考察『ショーシャンクの空に』Another One 天を仰いだもうひとりのクソ男
悪人が本質をつく、というのは名作によくある法則のひとつかもしれない。たとえばアメリカ南部ジョージア出身の小説家フラナリー・オコナーの短編「善人はなかなかいない」"A Good Man Is Hard to Find"では悪人ばかりが登場するが、そのなかでも極悪の人物〈はみ出しもの〉"The Misfit"は常人では思いつかないユニークな発想を読者に提示する。この男は刑務所を脱獄した直後、たまたま出会った家族旅行中の一家を皆殺し(罪に罪を重ねる)にするクソ極悪非道男なのだが、最後に残った命乞いをするおばあちゃんを殺す前、興味深い言葉を残す。
[おばあちゃんは]ようやく声が出た。気がつくと、「イエス様、イエス様」と言っていた。自分では、イエス様があんたを救ってくれますと言っているつもりだったが、これだけだと、畜生! 畜生! と呪っているようにも聞こえる。
〈はみ出しもの〉は同意するように言った。「そうだよ。イエスはあらゆるものの釣り合いを取っぱらったんだ。イエスもおれも同じ立場だよ。ただちがうのは、イエスのほうはなんにも罪を犯してなくて、おれは犯しているところだ。」
『フラナリーオコナー全短編(上)』「善人はなかなかいない」(横山貞子訳)32
神と自分が同じ立場なのだとか、自分は罪を犯しているのにイエスだけ罪をひとつも犯さずにいて不公平だとか言って、神と自分の罪の数を競うという発想は常人には思いつかない狂ったものに思えるが、案外論理が通っている。ただ漫然と盲目的に神に祈り赦しをこうルーティンのなかにいると、こうしたことに気付きづらいはずだ。彼ははみ出したからこそ、新しい視点や発想で世界を見ている。
糞野郎が意表をつくという公式は、スティーブン・キング原作の映画『ショーシャンクの空に』Shawshank Redemptionにも当てはまりそうだ。〈はみ出しもの〉に劣らない極悪人の所長が割にするどい。だって、登場人物や観客が気づかなかったアンディの脱出穴を発見するのは、他でもないこのクソ所長なのだから。
アンディが穴から脱出して消えた後、所長はアンディの牢獄のなかで、怒りまかせに何度も「お前ら目ついてるんか?」"You think I'm blind?" "Are you blind?"といいはなつ。そして、レッドに問いただし、ポスターにも話しかけ、最後に「盲点」blind spotを発見する。
所長: やつとお前は親しいな? 何か聞いただろう。
レッド: 聞いてません 一言も
所長: 奇跡だな 人が 屁のように消えるとは
残ったのはいくつかの石ころと
あのポスターだけだ
彼女に聞こう やつはどこだ?
そうか 話したくないのか
お前ら皆 グルなんだな
これは我々に対する陰謀だ
みんなグルだ 彼女も
(石をポスターに投げると穴が開く)
ここで所長はなかなかすごいことをやってのけている。
「奇跡だな」("Lord! It's miracle!)と神を賛美しているのは意外とすごい。彼の表情や言い方からは憎々しい皮肉の色がみえるけれど、彼の意図とは裏腹にたまたま石をポスターになげたことで穴がみつかる前触れになってもいる。しかも、「屁のように消える」"Man up and vanished like a fart in the wind!"というのも大当たりだ。だってアンディはクソ臭い排水管、まさにケツの穴のような通路を通って外に出ているから。実際、原作の原文では「クソの中を通り抜けて、向こう側へきれいに出ていったアンディー・デュフレーン」(『ゴールデンボーイ』新潮文庫 152)とレッドが言っている。こうした奇跡的な予知を所長が知らぬ間に果たしていたと考えれば、神を讃え天を仰ぐ所長も、雨に打たれるアンディのあの美しい姿に呼応している。所長は気づかぬままで、アンディは何かに気づいているという違いはあるが。
