広げられるSF作品で、アクションもストーリーの展開もなかなか面白く見応えはある。
Amazon.co.jp: アイランド (字幕版)を観る | Prime Video
以下、がっつりネタバレ。
感想まじりの考察をしながら、消えた靴の謎にせまります。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
目次
そういえば靴もクローンみたいなものかも
早速バラすけど、映画のタイトルにある「アイランド」ってのはウソね。クローンから臓器を摘出したり、クローンに代理出産させることで莫大な金を稼ぐ企業が、製品・商品であるクローンに刷り込ませた(inprinted)架空の島、それが「アイランド」。クローンたちはバカでかいビルのなかで栽培され、外の世界が汚染されていると教育されており、いつか汚染されていない最後の地「アイランド」に旅立つというフィクションを信じている。もちろん「アイランド」行きの決まったクローンは、臓器を提供したり子供を出産したりしたのち、お役御免となり処分されていく。
設定はちょっとややこしいけど話の流れはシンプルで、クローンの中で初めて管理された世界に疑問を抱いたリンカーン・6・エコー(ユアン・マクレガー)が、ジョーダン・2・デルタ(スカーレット・ヨハンソン)とともに、外の世界へと脱出する。それで「アイランド」の嘘を暴き、クローンたちを大解放するってだけ。『マトリックス』のネオがトリニティと一緒に人類を救うみたく、6・エコーは2・デルタと一緒にクローンの仲間たちを解放するみたいな感じ。
で、靴の話をさせてほしい。おれがこうして記事を書いているのは、次のシーンが気になったからだから。映画の冒頭、悪夢から覚めたリンカーンは、自分のクローゼットの靴が片方だけなくなったことに気づき、管理局のようなところに電話をかけて靴を発注する。それから部屋を出て、廊下で友達と会って次のように会話する。
おともだち:「調子はどうだい?」
リンカーン・6・エコー:「靴を片方無くしたんだ」
けれども、おともだちはこれをガン無視。それに、この後いくら待てども靴の行方は明かされない。だから、このシーンはとっても浮いている。『ウォーリーを探せ』みたいな感じで、かたっぽの靴がどっかのシーンに落ちてるのだろうか。いや、けどそれが見つけたからってどうなるわけでもない。多分そういうことじゃないのでは。それでおれは、この失踪を製作者からのサインとして受け取ってみた。「靴が片方消えた」ということそれ自体の意味をちょっと考えてみてねっていうサインとして。
このシーンを繰り返し見ているあいだにあることに気付いた。それは、主人公が消えた靴の代わりを「発注したこと」が意外と大事かも、ってことだ。つまり、靴が消えなくちゃいけなかったのは、クローン自身が靴のクローンを必要とすることを強調するねらいがあったんじゃないかなって。
人間がクローンを製造するだけでなく、製造されたクローンもまた同じようにクローンを求めている。クローンを「スペア」という言葉に言い換えても良い。たとえばタイヤがパンクしたらスペアタイヤを使う。替えを効かせる、足りなくなったら補充する、古くなったら入れ替える。クローン思考は人間の営みのベースにある。私たち人間はすでに日常的にクローンを使用している。
これを念頭に置いて、さっきの靴の話に戻る。リンカーン・6・エコーというクローンが、靴のクローンを要求することは、クローンがとても人間的であることを強調するための演出ととれないか。つまり、この映画では、クローンが人間のそっくりさんであることが、表面的に見てわかる身体としてではなく、内面的な思考パターン(クローン的思考)によって強調されているのだと。もしそうであれば、リンカーン・6・エコーはとても人間臭いと言える。
人はクローンに、クローンは人に
この映画は、人間とクローンが対立関係にあるのではなく、同質のものとして描かれているところに特徴がある。この映画は、『マトリックス』のようなわかりやすい対立構造(人類VSロボット)を持たないので、ネオを人類の救世主として応援しながら観るような見方ができず、観客はどちらの立場にも立てない居心地の悪さを感じることだろう。個人差はあれど。ともかく、この映画には、人間とロボットが闘ってロボットが勝ったとか、猿と人間が闘って猿が人間を支配しましたとか、そういう闘争の関係はなく、人間とクローンの境目のなさ、分けられなさが強調されている。
それだけでなく、機械/人間の境目も消えている。それはカーアクションのシーンに見られる。クローンのいるビルを脱走した6・エコーは、自分のオリジナル、トム・リンカーンに会いに行き、クローンで儲ける会社を告発するように協力を求める。二人は車に乗って、テレビ局で会社の非道を訴えるはずだった。ところが、トムは密かにクローン管理会社に連絡をとっており、6・エコーを裏切っていたため、6・エコーはトムを乗せたまま車を激走させて逃げ回ることになる。
ーー6・エコーが操縦する車に追手の銃弾が当たる。
トム・リンカーン:「俺の車が エンジンを撃ちやがった」
"They're shooting my car, they shoot my engine!"
ーー6・エコーが助手席に座るトムの顔を、銃で殴る。
トム・リンカーン:「俺の鼻が」
"Oh my nose!!"
