はじめに
『作りたい女と食べたい女』(以下『つくたべ』)が2022年11月29日よりNHKでドラマ化されている。ジェンダー・セクシュアリティ表象に関する懸念の声が放送開始前からトレンド入りするなど、単に人気漫画が映像化されることによる盛り上がりというよりは、もう少しイデオロギー的に、あるいは社会問題の一側面として注目を集めている。
筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、ゆざきさかおみによる原作のファンである。
本記事では、映像については言及しない。あくまでも、漫画としての本作をどう受け取るか、ということに焦点を絞りたい。
「クィア・ロマンス」という新たな王道ジャンル
『きのう何食べた?』(よしながふみ)の原作&映像化作品のヒットが記憶に新しいが、近頃「クィア・ロマンス」とでもいうべき漫画ジャンルの人気が急上昇している。過剰に異性愛中心主義的であった地上波TV連続ドラマという市場に、こうした作品が頻繁に取り上げられるということは、まあ喜ぶべきことだろう。
『つくたべ』のヒットに思うところがある。
本記事はただの感想であり、全く考察ではない。そして、本作品にやや批判的に聞こえる書き方もしているが、筆者はわざわざ単行本でこの作品を定価で購入し、何度も読み返す程度には『つくたべ』が大好きだ。ディスるための記事ではなく、この作品をどう受け入れていくか考えることが本記事の目的である。
『つくたべ』のイデオロギー性(やや『つくたべ』あらすじ紹介 飛ばし読み推奨)
料理を「作りたい」(が、小食)の野本ユキが、(「女性の規範的な食事量」よりもはるかに多く)「食べたい」春日十々子という隣人に料理を振舞うことで、二人の女性が親密になってゆくさまを『つくたべ』は描いている。
十々子との距離が近づくにつれてユキが自身の性指向をレズビアンと自認するようにいたる過程が大変丁寧に描かれる。
十々子との初めての外出のために着ていく服のコーディネートを検索すると、「モテ服」などの異性愛中心主義とルッキズムゴリゴリの検索結果しか得られなかったり、
「レズビアン」という言葉を検索したときに、ヘテロ男性がエロティックにレズビアニズムを消費するようなメディアが多いことが示唆される。それにユキが「異性にモテるための服しかないのか」と説明的に落ち込むまでがセットである。
さらに、アセクシャル・レズビアンをカムアウトしている矢子可菜芽に、ユキが自身のセクシュアリティについて相談する回では、可菜芽のレクチャー的な口調から、読者もユキと共にセクシュアリティの多様性や各語の定義を学ぶ仕組みとなっている。つまり、本作は「LGBTQの教科書」となることが隠れていない裏テーマとなっているのである。
また、各話の扉に「嘔吐表現注意」や「同性愛差別的表現が含まれます」などの注意書きがかなり詳細に記されており、本作は、表現とポリコレの問題にも、明確にスタンスを示している。
つまり、「ポリコレに配慮しすぎると作品はつまらなくなる」というジレンマに対して、多少つまらなくなってもポリコレに振っているのが本作品だ(『つくたべ』の説明的な言い回しと注意書きの多さは、一定数の読者を確実に遠ざけているだろう)。
筆者(ぴんくぱんだちゃん)は、この徹底した姿勢が好きだ。だってこの作品は、ジャンプとかりぼんとかアフタヌーンの連載じゃないんだから。目的の90%を読者ウケにする必要はないのだ。
『ぐりとぐら』と『つくたべ』(ここからようやく考察!)
