みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

考察『セッション』にはなぜメトロノームが登場しないのか

『セッション』は本当にすごい。映像、音、演技、最高。106分が爆速で過ぎていく。アカデミー助演男優賞をとったJ・K・シモンズフレッチャー)の演技は『フルメタルジャケット』の鬼教官ばりの迫力。初めてみる時は、見る前にかならずトイレは済ませとこう。

 

そんなわけだから『セッション』はわざわざ考察なんかしなくたって普通にそのまま見て面白い。けれども、この映画が単なる音楽映画ではなく、その裏に時間のテーマ、もっと言えば脚本のデイミアン・チャゼルの「テンポ」にまつわる深い洞察が隠されていることは話さずにいられない。なぜならそうすると、なんでこの映画のラストがあれほどまでに爽快で鮮やかなのか、そこにひとつの答えが出せそうだからだ。

目次

 

 

 

メトロノームを探せ

『セッション』で繰り返される台詞のひとつは、スキンヘッド鬼指揮者フレッチャーの「俺のテンポじゃない」"Not quite my tempo"だ。この台詞こそが、フレッチャーをただの指揮者ではなく、演奏者を完全支配する暴君にいたらしめている。

 

彼のパワーは、ある異常な構造のもとに成立している。鬼のようなフレッチャーの姿に演奏者たちの脳は萎縮してしまって、冷静に彼の異常さについて考える機会を奪われているが、何度も作品を見返せる観客はフレッチャーのおかしさを論理的に説明することができるだろう。

 

Not quite my tempoという台詞の何がおかしいか。まず、演奏者はみんな楽譜を持っている。その楽譜の左上には当然テンポが書いてある。たとえば"whiplash"という曲ならBPM(Beats per minute)は161だ。だから、ふつうの指揮者ならテンポがずれているとき、演奏者にこう言うはずだ。「楽譜のテンポじゃない」"Not quite the music tempo"と。けれどもフレッチャーはどうだろう。「俺のテンポじゃない。」は?って感じだ。誰がてめえのテンポに合わせるかよ。

 

だがフレッチャーの怖さに圧倒されてしまうと、みんな彼のテンポに合わせようと必死になってしまう。フレッチャーは次のように、最高のドラマーを目指すアンドリュー・ニーマンに向かって3つの選択をつきつける。

 

rushing or dragging or fucking my tempo!

急ぐのか、もたつくのか、俺様のテンポに合わせるのか!

 

やっぱりおいおい、って感じだ。ニーマン、頼むから楽譜の左上を見てくれ。そこにテンポが書いてある。だがニーマンはこの虐待を受けてもなお、あるいは虐待のゆえに、フレッチャーに言われるがまま、学校の練習室に閉じこもって必死に練習に打ち込むようになる。その練習シーンは何回か登場するが、彼の部屋にメトロノームはない。ニーマンは、ただ手から血が出るほどドラムを叩き続けるのみだ。ただフレッチャーに練習しろと言われた通りに練習をしている。いわば、フレッチャーこそがニーマンのメトロノームなのだ。この映画にあのメトロノームが登場しないのは、あのスキンヘッドおじさんがそのまま人間メトロノームと化しているからだ。

 

何にしてもまずこのメトロノームの異常性を理解しなければ、ニーマンはフレッチャーとの対立を一生解消できない。なぜなら最悪なことにこのメトロノームは恣意的にテンポを変えうるからだ。それは数字のテンポではない。「俺のテンポ」の異常性はこのように論理的に説明できる。だが、異常性の中身を理解することで少し希望が見えてくる。そこには論理があるから攻略できる。フレッチャーにも弱点がある。この映画のあのラストはその弱点を見事についたものであるはずなのだ。

 

時計、巨大なメトロノーム

フレッチャーはその恣意性ゆえに絶対的な指標=メトロノームとなるが、このメトロノームの針は音楽のテンポだけではなく、人間の動きのテンポすらもコントロールしている。

 

ニーマンが初めてフレッチャーのバンドに練習に参加する時、練習開始の9時よりも3時間も早く集合時間を伝えられていたことを思い出したい。前日に彼女とデートしていた彼は、集合時間の朝6時過ぎに目を覚ます。このとき、ニーマンが異常なほど高速で移動していることに注目したい。映画のカットも、直前のデートのゆったりとしたシーンに較べるとかなり高速になっている。そしてニーマンは階段から落ちて顔面を床にぶつける。結局、ニーマンの動きのテンポを決めているのは、スキンヘッドのメトロノームフレッチャーであり、このような階段からの転倒も、ドラムを叩かせて出血させたり、テンポが違うと言ってビンタしたりするあのフィジカルな虐待と同じだと言える。

 