ここでは、トムの車の一部と人体の一部が比較可能なものとして並べられている。ダメージの質が同じなのだ。人間のクローンがいる世界では、エンジンだろうが鼻だろうが金を払えば修復可能なものであり、どちらも経済的なダメージでしかない。ここでは人工物と自然物の差異が消えている。ぜんぜん笑えないシーンだ。いや、むしろもう笑っていいのか。
人間とクローンの差は消えてしまう。それは、意外にも人間が人間のクローンを作ることによって。一見、クローンを製造することは人間の外で起きていることのように思えるが、人型クローンの製造は、人間自身をクローンへと作り替える行為でもあると言える。印刷にたとえると、原本とコピーされた用紙の見分けがつかなくなるようなあの感じに似ている。
実際、リンカーン・6・エコーのオリジナルであるはずの人間トム・リンカーンは、クローンの捕獲を命じられた男によって誤って殺されてしまう。激しいカーアクションのあと、カークラッシュした車から降りた二人に銃口が向けられるが、狙撃隊はどちらが本物なのかを見分けることができない。結果、本物が死ぬ。リンカーン・6・エコーは、自分のオリジナルを射殺した男に自分が人間だと信じさせる。こうしてクローンは人間になり、人間はクローンになる。
赤信号は「止まれ」なのか
クローン/人間の差を超え、コピー/オリジナルの見分けのつかなくなった、そのどちらでもなく/どちらでもある6・エコーからは、人間にもクローンにも想像できなかった一歩上の発想を学ぶことができそうだ。先ほど、車を運転しているシーンで車のエンジンと人間の鼻が同列に並んでいることを指摘したが、このカーアクションシーンには、まだ大事なシーンがある。
トム・リンカーン:「赤だぞ 赤だ 止まれ!」
リンカーン・6・エコー:「どうして?」
トム・リンカーン:「車を止めろ!!」
ーー6・エコーが車を止める。
リンカーン・6・エコー:「どうしたんだ?」
トム・リンカーン:「信号の赤は"止まれ"だろ!」
リンカーン・6・エコー:「知らなかった」
管理されたビルの中で外の世界を知らずに栽培されたクローンは、信号のルールを知らない。6・エコーはこのとき初めて、「赤は止まれ」を学習した。ところが、この直後、上空からやってきたヘリコプターから放たれた銃弾が信号機を直撃し、信号機が落下する。まるで、教わったばかりの知識をなぎ倒すかのように。すると、6・エコーは次のように言って、アクセルを全力で踏む。
トム・リンカーン:「悪いな。俺はまだ死ねないんだ」
リンカーン・6・エコー:「俺もさ」
この作品では、刷り込まれた(inprinted)ルールを破り、「誰かの無言のルール」を疑う役割を、クローンと人間の見分けのつかなくなった6・エコーが担っている。そう考えると、彼が反対車線に入り逆走するのも単なる派手なアクションの演出以上のものが読み取れる。というのは、助手席に座るトム・リンカーンが逆走する6・エコーに対して言う"Run the right side"という台詞は、そのまま「右側を走れ」(アメリカは右側通行)とも取れるけど、「正しい道を走れ」という命令にも聞こえるからだ。それに、助手席って右側だ。反対に、操縦する6・エコーは左側に座っている。そういえば、冒頭で消えた靴も、字幕では「靴が片方ない」だったけど、英語では"I'm missing my left shoe"。rightじゃなくてleftに運転が任されているってわけなのかも。
リンカーン・6・エコーが最初に気づいたのは、「アイランド」が存在しない作り話だということだった。この発見の延長線上に、信号機や走行のルール無視を置くことができそうだ。既存のルールをつぎつぎと破ることで、決め事が作られたものに過ぎないことを暴く6・エコーは、人類にもクローンにも思い付かなかった道を進むドライバーとして適任と言えそうだ。
不在の発見と更新
映画の最後で二体のクローン、ジョーダンとリンカーンは「RENOVATIO」(ラテン語で「再生・更新」)というボートに乗って海を走っている。海に信号はないし、レールや道路のように決まった道はない。この航海を続けてもアイランドに辿り着くことはない。それは存在しない。けれども、少なくとも刷り込まれたルールや、敷かれたレールの存在しなさ、つまり、「アイランド」の不在を発見したことで、更新の下準備が整ったのだと積極的に解釈できそうだ。無いことを発見する。
片方だけ消えた靴の行方は、映画の最後の最後まで明かされない。多分、これでいい。この欠落があるから良い。消えた靴は「見つからない・そこにない」ということが発見された。むしろ、靴は両足揃うべきだという発想(赤信号は止まれ的ルール)を疑うことも可能になる。この映画には不在を見つけることで真に消える「アイランド」みたいなのがたくさん隠されているのかもしれない。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
けど、靴の行方はやっぱり追えると思う。答えは出せる。たしかに冒頭に消えた靴は見つからない。けれど、新しい靴が代わりに見つかっている。それはもっと前に進むための靴だ。それはスペアとしての靴ではなく、既存のルールを更新し作り替えたようなもので、今まで誰も靴だとは考えてこなかったような類の片足の「靴」であるはずだ。最後の画面の中にそれはあるように見える。(リ)
(ドラマ批評)『イカゲーム』における「おねしょ」の神秘―― VIPよりもVIPな視聴者の仕事
執筆者:リヴァー刺
ネタバレ注意!!
数字の意味は、確かに気になる。イルナムという名前に韓国語の1である「イル」が入っているとか、サンウの218は韓国語で「イーッシバル」という悪口であるとか。
だけど、もしかすると、数字そのものの意味よりも、数字の交換に意味があるのかもしれない。数字の交換は、具体的には、ジャージの交換とゼッケンの交換を通して描かれていた。この2つは数字の最初と最後の交換である点では同じなのだが、決定的な違いがある。
まず、ジャージの交換から見ていこう。
『イカゲーム』第5話のラストで、番号001の名札をつけた老人はおねしょする。
続く第6話の冒頭で、番号456の主人公は、自分の上着を脱ぎ、老人の濡れた下半身を隠してやる。
その後すぐ、同じ第6話で、今度は老人がゲームに参加するためのペアを作れずにいる主人公を見かねて、「上着がないと信頼されない」と言って脱いだ上着を主人公に渡す。
ジャージについたナンバーの差がもっとも大きい(ゲームの参加者は456名)プレイヤー間で上着が入れ替わることを通して描かれる公平な取引は、「メンコ遊び」「だるまさんが転んだ」「綱引き」などの子供の遊びでめざされていた「ゲームの公平性」とは少し次元が違うようである。
なぜなら、ゲームではそのまま生死を意味する勝敗が決まるのに対し、このジャージの交換はそうしたゲームのルールとは無縁であり、お互いに対価を期待することのない交換だからだ。
おねしょという本人のコントロールを超えたアクシデント。起きると股間が濡れている。それに対する他者の咄嗟の反応。001と456のあいだで行われるおねしょをきっかけとした取引は、ゲームの主催者という第3者によってジャッジされることのない特別なものだ。ここに『イカゲーム』のほんとうの公平が描かれていたのではないか。
おねしょをきっかけとして老人と主人公のあいだで行われる001と456の上着交換は、第7話で主人公と096の間で行われる01と16のゼッケン交換と対照的に描かれているように思われる。