所長はもっとすごいことも言っている。それは、「お前らみんなグルなんだな」という台詞で、彼はここでも真実を言い当てている。「グル」は"conspiracy"「集団による陰謀」と原文では読まれているが、所長は誰も彼もが見境なくポスターのなかの人物ですらがアンディの脱出の共謀者であるという異常な結論に至った。けれども狂った所長の発想が真実を彼に与えた。もちろんハンマーを手配したレッド、そのハンマーを本に挟んで渡してくれたブルックス、ロープを渡した〇〇……こうしたすべての人々の共謀によってアンディは脱出に成功したことは確かだ。けれどもレッドたちですら気づかなかった最後の重要な共謀者は、ポスターのなかの女優であった。ここがblindだったのだ。正面を向いた女優のポスターの背面にある穴がクソまみれだったのも偶然ではない。
この"conspiracy"「集団による陰謀」は、アンディの脱出だけではなく、アンディの罪である妻の死にもかかわる重要なワードである。アンディは裁判所で、自分の無実(innocent)を主張した。実際、彼は銃弾を撃っておらず、別の男がアンディに濡れ衣を着せたのだとわかる。ところが、彼は自分が妻を殺したのだとレッドに告白する。
妻は私が陰気な男でーー閉じた本のようだと文句ばかり言っていた
きれいだった。愛してた。でもそれを表現できなかった。私が殺したんだ。
引き金は引いていない。けど死に追いやったも同然だと思う。
こんな私が彼女を死なせた。
My wife used to say I'm a hard man to know. Like a closed book.
Complained about it all the time. She was beautiful. God, I loved her.
I just didn't know how to show it, that's all. I killed her, Red.
I didn't pull the trigger. But I drove her away.
And that's why she died, because of me, the way I am.
これに対し、レッドは引き金を引いたわけじゃないのだから君は殺人犯ではないとアンディを慰めようとする。ただ「悪い夫だっただけかも」"Bad husband maybe"と。アンディは再度自分が引き金を引いていないことを主張するが、描かれていないこのあとに続く彼の台詞はさっきと変わらず、それでも自分が殺人犯と同然なのだという告白になるだろう。
アンディが引き金を引いていないにもかかわらず自分が殺したと認めたことを、妻の死にかかわる人間との共犯関係(conspiracy)を認めたと言い換えても良いだろう。そうすれば、さらに次のようにも展開できる。つまり、妻の体に放たれた四発の銃弾の一発が、比喩的な意味ではアンディの一発であったのだと。すると、なぜ妻の体に放たれた弾の数が4発であったのかもわかる。殺人がコンスピラシー・共謀なのであれば、この死にかかわるアンディ・妻・妻の浮気相手のゴルファー・実際の犯人、この四人が比喩的な意味では誰も彼もが一発をはなっている。
引き金はひいていないけど私が殺したいうアンディの論理に則れば、死んだ妻ですらも、比喩的な意味では、自分で自分に弾を打ち込んでいてもおかしくはない(ちょうど所長が自分に一発射ったように)。そしてこれは浮気相手のゴルファーも同じことだ。一つの死に対して一人一発。四人が皆でかかわって合計八発の弾丸があの夜放たれていたのだ。その意味で、ロックンローラーのもみあげ男に発射された弾が四発だったのも偶然ではないだろう。もちろん引き金を引いたのは刑務官だが、その場にいた3人以外の誰かの一発が彼の背中に当たっていると考えても、これまでの文脈からはそうおかしくない。
こうした垣根をこえた共謀関係・共犯関係はまるで穴の入口と出口のように連続的につながっている。それはクソみたいに切っても切り離せない有機的な関係性でつながっている。脱獄を決意したアンディがレッドに言った次の二択も、二つの違いを分けるはずの"or"の役割が消失しandでつながっているように見えないだろうか。
「要するに次の選択に行き着く。頑張って生きるか、頑張って死ぬか」
I guess it comes down to a simple choice, really. Get busy livin', or get busy dyin'.
生死、牢屋の内外、引き金を引いたか引いていないか、ポスターか人間か、こうした二択の問題をandでつないでみることのできる目は、一度〈はみだし〉てみないと手に入らないのかもしれない。