みんなのBento

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「見えない」の「三重苦」をよじ登るーー大島弓子「恋はニュートンのリンゴ」タイトルの意味を考察する

謝辞*1

 

 

 

考察⇩⇩

 

 

 

最初のページ。

 

書き出しの一文と、その下の女がなかなかなかなか結びかない。ちょっとしたコスプレにすら見えなくもない。この意味で、「いない」「どこにもいない」というサトコの心の声は、八歳の女の子を探す読者の声とも谺するかもしれない。

 

この「八歳には見えない」という違和感はしかし、漫画の最後まで解消されない。はずだったのに、読んでいくうちこの違和感は忘れられ、漫画はふつうに読み切れてしまう。たしかに2ページ目(下)に描かれた肩上のサトコは八歳にも見えなくはない。無意識にこうしたパーツだけを拾って都合よく読んでいるせいか、小学二年と大学二年の恋?物語を読み進められてしまう。

 

2ページ目

 

なんでこんな漫画を描いたのか、とわざわざ大島に問わなくても普通に読んでれば面白いのだけど、どうしてもその理由が気になる。読書体験からすぐ主観的な連想に飛びつけば、作者が「ハンデ」を逆手にとってみせた説を出せるのだがそれは浅い。大島は語ることが困難な設定をヘレン・ケラーさながら自らに与え、その負荷をものともせず読者に面白く漫画をプレゼンすることで、かえって自分の画力やストーリーテリングの実力、培った技巧のようなものを証明したのでありますとかなんとかーー。

 

けど、じゃあその「技巧」ってのは何なのよ。それを教えろよっ。

 

そう思って作品を読み返してみるとき、実はもうこの最初の2ページで大島の技巧が凝縮されている可能性に気づく。2ページ目に登場するヘレンケラーの話が、いま問題にしているサトコの「見た目と年齢の不和感」と無関係ではないように思われてくるからだ。つまり、1ページ目を見て「八歳には見えない」と感じる読者の「見えない」と、ヘレン・ケラーの三重苦の一つ目である「見えない」はねじれながらどこかでつながっていはしないか。さらにこの「見えない」は、タイトルが恋を視覚的にあらわした諺「恋は盲目」を別の表現へずらしたものになっていることにつながってもいないか。これら三つに編み込まれた「見えない」をほどくことができたら、ペンを握る大島の腕のようなものが見えてきそうなのだ。

 

 

読者と登場人物の視差による「見えない」

まず、1ページ目のセリフと絵の不和感の原因は何であったか。割り切ってまとめればそれは、キャラクターを構成する「身長、実年齢、精神年齢」の三要素のミスマッチ感だと言えるだろう。つまり、サトコは「見た目はオトナ、頭脳もオトナ、リアル八歳の小学生、その名も(でもべつに黒の組織に薬を飲まされたわけじゃない)」という、重なるとその姿が見えづらくなる要素を揃えたキャラクターなのだ、と。

 

当然、それは解消されるべき不和感なのか、という指摘も聞こえる。自分の先入観や偏見を捨て、背もIQもすごく高い八歳に違和感を感じる自身の認識をあらためる、とかの方法もあるから。だが、この記事ではサトコの「見えづらさ」は作者の技巧よる意図的なものとして描かれていると考え、大島の技巧それ自体を問題にしたい。というのは、この漫画は、法に触れる歳の差カップルに対する社会道徳的な違和感という問題を前景に置きながらも、同時にまた漫画という媒体の特性を活かしてつくられた違和感を後景に隠しているように思うからだ。

 

その違和感とは、漫画の読み手が見ている三時子と、登場人物が見ている三時子の視線をずらすという大胆なウソによって表現されている。たとえば、泡盛は三時子に二度目に会った時その姿をすぐに思い出すことができていないのだが、これは1ページ目、2ページ目を読んで彼女の背の高さを特徴としてとらえた読者からすると明らかに奇妙なシーンとしてうつるだろう。

289ページ

 

ここからわかるのは、三時子が、周囲の人間からは漫画のコマに描かれている姿とは異なり、他の小学生に紛れてわからなくなるようなサイズとして見えていることだ。とすると、八歳のサトコに違和感を感じているのは読者だけってことになる。漫画のコマのなかにいる登場人物たちにとっての三時子は、八歳なのにやたら頭が良い「おかしな女の子」にすぎない。読者にはサトコを見えにくくする「ハンデ」が与えられているのに。

 

見えてるやつもまた「見えない」

ところが、この漫画における「見えない」は両義的である。「ハンデ」は読者だけでなく、サトコの本来の姿が見えている登場人物にも課されている。というフェアネスがあるようだ。

 