このゼッケン交換の一部始終は、VIPにとってゲームの余興として鑑賞されている。また、096の男が主人公に番号を「交換してくれませんか」と言うことができたのは、VIPが「ゼッケンの番号は次のゲームのプレイ順を意味している」というヒントを与えろと指示を出したためであった。
老人のおねしょというアクシデントを通じて行われたジャージの交換は、このゼッケンの交換のように、VIP(観客)に監視され、公の場に晒された取引とは決定的に異なる。おねしょという隠さなければいけない事件に重ねられた、老人と主人公の秘密のプライヴェートな交換は、2人だけの関係で起きている交渉であり、ゲームのプレイヤーもVIPも運営も誰も気づかない。
あるVIPが口にする069(シックスナイン)のくそつまらない下ネタは、露骨にステレオタイプ的なアメリカンジョークをねじこんだ奇妙なシーンを作り上げる演出ともとれるかもしれない。だが、それ以上に、このくだらないジョークはVIPが数字に注目してゲームを追っているにもかかわらず、456が001のジャージを着ていることに気づかないことのおかしさを強調する役割があるのではないか。こう考えると、くそ下ネタも意外と大事なシーンのように思えてくる。
老人と主人公のあいだで起きたジャージの交換は、この作品でプレイヤーも観客も運営も気づくことのできない隠された公平さであった。意外なことに、それはゲームの最中ではなく、ゲームの外で達成されていた。
老人がおしっこを漏らし、その後、ジャージが交換されたことは作品の中で誰にもバレていない。この出来事を目撃しているのは、ネットフリックスにお金を払っている視聴者だけだ。この意味で、視聴者はVIP以上にこのゲームのVIPなのだ。であれば真のVIPである視聴者の仕事は、001と456のあいだに起きた特別な交換について考えるという贅沢を味わうことであろう。誰が優勝するかで賭けを行うVIPのような鑑賞者が見逃してしまうような、プライスレスな経験を味わうことに、視聴者の仕事があるのかもしれない。
【考察:漫画・ドラマ『二月の勝者』】「合格に必要なのは、父親の経済力と母親の狂気」?――「二月」に勝った先にあるもの①
筆者:ぴんくぱんだちゃん
「合格に必要なのは、父親の経済力と母親の狂気」
ああ。その通り。あとは生徒本人の少しばかりの適性かな。父親の経済力と生徒の適性が必要条件で、母親の狂気が十分条件。これが中学受験だ。
※シングルマザー・シングルファーザー家庭での中学受験のケースもたくさんある。筆者の家庭も一時期片親だったので、その独自性にもいずれ触れるが、あくまでも今回の記事は、「父親」、「母親」、「子供」という三者の関係に焦点を当てる。
漫画『二月の勝者』が、2021年10月17日から、ドラマ化された。第一話放送直後から、上記の台詞――「合格に必要なのは、父親の経済力と母親の狂気」――がネット上で大きく取り上げられている。かくいう筆者(ぴんくぱんだちゃん)も、東京・神奈川エリアの中学受験経験者であり、中受専門の家庭教師としても3年ほどアルバイトの経験がある。この漫画のドラマ化と、世間の反応をとても楽しみにしていたクチである。
本記事は、シリーズ形式で漫画『二月の勝者』の考察・分析を行うが、第一回は、まずこの作品を代表する言葉、――「合格に必要なのは、父親の経済力と母親の狂気」――の真意を探る。ただし筆者は、あくまでも東京・神奈川エリアの中学受験の受験&指導の経験しかないので、その他のエリアの雰囲気については判断しかねる。アラサー世代の筆者が経験した首都圏エリアの中学受験に限定した、独断と偏見に基づく中学受験観を以下に披露させていただく。
中学受験の話をするには、書き手自身の中学受験スペックを披露しなきゃ誰も読まないのは知っている。開始時期は御三家受験生にしては普通orやや遅め、成績は急激に伸びることも落ちることもなくずっと55~60あたりを彷徨う面白味のない生徒だった。
入塾時期:小3春期講習(小2の年度終わりから)
第一志望:女子御三家(不合格:多分受験者の中で下位30パーセントくらい。)
第二志望:女子御三家受験者が2月2日に受ける典型的な学校(合格)
第三志望以下:第二志望に2日に受かったので受験していない。3日にも第二志望の学校に出願していた。第五志望だけ2月1日の午後受験で受かっていた。
・・・「成功」とも「失敗」とも言えない受験である。指導する立場の時にこのデータを見たら「普通に成功した子」と思うだろうが、本人は「失敗した」という思いを消すのに時間がかかった。ちなみに両親は「成功」と思っていると思う。詳細は次回「中学受験生は永遠の中学受験オタク!」で触れたい。
「合格に必要なのは、父親の経済力と母親の狂気」?
父親の経済力というのは、2つの意味で重要だ。まずは通塾させるのに十分な経済力。メインの塾のほかに、家庭教師やサブ塾、習い事なんかも並行したりする。つまり、中学受験時代を持ちこたえられる経済力だ。そして2つ目は、あまり言及されないけれど、中高6年間の出費に耐えられる経済的な体力である。個人的にはこちらのほうが長い目で見れば重要だと思う。
一つ目の中学受験期の経済力は、この漫画で有名な「課金」すればするほど子供の成績は伸びるのか、という問いにもあるように、時には子供の学力と正比例してしまう。そりゃあ、授業や講習を塾の組んだプログラム通りに履修できるほうが効率よく成績が良くなるに決まっている。この話はドラマ・漫画の後の回でも詳しく扱われるので割愛。
二つ目の、中高6年間に耐えられる経済力。こっちが重要。
まず、年間授業料・校風・学校の場所・偏差値などを調べて受験校を絞るわけだが、そもそも6年間私立に通うのでギリギリの収入だと、選べる学校の幅がここでもう狭くなる。さらに、「ギリギリ6年間通える」と「ゆったり十分な額のお小遣いをあげて、学校に寄付金も収めながら通える」では大違いだ。前者の状態で入学してしまうと、校風にもよるだろうが、生徒本人も母親も、かなり肩身の狭い6年を送ることもある。しかし、学費が安くて尚且つ進学率・校風も魅力的な学校なんて鬼のような偏差値である。ギリギリで通えばいいじゃないか?何を言ってるんだ。コテコテの女子校出身者の筆者が断言するが、なかなか苦しい6年間になるだろう。吹奏楽部とか、新品の楽器買わされるんだからな。部活も好きに選べないんだったら、その学校はすでにその子には合っていない。
母親の狂気
これは必須。指導する側の立場になった年に一層痛感した。「受験の天王山」、つまり小6の夏休み、「勉強ばっかりでかわいそうになっちゃう、すこし休ませたほうがいいのかしら」と私に相談してきたお母様がいらっしゃった。マトモである。真っ当な判断だ。だけど私は(おそらく彼女の塾の先生も)直感した、「あ、この子落ちるだろうな。お母さん普通に優しいもん」。案の定落ちた。結局、かなり偏差値を落として設定した保険の第3志望に行った。
黒木先生も言っているように、中学受験で第一志望に受かることなんてほとんどない。高めに設定していればなおのこと。C, D判定でも受かるやつなんてモンスターだ。中学受験は大学受験とは違う。だからこそ、第2志望からが現実的な第1志望と考えて、子供を𠮟咤激励できなければ第5志望まであっという間に落ち続けてしまう。
中学受験で成功した(第2志望までに受かるとか、満足できている)人に聞くと、母親はみんな狂っている。親子の関係は一度は壊れている。修復できない人もいる。でも受かってはいる。
