映画『わたしたち』 海に行くときに見ているもの
この映画を見終わったあと、モヤモヤしていた。終わり方が中途半端に思えたからだ。けど、それから少し経ってもう一度見返したら、あの終わり方でベストだったんだと思うようになった。
ネタバレしています
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『わたしたち』ってタイトルだけに、この映画、ずっと人間関係のはなしをしている。クラスで仲間はずれにされている小学四年生のソンは、夏休み直前に、転校生のジアに出会う。
夏の間、ソンとジアは「これあげる」「これ使っていいよ」「いっしょに食べよう」とかのやりとりを繰り返すことで距離を縮めていく。たとえば、
・手作りのブレスレット
・ひらたくて四角い缶に入った24色の色鉛筆
・花びらをつぶして作った手作りのマニキュア
などなど。こうやって夏休みを楽しく過ごしていたが、いざ2学期が始まると、転校生のジアはソンを仲間はずれにするグループと連むようになってしまう。遠のいた二人の距離は、贈り物の取り消しを通して描かれている。「あの時あげた色鉛筆返してよ」とか、「なんでまだブレスレットつけてるの」とか。仲の良かったはずの二人は、いざこざを重ね、しまいには教室で取っ組み合いするまでに。
こういうやりとりは、学校の教室だけではなく、大人の世界でも行われる。主人公の母親は小さなキッチンテーブルで海苔巻きをせっせと山のように作って、神父さんに持っていくんだと話す。父親は病気の父のお見舞いに行ってやらない。かつて自分の父にされたことを恨んでいるようで、仕返しのつもりのようだ。
けれども、こんなことはどうだっていいようだ。最後から二番目のシーンで、こういうシーソーゲームの外に出るシンプルな方法が突然に示される。主人公のソンの弟ユンは、顔にあざを作って家に帰ってくる。ソンとジアのように、弟も友達のヨノと喧嘩したのだと言う。姉は「もうそんな友達と遊ぶな」「叩かれたら叩き返せ」と忠告するが、それに対して弟は「じゃあいつ遊ぶ? ヨノが叩いて僕も叩いたらいつ遊ぶの? 僕は遊びたい」と答える。それで姉はハッとしたような表情をする。
監督はインタビューで、この弟のユンのセリフを重要視したことを次のように語っている。
4歳のユン役の子は実際には7歳ですが、小柄で幼い子。途中まではセリフがなくてただ遊んでいればいいという役なんですが、最後に一言だけ印象的な決めゼリフを言わなくてはなりません。それを何度も練習させたので、すごいストレスだったらしく、最後にはすっかり嫌われてしまいました(笑)
嫌われてまでしても撮ったこのシーンは、ラストシーンの直前にインサートされている。だから、ユンの迫真の演技(または迫真の演技指導)は、本当のオチを伝えるために必要だったはずだ。まだこの映画には先がある。
ラストシーン。子供たちが学校の体育の授業でドッジボールをしている。映画のオープニングと全く同じシチュエーションだ。ゲームに夢中な子供たちは、ジアが白線を踏んだかどうかで揉めはじめる。ドッジボールのルール(ローカル・ルールかも?)では、コートの線を踏んだときボールに当たらなくてもアウトになるようだ。
A:「ジア 線を踏んだでしょ? 出て」
ジア:「踏んでない」
ソン、それまでぼーっとしていたがハッとして顔を上げる
A:「踏んだのに出ないよ」
B:「「踏んだら出て」
ジア:「なんで急に そう言うの」
C:「早く出ろよ 時間がない」
D:「ウソつきだよね」
ジア:「本当に踏んでない」
A:「怒らないでよ」
ソン:「ジアは線 踏んでない」
A:「何?」
ソン:「本当に踏んでないもん 私が見てた」
このシーンは、変だ。だってソンは自分の手を見てぼーっとしていたはずで、全然ゲームに集中していないからだ。でも、嘘をついている感じは全くない。
じゃあソンは何を見ていたか。この質問には、ソンの目線を順に追っていけば答えられる。
まず、ドッジボールのチーム分けのとき、ソンは親指を噛むジアを見ている。このときジアが「左」の親指を噛んでいることに注目してほしい。
それを見て、ソンも親指を噛むが、ジアとは反対の「右」の親指を噛んでいる。
ゲームが開始する。
ボールに見向きもしないソンは開始1秒でアウトになり、外野に回る。そして、ソンは自分の噛んだ指を見る。
このとき、指をよく見ると、さっき噛んだのは右の親指であるはずなのに、他の指もくわれてることがわかる。特に、左の薬指の爪は赤くなっており、血が出ているように見える。ここから、ソンはジアのまねをして指を噛んだつもりでいて、実はそれ以前から噛んでいたことがわかる。ずっと二人は同じことをしていたのだ。自分とジアの共通性に、彼女はこの時たまたま気づいた。
続くショットで、ソンは顔を指から離し、何かを思い出したように目を左に右にゆっくりと動かす。その直後、「ジア 線を踏んだでしょ? 出て」という声にハッとして顔をあげるのだが、ソンはやっぱりグラウンドに引かれた線を見ていたとは思えない。
指を噛むという癖がジアと同じだったと気づいたソンは、おそらく、あの夜の約束のことを思い出し、その記憶に集中していたはずだ。
ジア:あのね
パパとママは私が一年の時 離婚したの
ソン:本当?