サトコの家族、PTA、警察、国家権力や、泡盛に近づいてスクープ記事を書こうとする女たち。彼らには、泡盛が児童誘拐犯に見えている。もしこれらの人々が読者と同じようにサトコを見えていれば、少なくともすぐにはサトコが八歳の女の子だと気づかないはずだ。これに対し、読者にとって、サトコが八歳には見えないがゆえに、泡盛のとなりにいても違和感がないように思える。つまり、

 

読者には二人がカップルに見え、登場人物には彼らがカップルには「見えない」。

登場人物には泡盛が犯罪者に見え、読者にはそのことが「見えない」。

 

「見えなさ」の相対化と「見える」の相対化。見え方は非対称だが、それぞれ死角があること、盲目にならざるを得ないことに関して両者は同じ問題を抱えている。という書き方をしている大島はフェアだ。つまり、大島は、法に触れる年の差カップルに対して批判的な目を向ける役割を登場人物に与えつつ、その是非を問わせない視点を読者に与えることにより、視点を漫画のなかに二重化して両方の見えなさを描く。しかも、それでいて作者の自分はこの二つの対立のどちらについたと明言することなく、最後までこのあいだの均衡のなかにいるというのが、大島戦略なのではないか。と思いたくなる。

 

しかし、これだと二項対立の脱構築(二項の外ではなくその内部にとどまることで、二項を対立させている権力・制度を自壊させる)をなぞるにすぎない。もっとこの漫画だからこそわかること、ならではの真理のようなものがあるはずだ。大島はもっと高みを目指し、きちんと答えを出している、と仮定したい。実際、漫画の最後で、サトコと泡盛は高いところにいる。その答えは、タイトルで待っているニュートンに聞いてみると解けるかもしれない。

 

言葉に気が付くと「見えない」

タイトルが「恋は盲目」という諺をもじったものであるという仮説は、すでにイントロでふれたのだったが、このもじりの際に、大島は「恋は開眼」とかの誰でも思いつきそうな反転をおこなうのではなく、「ニュートンのリンゴ」へと変身させた。このおしゃれなひねりの仕組みはなんなのか。

 

ニュートンのリンゴ。これは当然、重力/引力の発見に関わっている。そして、この発見は、これまで議論してきた人間の盲目性の話と無関係ではないだろう。というのは、ニュートンのすごさは万有引力の法則を唱えたからすごいのだが、より本質的なすごさは、重力や引力という「目に見えない」ものを発見したところにあるだろう。

 

それだけではない。この発見はさらに、常識の放棄という点でグレートだ。なぜなら「リンゴはなぜ落ちるか?」という問いに、そもそもリンゴは落ちているだけなのか?引っ張られているのではないか?という逆説、つまり、逆方向のエネルギーを頭に描けたことがすごい。

 

さらに、このニュートンの功績を言い換えれば、言語によって獲得される知識の放棄とも言える。「リンゴの落下、りんごが木から落ちました」という言語表現は、一度知ってしまうとあまりにも日常的であるために、定着するとそれ以外の発想が難しくなる。あまりにも有名な神話、アダムとイブの墜落もまたりんごの落下を定着させる知識のひとつかもしれない。

 

この文脈において、漫画の2ページ目におけるヘレン・ケラーが出てきていたのは入念な準備の上であったと考えられる。

 

「言葉に気がつく前のヘレン・ケラーみたいな気分 なかなかなかなか自分が生まれないジレンマ」

 

言葉に気がつくことで見えるというヘレン・ケラーの有名な「ウォーター」は、タイトル以外では直接言及されることのないニュートンの見え方と正対照になっている。大島はむしろ人間の言語獲得、人間の知識を放棄する方向にむかったさいに真の発見があることを期待しているようだ。

 

これはつまり漫画の1ページ目が歩行から始まり、最後が木登りで終わっていることに連動している。しかも泡盛は、兄に椅子に縛り付けられていたため2足歩行に苦労しているコマもある。

 

332ページ

 

つまり、サトコと泡盛は、人間よりは猿へと、「見えない、聞こえない、話さない」の三重苦を、むしろ「見ざる、言わざる、聞かざる」を徹底することでニュートン的なパワー(現実を見ないで、真実を発見する思考法)を手に入れたのだろう。サトコが天才だったのも単なる突飛な設定ではなかった。

 

こんな漫画を描き終えた大島はきっとウキウキだったはずだ。

 

334ページ

 

*1:本記事は2022年8月21日に行われた「みんなのBento」読書会(夏休みBento!!)での議論を踏まえたものです。時間が経ってるから誰が何を言っていたのかを正確に区別できない、というわけではなく、その書き方が非常に面倒くさいのであきらめてしまいました。すみません。そのため、個々の発言を引用せず全て自分が思いついたかのようにこの記事を書いてしまっていますが、ほんとうは読書会で出たアイディアの集積がベースになっています。ありがとうございました。