筆者の母親もだいぶイカれていた。受験校を絞り切れていない時期の週末は毎週学校説明会に参加していたし、毎日弁当も作ってくれていた。それだけですでに「狂って」いなきゃできない気がするが、くわえて毎晩怒鳴りあいの大喧嘩。算数のプリントをやったとかやっていないとか。
「狂気」は1月31日の夜に頂点に達した。母親は動揺しすぎて包丁で指を大怪我した。彼女の取れかけた中指は今でもよく覚えている。明日は5時起きで受験本番!という晩、救急外来に走っていった母親を見て、私が思ったのは「一人で受験行けるわー良かったー」。完全に母娘の信頼関係は壊れていた。結局、当たり前といえば当たり前だが、受験に付き添ってくれた母親に何故か私はブチ切れて熱い紅茶を床に投げつけた。うん、母娘共々「狂って」いたのだ。丸4年間、「なんで思うように勉強しないの?」と思い続けた母親と「こんなことやってられっかよ!!!!」と思いながらも机に向かい続けた娘は限界を迎えたのである。
筆者の場合1月31日に衝突したのは愚かとしか言いようがないが、これくらいの衝突、受かった子は皆経験している。でも、これが「正しい」と筆者は断言できない。筆者のような厳しめの中学受験ではなく、もっとゆったりとした中学受験(スタートも遅くて受かる見込みのある学校しか受験しないタイプのやつ)をした小学校の同級生が、お母さんとずっと仲が良さそうに見えたのを羨ましく思っていたのも事実だからだ。いまでも羨ましく思う。
本人の「ほんのちょびっとの適性」
これは、両親の性質にくわえて、本人に必要と筆者が思うもの。やっぱり適性ってあるんじゃないかな。なにをどうやっても、低学年からスタートしていても、ずーっと一番下のクラスにいる子って一定数いるのだ。
そういう子を、家庭教師としてサポートしていたことがある。「厳しめ」受験から「のんびり」受験に切り替えることを塾から勧められ、若干の方向転換をしていた。彼女の場合、「彼女の努力でカバーできる範囲」を確実に達成して、ギリギリ定員割れはしていないかな、という学校に受かっていった。これがある種いちばん「幸せ」な受験であるとも感じた。「厳しめ」、つまり一般的な中学受験は、あまりに特殊で、高度な学力・精神力・忍耐力を要する。親の努力・教師の努力にくわえて、「机に座っていられる」とか「カンニングしない」とか、これが最低限――しかしどの生徒にでも備わっている能力ではないもの――必須であるように思う。この見極めをして、難しい子には中学受験を「強いない」こと、これも一つの中学受験の形である。
次回は「中学受験生は永遠の中学受験オタク!」
漫画・ドラマで中学受験に再び触れただけで、こんなに熱く語ってしまうのはなぜ??中学受験経験者ならわかる「あるある」に迫ります。
【考察】Hollow Knightのジェンダー観【めちゃオモロいのに誰も喋ってなくない???】
by あした巨鳥
誰か喋ってたらすいません。
ホロウナイトはいいぞ。
めちゃ大好きだ。
物凄く大好きだ。
私はホロウナイトがめちゃくちゃ大好きな解釈厨なので、
ホロウナイトの世界のジェンダー観すごくない?という話をしたいと思います。
聞いてください。
レズビアンのキャラクターがいるぜ!とかそんなキャラ単位の属性の話では終わらない。
ハロウネストの住人や現人神(現虫神?)達のジェンダー観が非常に面白い。
読んでくれ。やってくれ。ハマってくれ。
面白いから!!!
ホロウナイトのストーリーおさらい
読んで面白かったらプレイしてくれとか言った割に序盤から重大ネタバレしまくりますが
操作とかボスバトルだけでびっくりするくらい面白いから許して。
(ちょっとだけ解釈・語弊あり)
知性ある虫たちの国『ハロウネスト』には、原因不明のゾンビウィルスが蔓延っていました。
その正体は夢を司り夢に生きる神ラディアンス。夢への信仰を忘れた虫たちに、夢を通じてウィルスをばらまき、その身体を操ることで怒りをぶつけていました。
これを止めようとしたのが現人神にしてハロウネストの王ウィルム。攻防の最中、ウィルムが「意思なき意思の中に夢を閉じ込めれば、夢は現実に作用しない」というコンセプトで作ったのが作品タイトルでもある「ホロウナイト」です。
ホロウナイトは、ウィルムと白いレディの血を引く王家の実子にして、実験によって闇を混ぜて作られた意思なき存在です。こうした存在は幾千もあります(多分虫なので卵がいっぱいある)(あと多分”実験”も精力的にやっていた)。でもホロウナイトが”唯一”の成功作。
しかしとある理由で、実は不完全だったホロウナイト。
ウィルムが世を去り、文明が廃れていく最中、ホロウナイトからも夢という疫病が漏れ出し始めました。
その身体がついに夢を閉じ込めておけなくなってきた頃、同時期に作られた主人公ーー忘れられた第二の成功作(?)ーーがハロウネストの地に足を踏み入れます。
ででん。
プレイヤーの操作の下、広大なハロウネストを探索する主人公に提示される可能性は大きく二つ。
先代のホロウナイトに代わって意思なき夢を引き継ぐか、
それとも先代の夢の世界に入り込み、夢の神そのものを討つかーー。
……
まあそんなような話です。Switchで1,500円なので買ってやってください(破格すぎんか?)。
面白いので。
PC版もプレステ版もあるのでやってください。
ノーマルクリアはさほど難しすぎはしません。
お願いだからやってください。
ホロウナイトはいいぞ。
やってください。
因みにコンプは鬼難。誰だよボスラッシュ考えた奴。
やってください(泣)。
やってから読んでくれてもいいのよ。
ホロウナイトのジェンダー世界
さて
夢をめぐる物語なのに制作者は結構wokeで、ジェンダーに関して非常に気を付けてるなっていうのが見てて分かります。明らかに意識して作られている。
手っ取り早くそれを象徴するかのように、先ず主人公が「ジェンダーレス」です。
性別が男と女の二択で選べる主人公は色んなゲームで見るようになりました。
キャラメイクで性器まで(!!)選べて、性別はプレイヤー任せというのも見た。
ジェンダー”不明”主人公は同じくインディーズのUNDERTALEの主人公が記憶に新しいですね。
でも「ジェンダーレス」、つまり「ジェンダー無し」とはっきり規定された主人公はなかなか見ないです。
「2種類から選べる」とか、「どっちだか分からない」だとか「両性具有」とかいうのとまた別だからね、「性別がない」。これだけでも表象としては割と意義あるかも。
でもそれだけではない。
例えば個性豊かなNPCたち。
同性愛カップルの存在
頼もしいNPC女虫たち、女王虫たちの存在
戦う女虫、育てる男虫の存在
異種間恋愛の存在
ドラァグ・クィーンっぽいキャラの存在
それだけでもない。
制作陣(Team Cherry)は、時には虫の生態を参考にしながら、新しい、興味深いジェンダー世界を構築している。と思う。
虫を参考にしているとは言いましたが、キャラクターのデザインを見て分かる通り、特に虫に”忠実”というわけではないんです(コーニファーって何虫なの…)。
だから、『元ネタの虫はメスの方が強いからこのキャラはメスで自然なんだ』とか言って、単なる現実世界のトレスだと思って考えるのを止めるのは非常にもったいない。
実際よく見る考察だけど。
「元ネタがジェンダーレスの虫を探し出してからだろその話は」と。私は言いたい。
「元ネタがこれ!」で片づけないで、
ちゃんと「オリジナルでユニークな世界観」として見てみて欲しい!
我々のジェンダー観に挑戦するなぞかけが、いっぱい詰まってるんだから!!