そして、あの忘れがたい交通事故のシーンも、この初めての遅刻の焼き直しになっている。けれども交通事故のシーンが忘れ難いのは、交通事故のあと、ニーマンが血だらけでふらふらになりながら会場に向かい、なんと演奏それ自体には間に合うという点だ。彼はこのとき初めてフレッチャーよりも遅れて会場に入ることに成功した。この遅い入場により、フレッチャーの恣意的なメトロノームが半ば破壊されている。なぜなら、ここではフレッチャー自身が、時計の時間というより大きなメトロノームには逆らえないことが明らかになったからだ。

 

先のセクションでフレッチャーがニーマンら演奏者に3つの選択を突きつけたことを示した。

 

1 急ぐ

2 もたつく

3 フレッチャー様のテンポに合わせる

 

これをそのまま集合時間に当てはめてみよう。

 

1 フレッチャーよりも早く着く

2 フレッチャーよりも遅く着く

3 フレッチャーの入り時間にぴったりに合わせる

 

これまでフレッチャーに教わった全ての演奏者には「1」の選択しかなかった。練習室でも、コンサート会場でもテンポを決めるフレッチャーよりも少し早めに入ってチューニングをして準備をするほかない。けれどもニーマンは、交通事故のあとなんとか会場に漕ぎ着けたことで、初めて「2」を選ぶことに成功した。はじめてフレッチャーを待たせる側になった。フレッチャーの指定する時間/テンポが恣意的なものであることがこのとき暴露されているのだ。

 

再び音楽に話を戻すと、結局、フレッチャーの要求したmy tempo「3」に合わせられた人間は一人もいなかったということになろう。実際、フレッチャーはニーマンが主奏者を勝ち取る場面で、何度も「もっと速く」"Faster!"と叫び、テンポに合わせることよりも速さを要求している。ちょうど練習開始よりも3時間も早く来ることを要求したときのように。俺のテンポに合わせろということは結局、テンポを忘れろ考えるなといっているようなもので、実はフレッチャーが求めていたのは「速さ/早さ」だったことがわかる。驚くべきことに、あれだけ俺のテンポに合わせろと言っていたフレッチャー自身がテンポを問題にしていなかったのだ。

 

映画のテンポ

ここまでフレッチャーを悪人として、悪を倒すヒーローとしてニーマンを書いてきてしまったけど、本当にそれだけだろうか。たしかにフレッチャーはクソ野郎だ。けれども、フレッチャーは確実にある技術をニーマンに与えたのもまた事実だ。それは演奏/行動のスピードである。遅くすることは難しくない。遅刻することにも非常にゆっくりしたビートを刻むことにも、特別な能力はいらない。だが、速さ/早さはフィジカルな問題であり、トレーニングしなければ獲得できない。ほんとうに抜きん出たスターになりたいならなおさらそうだ。誰かの先を行くのはいつだって難しい。

 

ニーマンがフレッチャーに最高の仕返しを果たすときも、まさにこの鍛え抜いた「速さ/早さ」が武器となる。ニーマンに退学を、フレッチャーに解雇を与えたコンサートでは、ニーマンがフレッチャーよりも遅いテンポで動いても音楽が成立することが明らかになった。逆に言えば、自分のテンポを強要するフレッチャーですらも時計の時間に合わせて動いていることが暴露されたのだった。そして最後のコンサートでは、ニーマンはフレッチャーよりも早いテンポで行動する。

 

それは、フレッチャーが次の曲を告げる前に、別の曲を演奏することだった。フレッチャーはこのとき観客におそらく事前に配布されているであろう演目プログラムの順番通りに曲を告げようとしていたのだが、ニーマンがそこをぶった切る。そうすることで彼はフレッチャーだけでなく、コンサートに来場した観客すらも置き去りにしている。演奏者も一瞬置き去りにされるが、彼らはあとから遅れて着いてくる。そしていつの間にかテンポが出来上がっている。次第にフレッチャーも、ニーマンのあとに続いて遅れて腕を振る。彼はもはや指揮者ではなく演奏者と同じようにニーマンのビートに合わせて手を動かしているにすぎない。ここでようやく完全にフレッチャー=メトロノームが粉砕されているのではないか。

 

けれどもこれは単にニーマンがフレッチャーから主導権を奪い、復讐を果たしたということでは全くない。むしろ二人は初めてのセッションを開始した。フレッチャーはコンダクターではなく、プレイヤーになることで初めて音楽の一部になることができた。ラストシーンの直前に指揮者不在のジャズコンサートでフレッチャーがピアノを演奏していたことは、このことと無関係ではない(さりげないけどフレッチャーはニーマンのシンバルを直してやってもいる)。速いも遅いもぴったりももはや関係ない。テンポなんかはどうでもよくて彼らはただセッションをしている。

 

ただ最後に、この映画の終わりと彼らの演奏の終わりがぴたりとそろっていることにも触れたい。結局、この映画、デイミアン・チャゼルの「テンポ」に乗せられっぱなしだったというわけなのかもしれないから。監督はフレッチャー以上にmy tempoに追い付かせることを俳優に求め(実際、ニーマン役のマイルズテラーは本当に血を流した)、しかもそれを自らにも課した狂人なのかも、と妄想もしたい。