ジア:その時は離婚って知らなかった 笑えるよね
ソン:そんなことない
ジア:パパとは長く暮らすと思ったのに
ソン:なのに何?
ジア:ううん まあちょっと
最初 ママと暮らした時が一番よかった
ソン:じゃあ またママと暮らしたいって言えば?
ジア:無理だよ それに おばあちゃんは
ママの話をすると怒るし
ソン:本当? 私のパパも
ジア:本当?
ソン:おじいちゃんの話をすると
カッとなって お酒を飲むの
ジア:そう? 大人は分かんない
実はママにずっと会ってないの
海に行く約束したのに
ソン:本当? 私も海に行く約束を
ジア:本当?
ソン:ジア 2人だけで一緒に海に行かない?
ジア:本当? マジで? いいよ
ソン:約束
両者の口から交互に飛び出す「本当?」は本当にそのまま本当?!って感じだ。ママの話をして怒るジアのおばあちゃんと、おじいちゃんの話をすると怒るソンのパパが同じ。全然違うのに同じ。こういう不思議な一致に驚いた二人は、「ほんと?」と口の形も同じにして「同じであること」を確かめている。そして、この驚きの一致から二人は「海に行こう」という約束に行き着く。この約束のとき、韓国ではよく見る光景だが、ソンとジアは小指を絡めたあと互いの親指を押し込むように合わせている。
なんでさっき噛んだ指の左右を覚えておいてほしかったのか、もうお分かりだと思う。ラストシーンで噛まれていた親指は、あのとき合わせた親指だった。ジアは左の親指を、ソンは右の親指を。親指の一致を通して、ドッジボールのコートの外に立つソンはこの場面を思い出しているはずだ。
「海に行く約束」まで記憶をたどれば、おのずと別のシーンも思い出されるはずだ。ジアと約束をしたあと、ソンはジアではなく家族と海に行っていたからだ。ソンのおじいさんの死によって、破られたと思った約束が思わぬ形で守られたのだ。このとき、ソンがジアの親指を見る場面と似た視線の切り返しがある。最後まで父を許せずにお見舞いに行かなかったことを悔やむ父は海に目を細めているが、その父の顔をソンは見る。それから、彼女は父と同じように、海に目をやる。
その視線の先には水平線がある。この線は、空と海の境界に過ぎず、実際あるように見えて本当はそこにない線だ。(主人公の名前のソン(선)に、「線」の意味があるのもきっと偶然ではないだろう。)ドッジボールに脇目も振らずにいたソンが、指から目を離し、目を左右に走らせながら見ていたのはきっとこの水平線のはずだ。象徴的な意味としての線ではなく、ソンは自分が実際に見た海に浮かぶ水平線を見ていたのではないか。
A:「ジア 線を踏んだでしょ? 出て」*1
ジア:「踏んでない」
・
・
・
ジア:「本当に踏んでない」
A:「怒らないでよ」
ソン:「ジアは線 踏んでない」
A:「何?」
ソン:「本当に踏んでないもん 私が見てた」
ソンはやはり本当のことを言っていると思う。彼女がおそらくそのとき見ていた線はグラウンドに引かれた白線のことではなく、記憶の中の水平線だったような気がするから。もしそうなら、それはたしかに踏むことはできず、ただ見ることしかできないだろう。
このあと、結局ボールが当たってアウトになったジアが、敵チームなのにもかかわらずソン側の外野に周り、ソンの隣に並んで立つ。ジアはルールを無視することで、ドッジボールのゲームの外に出ていくように見える。
二人が横並びになると、画面は暗転し、ドッジボールを楽しむ子供たちの声だけを残してエンドロールが流れ出す。いっけん曖昧にぼやかしたように終わるこの映画の先で、ソンとジアが仲直りして、海に行くって話は無さそうだ。おそらく約束は暗転する前に果たされたのではないか。「水平線」を見たソンと、敵側の外野にいるソンのとなりに立つジア。もうこれだけで二人は仲直りの儀式なんかぶち抜いて、約束を果たしてしまった気がする。(リ)
*1:ここの線は映画では「금」(クム)と読まれており、「선」(ソン)と使い分けられているとらえたい。つまり、ジアは「금」(クム)は踏んだけど、「선(ソン)」は踏んでないってことなのではないか。「水平線」は「수평선」(スビョンソン)だ。