1.固定され得ぬ時間
やりづらい!ハロウネスト史
ハロウネストの虫たちは種族によって大分寿命が違います。異種族で共生するコミュニティもあります。で異種間恋愛が結構盛んですよね(白いレディ×ウィルム、フンコロ騎士×イズマ、ゼ=メール×造反者の娘、ブレッタ→ゾード…)。
つまりハロウネストの虫たちには人生のステージ(皆同じような年齢で卒業して働いて恋愛して結婚して子供出来て退職して云々)に規定される、共有される時間が無いものと思われます。
寿命30年と寿命200年で共生したり、恋に落ちたりしたらそりゃ色々ズレるわよねっていう。
例えば
プレイ開始後最初に出会うNPC”老いたムシ”は、「虫力車(スタグ)の駅は生まれた時から廃れていた」のようなことを言います。つまり”老いたムシ”は文明が衰退し始めて以降に誕生しました。
しかしそのずっと前に作られた主人公は赤ちゃんみたいな見た目をしていますし、ほぼ同時期(多分)に生まれた異母妹であるホーネットも未だ少女(多分)のいでたち。
主人公が起こした最後のスタグも老いていますが、現役の頃は存命時のウィルムやレディの姿も見たと言います。
最後のスタグと現役時代が同じ、ハロウネストの五英雄に繋げましょうか。
ウィルムやレディの近衛騎士であったフンコロ騎士はまだまだ若く現役。ですが、同期のゼ=メールは、どうやら老いぼれて死にかかっています。ゼ=メールの恋人だった娘(若くして亡くなった)の父である”造反者の長”はバキバキの現役マッチョとしてプレイヤーを相当苦しめます。娘の恋人が老いぼれていても、父はバリバリ現役。造反した本元のカマキリ族の仲間達も、無論バキバキの現役で主人公に挑みます。
凄まじい長生きさんもいます。
モス族の生き残り・先見者(シーア)に関してはもう多分あの人結構文明の初期からいたっぽいし。グリムなんかウィルムの友達だったみたいなセリフあるけど凄いセクシーで若いっぽいし、若いのに「限界」で死んでしまうし。王国のはずれのお尻、ことバードーンは一体いつからあそこに…ウィルムの前世(?)を知ってるっぽいし…。
立ち返って”老いたムシ”、わざわざ年寄り感が名前でまで示されていますが、あいつ多分作中1,2を争う若さです。これたぶん意図的だよね
これらの寿命違いガチャつきにより発生する時間の規定し辛さは、現にホロウナイト考察コミュニティの中で「ハロウネストの歴史が編纂し辛い」という考察上の障害物として立ち現れています。
つまりこの世界、「大体寿命は80年」とかの基準が一切ないために
いつ文明が誕生したのかとか
いつおかしくなったのかとか
誰がいつからいて、今人生のどこなのかとか
事件と事件の間にどれだけ空白があったのかとか
具体的な時間の感覚を得ることが出来ないのです。
お陰で制作側としてはいくらでも後だしで話や出来事を付け足せるため、非常に上手いやり方だと思います。やったぞ設定が未知数。続編:Silksongが楽しみすぎる。
クィア・テンポラリティ
という概念があります。
異性愛(無論人間同士)のマジョリティの送る人生の大イベント(恋愛、就職、結婚、出産など)を軸に規範が作られている※という前提に基づき、そういうルールに抗う時間の流れの構築のことをこう呼びます。
(英語論文:http://sfonline.barnard.edu/ps/printjha.htm)
※大体何歳ごろで結婚するから、「●●にもなってまだ独身だなんて」とかで信用を落とす。とか、同性愛差別などで就学・就職できず二浪して「皆より未熟」と思われる(自分もそう思っちゃってしんどい!)。とか、独身官僚は出世し辛い。とか、そういうのが実際問題ありますよね、って言う話。
ハロウネストは異種間恋愛もあり、寿命も違って皆で共生する世界。当然、自然とそういうゴチャゴチャが無い世界になるんですね。
ホロウナイトの世界は、クィア・テンポラリティの世界だ。
2.白いレディ×ウィルム
受け攻め間違ってないんだなこれが。レディが掘った方です。
…凄そう
ホロウナイトを作る”実験”では白いレディとウィルムが子作りをしました。その失敗作たち(幾千か幾万ほどの死骸やゾンビ)がステージ古代の穴(アビス)の足場にすらなっています。(「壊れた器」という名前で中ボスにもなっていますし、ノスクに捕まった死骸、闘技場の死骸、緑の道での死骸、アビスの外にも結構な個体が逃げ出している。アビスの封印…結構雑だったんですかね。)
さて、白いレディが見るからに木であることを考えると、元々芋虫のウィルムと木のレディの子作りですから、これは異種姦なんですよね。この2匹(単位合ってる?)で子作りしてるのが既に面白いのですが、ここで唱えたいのはこれ雄雌逆転セックスだったんじゃないのって話です。
根拠!
ウィルムの前世?の芋虫の殻は王国のはずれエリアに「脱ぎ捨てられた殻」として表示されます。この殻の中に入ると「王の刻印」が入手出来、主人公は王家の…つまり神の血筋の者だと証明されます。
この「王の刻印」があった場所、
ウィルムの体内の『卵』の中だったじゃないですか。
つまりウィルムには身体構造的に『卵』を作る能力がある…ってコト!?
ウィルムのジェンダーは「He/Male」になってますし白いレディはレディなんでレディなのですが。
これ、つまり彼らが無数の子供を為すための『卵』を提供してたのは雄であるウィルムなんじゃないの?と思うわけです。
更なる根拠!
白いレディに初めて遭遇した時の会話。レディは自らを動けないように縛り付けている理由について、虚無の創造に関わったことを恥じていると語ります。そののちです。
「今でも欲求は存在し、これからも存在し続けるでしょう。
大地に種をばらまき、自らを繁殖させたいという欲求が。」
QED。(ドヤ
レディとウィルムが「研究」に勤しんだという話を聞くと、やっぱり如何にジェンダー頑張っても生殖は雄雌になるよね~と思い込んでかかります。ウィルムとレディのセックスも想像するわけです(私だけですか)(そうですか)。
なのにゲームを進めて詳しく話を聞いてみると、この逆転に直面するようになってるんですね。
さっきまで想像してたセックスと違う。
非常に上手いです。どのくらいの人が気付くのかなとも思うけど。
さて、こうなってくるともう一つ気になるのは、獣者ヘラーですよね。
ウィルムのホロウナイト計画は3名の生贄を必要としました。その1人が獣の統治者ヘラーです。彼女はこの話を受ける見返りに、死ぬ前にウィルム(現虫神)の子種…いえ、『卵』を求めました。
ウィルムが卵を提供する側だとすると、獣者ヘラーも精を提供した側ということになるでしょうか。
娘であるホーネットは獣者ヘラーを「母」と表現します。「卵=母」ならウィルムが母、ですよね?