ユキが初めて十々子に晩御飯をふるまったとき、
「ふわふわのおっきなカステラ」
「だからずっと探してたんだ 一緒におなべをからっぽにしてくれるひとを」
というユキの幼少期回想モノローグが挿入される。
「ふわふわのおっきなカステラ」とはもちろん、『ぐりとぐら』のカステラのことである(著作権問題上なのか『ぐりとぐら』という作品名は言及されないが)。
『ぐりとぐら』にユキが憧れていたことは、作中に何度か描かれているから、『ぐりとぐら』は『つくたべ』創作に重要なインスピレーションを与えているのだろう。
説明不要かもしれないが、『ぐりとぐら』は二匹のネズミを主人公とする大ヒット絵本だ。青い服の「ぐり」と赤い服の「ぐら」は、仲良くデカいカステラを作ったり海水浴に行ったりする。
そして気になるぐりとぐらの関係性やジェンダーの問題であるが、作品を読むだけでは、「ぼくらのなまえはぐりとぐら」という文言から、ぐり(青)がおそらく男の子ということしか推測できないようになっている。
その後作者がぐりとぐらは「ふたごのきょうだい」という設定を公開してしまう。
「きょうだい」という平仮名表記なので、兄弟かもしれないし兄妹かもしれないという想像の余地は残してくれているのがせめてもの良心か。「ぐら」(赤い服)をA音で終わる名前の響きと服の色から女の子と読む読者も多かったことは容易に推測できる。
ちなみに、筆者(ぴんくぱんだちゃん)は『ぐりとぐら』の余計な作中外での設定公開について福音館書店を未だに許していない。
つまり、『ぐりとぐら』は、作品だけを読んでいる子供の読者にとって、ジェンダーや関係性を曖昧にされた二人組でしかないのである。
おそらく、『つくたべ』のユキの憧れを『ぐりとぐら』に設定したのは、上記のような理由からだと思われる。ジェンダーも関係性はどうでもよくて、ただ仲が良いだけで一緒にいる二人。一緒にいる要因がジェンダーや関係性から脱中心化されている、という点から、ぐりとぐらはユキと十々子のロールモデルなのである。
ぐりとぐらの組み合わせが、『つくたべ』の二人のロールモデルとなりうるもう一つの理由は、子供向け絵本の主人公であるぐりとぐらの性別の曖昧さが性の未分化を前提とするものでもあるからだろう。『つくたべ』は、ジェンダー規範への抵抗を重点的に描くが、彼女らの性的な欲望については意図的に(まだ)描かない。レズビアニズムをヘテロ的性的視線によって消耗するポルノ産業への抵抗もあるのかもしれない。
『ぐりとぐら』の呪いと選択的家族
ユキが『ぐりとぐら』的なパートナーをずっと探していたのだ、と認識する場面は、大変ロマンティックで、こういうのに「ああ素敵」と思うのはもう仕方ない。犬猫が死ぬ話が自動的に悲しいのと同じだ。
ユキだけでなく十々子も(十々子は内面描写がかなり少ないにもかかわらず、わざわざ両者別個の場面で)、「選択的家族」という言葉を耳にし、居心地の悪い血縁の家族のオルタナティブとして「これこそ探していたものだ」というようにその概念を受け入れる。「女らしくない」量を食べても受け入れてくれるひと。「一緒におなべをからっぽにしてくれる」ひと。自身の意思で選択した相手。
『きのう何食べた?』と同様、クィア・カップルの恋愛ストーリーに食事の描写を伴うのは偶然ではない。「家族」になることの象徴的な振る舞いに食事があるからである。
しかしこれ、クィアな恋愛模様が、異性愛の模倣と受け取られかねないのではないか。
ややマスキュリンな十々子がフェミニンなユキに食費を渡して、料理を「作る」-「食べる」の関係を結ぶのは、あの忌まわしき「私作るひと、僕食べる人」というハウス食品のCM(1975年)を想起させる。
おそらく本作品のタイトルは、この悪名高い流行語を踏まえて設定されているのだろう。究極的に異性愛規範的なCMのタイトルを、レズビアンカップルのラブストーリーのタイトルと置き換えてしまうという戦略である。
ところが、この戦略、結局クィアであろうとも、異性愛規範的なパートナーシップの模倣を望むかのように取られかねない。さらに『ぐりとぐら』の呪いともいうべき「パートナーをずっと探していた(そして見つけた)」という、対(カップル)幻想の系譜をなぞっているように見える。
もちろん作者は上記の点は折り込み済みで、これからポリアモリ描写やアセクシャル描写を描くことでこの問題を解決しようとしているのかと予想する。
でも、色々なケースを描いたからって、この対幻想のプロットは脱色されることはないのではないか。それくらい、セクシュアリティを問わず、「ずっとたった一人のあなたを探していた」的な対幻想プロット、すなわち『ぐりとぐら』の呪いは強いのである。