セックスでの役割や性器の構造とジェンダーは無関係!…と言ってる!?
と言えるんじゃないだろうか。
うん、「オスだったはずなのに卵子だったから実はメスだった」なんて言い方をしないのは、Team Cherry曰く、そんなのはナンセンスだからです。私も思いっきり同意する。
Team Cherryは
こういう(ウィルム×レディとかの)ミスリードからの
(レディ×ウィルムという)逆転、結構得意みたいです。
さっきも老いたムシ(すごい若い)とかやってたしな。
我々のジェンダー観に真っ向から挑戦してるような感じがする。
最後にそんな発見をもう数例ご紹介して締めくくりたいと思います。
3.己のジェンダーバイアスに向き合わされる瞬間 ベスト3
3位 クロースさん
クラウドファンディング高額寄付者お礼キャラのクロースさん。特徴的な雄叫びがチャームポイント。
造反者の長戦では共闘、そして…。っていう激熱展開もありました。恐らくレズビアン匂わせキャラです。
クロースさん出現時男性キャラかなと思いこむんですよね(私だけかも)。
これは恐らく最初に出会う女性キャラであるイゼルダやホーネットが割とフェミニンなデザインをしているから。
「女はヒラヒラ」でデザインしてるのかなと思わせてくるけど意外とそうでもなかった例。
←女はヒラヒラの例
ちなみに、他で言うとチャーム屋のサルブラはトランス匂わせっぽいかな。描写がステレオタイプなのが気になるとこです。また、「ジョニの祝福」のジョニは女性、カタツムリの霊媒師は男性、モス族の夢見の戦士はジェンダー不明…みたいな感じで『思ってたんと違った』をわざとやっていると思います。
Team Cherryの不足は「脱・女はヒラヒラ」と同時に「男もヒラヒラでいいじゃない」をやらなかったところではあります。ヒラヒラの男はいなかった。
2位 芋虫パパ
例のアレ
芋虫クエストを終えて芋虫赤ちゃんを全員救いきると、最初嘆いていた芋虫パパは大層喜んで…。そして一端去ってから戻って来てみれば、芋虫パパは赤ちゃんを全員喰らって膨れた腹で笑い転げています。本作のトラウマ。
と思ったらこれ成長の一環なんですよね多分。クエスト報酬「成虫の哀歌」の説明を見る限り「次の成長段階を迎えた幼虫たちの、感謝の気持ちが込められたチャーム」とありますから…
パパは恐らく自分の身体をさなぎの殻みたいにして…子供たちの犠牲に…?パパ…。(楽しいって言ってるの、多分子供たち?ですね)
けどこれ、なんで最初「喰った!?!?!」と思ってしまうかっていうと、パパだから(ママじゃないから)っていうのはデカいと思います。
ハロウネストの敵キャラには、腹に赤ちゃんを入れたのがいっぱいいます。グラザーママとか、スイツキマームとか、アスビットママとか。腹が破れて子が出てくるのは見慣れた光景なわけです。
加えて、レディ×ウィルムでウィルムが『卵』とか言ったのと同様、
芋虫パパは普通に我々の思う”母親役”を身体上行っていてもおかしくはないのです。
『腹が膨れた生体が死んで子が出る』瞬間、雑魚敵相手に何度も見たのに。”母”体にひげが生えた途端に分からなくなってしまう。
こういう抉り方とても上手ですよね、このゲーム。
1位 主人公がジェンダーレス
ボイドを含む子らはジェンダーレスとされており、その対比としてヘラーとウィルムの子であるホーネットは「性のある子」と説明されます。これはゲームを進めていくと明らかになること。
…だからそれまで勝手に主人公を男だと思い込んでたのは私だけじゃない筈。
そもそも「どうせこれも男主人公のゲームだろう」と思うのは前述の「女はヒラヒラ」のデザインへのバイアス(「主人公はヒラヒラしてないから男」という思い込み)に加え、多くのゲームが男主人公だという経験則もあるでしょう。
ここに強化要素として入ってくるのがブレッタです。イライラ棒のゴール地点で困っている彼女。
ゴールで話しかけた後、主人公が拠点ダートマウスに戻るとブレッタも帰ってきています。
ブレッタは窮地を助けてくれた主人公を「白の救世主」と呼び慕い、恋をして、夢小説まで書いてくれるんですね。
あとホーネットっていうメインヒロインかと思ったら異母妹の女性キャラの存在。この2点に強化されて我々は主人公のことを男だと思い込みます(クソデカ主語)。
「ストーリー上、こういう風に女に囲まれてるんだから当然男だ」
と思ってるんですよね。バイアス~。
でもこの2人、立ち返ってみれば一度だって主人公を「彼(He)」と呼んだことはない。ブレッタの夢小説も、英語版を見ればわかりますが見事に三人称を避けています。このボイド(虚)に勝手に「he」をあてこんだのは私…ヒェ。
ちなみにブレッタ、第二の片思い相手であるゾートを既定の回数倒すと、徐々にゾートのマンスプレインイキリを「物知りでかっこいい」から「みすぼらしい」と思い直すようになり、最後は真実の愛を求めて自ら旅に出ていきます…。
「夢」小説作家だった彼女の「目覚め」のストーリー。フェミニズムチックなコメディになってますね。続編シルクソングでブレッタの補完も来てくれないかなぁ
皆さんも是非Hollow Knightのwokeな夢の世界を探索してみてください。
1500円なので。
1500円なので。
私はもう200時間楽しんでいます。1時間8円以下!!!すごい!!!!
やってくれ。ハマってくれ。
そして私とSilksong待機列に加わってください。
お友達を待っています。待ちすぎて暇でキャラ絵を目トレスして本記事の挿絵にしました。
よろしくお願いします。
Hollow Knightはいいぞ。
以上。
【歌詞解説②】GeG/ Merry Go Round feat. BASI, 唾奇, VIGORMAN, WILYWNKA
「Merry Go Round」歌詞解説の続きなので、お好きなお飲み物を手に取り、ゆるーく読んでもらえると嬉しいです。
わたしはサンミゲル・ライトを。
前回の解説①はこちら
マイクリレー先頭BASIのパートが、20世紀後半のアメリカを代表する作家J. D. サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を取り入れたライム(ギ)になっていることを既に確認した。
「回転木馬、雨、僕ら、音」とくればサリンジャー『ライ麦』のラストシーンだ。
さらに、続く唾奇、VIGORMAN、WILYWNKAのパートも順にみていく。
一人、ニューヨークの夜
曲の冒頭に流れたサビは各パートの前にも毎回流れる。
毎時間同じ数字に時計の針が戻ってくるように。
そして、2度目のサビに続く唾奇のリリックでは、BASIのパートでは僕らだったののが俺一人になっている。
1人きりまたぶらり帰路歩き
無くした物が多いと気付き
今更になって後悔してもまぁ遅い
解説①に続いてサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』のストーリーに沿って考えると、主人公の少年ホールデンがニューヨークの街を彷徨っていたときのようだ。
ホールデンは通っていた寄宿学校を深夜に抜け、実家のあるニューヨークに一人で電車に乗り向かう。
ニューヨークに着いてからもすぐには実家に帰らずに一人で街をぶらりする。
弟のアリーが亡くなったときのことや、気になるジェーンのことが忘れられず何度も電話しようとするが、実際にジェーンと話すことは叶わない。
落ち着いて1人で考える時間がないと、無くした物の多さには中々気づけないものである。
1人になることで、その不在に気づく=不在のものと一緒になれる、という逆説がある。
仕事の帰り道、「あぁ、あれやるの忘れた…」と思い出す。
「なぜもう少し前に気づかなかったのか」と後悔するけど、今更になって遅いんじゃ、と無意識では思っているのだろうか、家に着くとまた忘れる。
ん、わたしだけ?
キツツキみたいなマラで傷付けたまま
未だ子供のままの俺
ガキみたいに騒ぐ夜の街を抜けて
一人夜にフラれて砕けて
この残りのライフをすり減らしてく
「マラ」とは陰茎の隠語だが、『ライ麦』においてホールデンは一人ニューヨークを彷徨う間に売春婦サニーと会う。
結局、性行為には及ばず部屋でサニーと少し話しただけだったのに、用心棒に力で押さえつけられ、お金を払わされる(しかもぼったくられる)。
他にもホテルのラウンジで酒を注文しても年齢確認されて酒を飲めないし、10代であるために何かと制限を受ける。
(わたしは20代なので、ビール飲んでます)
先ほど触れたジェーン(他の男とデートに行っていた)、売春婦サニー(会話がスムーズにいかない)には既にフラレているようなものだが、ほかにも友達のサリーと行ったデートで彼女を怒らせてしまう。
ホールデンは女の子たちと会話が噛み合わず、うまくデートできず、一人夜にフラレて砕ける。
回転木馬と時間
針は右に回り続けている 0:00分
そんなことを思いながらも
同じような夜を廻る
唾奇のラップでは時計の針が右に回り続けている=時計回りに進んでいる。
しかし、次のVIGORMANでは、歌い手が時計を左回り=反時計回りとして見ている。
時計の針の背中を見て回る MERRY GO ROUND
泣けど喚けど焦っても一日は24hour
淡いLove ぐるぐると回り出す
Wonder landのMERRY GO ROUND
Let’s shall we go around?
雨あられでも風まかせこのVery long life
Let me now Where we go now??
Jet coasterのように速くないだけどTake over
ふつう私たちは時計をその外から見て、針は右回り=時計回りだと認識している。
『ヒューゴの不思議な発明』のヒューゴは、時計台の中に暮らしているから時計の針の背中を見ることができるが、VIGORMANもヒューゴのように反時計に回る時計の針を見ている。
唾奇からVIGORMANにマイクが渡ると、時計は右回りなんだか左回りなんだか分からなくなってしまう。
時間が進んでいるんだか、止まっているんだか、よく分からない。
そういえば、唾奇の針は右に回り続けている 0:00分も「回り続ける」という〈動〉なのか、「0:00分」という時点の〈静〉なのか分からない。
キャッチャー・イン・ザ・メリーゴーランド
ところで、GeGは「またみんなで同じような夜を廻る。そう、まるでメリーゴーランドのようにね」と「Merry Go Round」についてコメントしている(音楽ナタリー、https://natalie.mu/music/news/344152)。
同じ時間を回り続けるのが「Merry Go Round」であり、同じ場所で回り続けるのがメリーゴーランドである。
Merry Go Round/メリーゴーランドも〈動〉と〈静〉の相反する性質を持っているのである。
これまで言及していなかったが、MVの映像も見ておきたい。
MVの始めに登場するBASIは、サビの度に同じ時間を過ごす。
同じ時間を繰り返していると、次に起こることが分かる。
だからBASIは、転ぶはずの人を転ばないように助けることができる。
- 回目のサビでは、その人は段差で落ちて転んでしまう。
- 回目は、その人が段差から落ちたあと、転ばないようにBASIが支える。
- 回目は、BASIが落ちる前に助けるので、その人はなぜ助けられたかも知らないままである。
そういえば、『ライ麦畑でつかまえて』(原題:The Cather in the Rye)の主人公ホールデンは妹のフィービーに将来何になりたいのか問われ、次のように答えていた。
「僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ…ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」
まさにBASIは「Merry Go Round」のMVにおいて、ホールデンがなりたかった「つかまえ役/キャッチャー」になっているのだ。
Merry Go Round/メリーゴーランドでは、回ることでホールデンの夢を叶えている。
しかも、同じ時間を回っているために虜になって時を縛って/今時計の針すら追い越して、まだ落ちようともしていない人をつかまえるという、BASIが一枚上手をいったつかまえ役/キャッチャーになっている。
時間がおかしくなっていることに気付き、BASIはこのパーティーを仕切ってるGeGに声をかけて消える。
ラストへ向かう
BASI「月ひとつ feat. 空音」の後半、空音はこう言う。
話は曲の冒頭に戻るのさ
そして最後のサビを迎える。
「Merry Go Round」でも、WILYWNKAのラップで『ライ麦』のラストへ向かうシーンに話は戻る。
僕の三歩前に いつも君は居てる
長くなびく後ろ髪に揺られ
手の中を通り抜ける Mid Night
甘いキットカット 渡る赤の信号
淡く揺れる心臓
白い煙みたく
君は何も染まらないんだ
軽く雲にダイブ
『ライ麦』の主人公ホールデンは、学校を飛び出してニューヨークを彷徨った末に街から出ようと決心する。
そこで別れを伝えようと妹フィービーと会うのだが、結局二人であのラストの回転木馬へ向かうことになる。
別れを伝えるとフィービーは兄ホールデンについて行くと言って聞かない。
学校に戻りなよ、というホールデンにフィービーは怒り、兄の目を見ないし、彼が肩に手を置こうとするのも許さない。
さらに、フィービーは車が来てるかなんて気にせずに道路を渡ってしまう。
僕の三歩前を歩く君は、手の中をすり抜け、信号無視して行ってしまうのだ。
次は、ラストシーンの回転木馬に向かうホールデンが、歩きながらこれまでのことを回想しているようだ。
俺は空に咲いたFlower
白のマルボロ それとペンとPhone
走るNightRide 先も知らず駆けるTopSpeed
今日も何か忘れたくて
ベタで踏んだアクセル
何故か飲んで吐いて
泣いて死んでそれもMySelf
どれが本当大切?
人生に無いぜ解説
タバコを吸いまくる高校生ホールデンは、電話をかけまくる。
学校を抜け出したことが親にばれたら、など考えずに彷徨う夜。
バーで酒を飲み、トイレで気を失う。
楽しいことがあってもなくても、辛いことがあってもなくても、私たちは生きている限り毎日同じように朝を迎える。
どれもこれも仕方ねぇのかな。
ピピピピピピピピピピッ
アラームを合図に、全員でサビに戻る。
I wanna be down with you チルな場所へ
PVでは、それまでちらっとしか見えてなかったメリーゴーランドの前で全員が最後のサビを歌う。
(『ライ麦』のラストシーンみたい?雨は降ってないけど。)
解説①に引き続き②でも、アメリカの作家J. D. サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を引用しながらGeGの「Merry Go Round feat. BASI,唾奇,VIGORMAN,WILYWNKA」の歌詞をみてきた。
タイトル「Merry Go Round」そのままに回りまくった曲である。
回るメリーゴーランド、
回る時計の針、
『ライ麦』のラストから中盤、またラストへと回るストーリー/リリック。
さらに、どれもよく分からない回り方をする。
- メリーゴーランドは同じ場所で回る。
- 時計は右回りなんだか、左回りなんだか分からない。
- 同じ夜を繰り返すMV。
- 時間が進んでいるようで止まっている。
- 『ライ麦』は「現在」の主人公が時系列を行ったり来たりさせながら語る小説で、「Merry Go Round」の中の『ライ麦』はラストから始まり、、話は戻りラストに戻ってくる。
さらにご丁寧にも、MVとジャケット写真に登場するメリーゴーランドの回る方向までもがよく分からない。
MVに登場するメリーゴーランドは反時計回り。
一方で、ジャケット写真の背景に描かれたメリーゴーランドは時計回り。
とにかく回るのに、とにかく回し戻され、もうよく分からない。
チルじゃなくなってきた…。
わたしはお酒に酔うと、目が回り、頭が回らなくなります。
いや、それこそがチルでいいのかな(笑)
まわるまわる、と言っているとどうしても頭の中で「まわれ ま〜われ メリゴーラーウンド もう決して止まらぬよ〜うに」が止まらない。
そのまま頭の中で歌い続けているとこんな歌詞だったことを思い出した。
ドシャ降りの午後を待って 街に飛び出そう
心に降る雨に 傘をくれた君と
ひぇ!久保田利伸のメリーゴーランドにも雨降ってる。
おニャン子クラブにも(「雨のメリーゴーランド」)、The ALFEE(「ロマンス・レイン」)にも…。
そういえば、途中からビール空でした。
【歌詞解説①】GeG/Merry Go Round feat. BASI,唾奇, VIGORMAN, WILYWNKA
「Merry Go Round feat. BASI,唾奇,VIGORMAN,WILYWNKA」は、変態紳士クラブのGeG(ジージ)が「愛のままにすきにやる」4人をラッパーに、そしてバンドに韻シストのTAKU、showmoreの井上惇志、Soulflex のFunky Dら迎えてプロデュースした、最高に「チルな場所へ」連れて行ってくれる、そんな曲だ。
2019年8月にリリースされ、YouTubeにアップされたMVは2021年9月時点で1500万回再生を超えている。
2020年11月にはMV1000万回再生を記念し、スタジオ・ライブ映像が公開された(ライブに行きたい)。
メンタル的にはハンモックに寝ながら、瓶ビールを片手に持ちながら、心地よいサウンドにゆったり体をあずけて「Merry Go Round」を聞いていると、ある20世紀アメリカ文学が思い出された。
回転木馬、雨、音
まわる回転木馬と
雨ざらしの僕らの
音にただ黙って揺れてくれる
「回転木馬、雨、僕ら、音」とくれば、第2次世界大戦後のアメリカを代表する作家J. D. サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳)だ!
『ライ麦畑でつかまえて』のラストは、主人公のホールデン少年が「バケツをひっくり返したよう」な雨の中屋根の下に隠れることなく「雨ざらし」状態で、妹のフィービーが回転木馬に乗っているのを見つめて幸福を感じている。
ホールデンとフィービーが回転木馬に向かう途中、いつもと同じ歌が流れてた。
そして、回転木馬が回り始めると別の歌「煙が目にしみる」が流れる。
回転木馬のまわりではずっと音が鳴っているのだ。
わたしは瓶ビールをちびちび飲む。
フィービーとホールデン
君を連れ 雲の上
ヘイトはもう忘れてくれ
下界じゃ心も持たないから
君と踊りたい
風の上を転ぶように
ただ音色だけが揺らぎ
月がひとつ トーン落として
誰かがライムを披露してる
そんな安堵に満ちたmood
『ライ麦』に登場する主人公の妹フィービーは自分のことを「フィービー・ウェザーフィールド・コールフィールド」とノートに何度も書く。
そう、妹フィービーは天気の子なのである。
下界じゃ心が持たないから、雲の上に行きたい、分かる。
そして踊りたい気持ち、分かる。
『ライ麦』の主人公ホールデンは自由なダンサーだ、と言ってもいいだろう。
一人でタップダンスに、ラウンジで女の子3人とダンス、そして「風の上を転ぶように」天気の子・妹フィービーとの「月がひとつ トーン落とし」た真夜中のダンス。
BASIのライム(ギ)?
先ほど触れた通り『ライ麦』に登場する回転木馬では「煙が目にしみる」が流れており、それは「とてもジャズっぽい」演奏だとホールデンは語る。
80年代後半、クインシー・ジョーンズがジャズとヒップホップの関係について、ふたつは同じ木から実った果実であると認め、「ビバップとヒップホップは、多くの点で結びついている。インプロヴィゼーション、ビート、ライムといった点で、多くのラッパーがビバップ・アーティストを彷彿とさせる」と語った
引用:https://www.udiscovermusic.jp/stories/blue-note-and-hip-hop-influence
ジャズはヒップホップの形成に大きな影響を与えたと言われている。
ちなみに、「煙が目にしみる」は山下達郎も1993年に英語でカヴァーしてるジャズの定番曲である。
そして、サリンジャーが『ライ麦』に登場させたジャズをBASIはラップに取り入れた、のかもしれない。
いや、BASIを主語にするというよりも「誰かがライムを披露してる」のだから、「誰かが」取り入れたということか?
BASIはアルバム『切愛』のインタビューで収録曲「普通 feat. 鎮座DOPENESS」のテーマについてこう語っている。
そもそも、自分のリリック自体が小説や映画からインスパイアされることはまったくなくて、友達と過ごした時間や、誰かとの会話が歌詞に反映される部分が強いんですね。日常の中の思い出や経験から、自分の表現が生まれてくるというか。だから何気ない、些細なことを紡ぎたいし、「普通」はそれをより明確にしたんです。
BASIは、小説や映画から影響を受けないと言ってる。
ならば、「誰か」との時間や会話から、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』ラストの回転木馬シーンが印象に残り、BASIにとって普通の経験の一つになったのかもしれない。
かっこよ!
ビールがなくなったので、新しい瓶を取ってきます。
次もサンミゲル・ライトで〜
解説②に続く。