みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

出てこないのはサメだけではない 『ノー・シャーク』 馬鹿サメ映画を馬鹿真面目に考察してみた

 

鼻ピかっけえ金髪ギャル、コニーアイランドのビーチに上陸。

「猫のトイレ」と名付けたビーチに座った彼女の願いは

サメに食べられて肉の破片になること。

とか言いながら浅瀬のほうをウロウロしているのだけど。

 

 

 

 

 

考察。

 

No Parking「駐車禁止」をもじっていることがうっすらわかるポスター

 



 

No Shark

この映画は「排除」を突きつけている。

だが、いったいそれは誰に対してか。

 

なるほどタイトルはたしかに「サメ」を除外している。だからこれが「サメなし映画」とラベリングされ、『ジョーズ』など他のサメ映画との比較されるのも理解できなくはない。しかし、このような便利な図式をつかわずにタイトルの頭についたNoを考えられないだろうか。その一つの方法として「除外」を単にサメに向けられたものとするだのではなく、この映画が予算をなるべく削減してつくられるインディー映画であることに向けてはどうだろう。こうすれば「ノー」は映画自身に突きつけられていると考えられる。

 

 

必要最小限。

 

主演:ギャル1名

(厳密には途中でプロンプターが入るがむしろ際立つのは二人の違いのなさの方)

 

声優:必ずしも俳優と同一でなくてよい。二種類の声が必要。

 

脚本:フェイスにずっとしゃべらせ、他の俳優にセリフを与えない。登場人物は意外と多く、画面上に俳優の姿は見えるが、特に演技らしい演技をするわけでもない。

 

舞台:海岸

(厳密には7つの海岸だがむしろ移動のたびに際立つのはそれらの違いのなさの方)

 

 

 

 

しかしこのように「排除」の主題は予算の縮小に伴うロケーションの固定、少人数稼働といった映画自身に向けられている一方で、映画の画面上で起きていることに的を絞れば、主人公チェイスが他者や外部世界に対して行う「排除」という別の形で反復されている。

 

 

一つ目は、現実世界のレベルでの排除。

 

彼女は海岸にいる人間を追い出そうとしている。ただし、たんに全員を追い出すわけではなく、追い出すためには接触が必要というパターンがある。彼女が接触した人間たちが軒並み画面から消えていく。ちょうどサメは獲物に追いつくときに死が与えられるように。事実、チェイス本人が自分をサメと重ねている場面もあった。

 

 

 

もう一つは、映画手法を利用した排除だ。

 

場所として排除するだけではなく、モノローグをぶっ通すことで音声的にも外的な音を一才遮断している。環境音がゼロである。海の映像しか流れないこの映画でいちども波の音や、ビーチで遊ぶ人々の声はきこえない。代わりに異常な速度と、ありえないくらい感情の込められていない均一なトーンで語られるモノローグがしきつめられている。

 

急に暗転する場面。「目を瞑ると何も想像できなくなる」というチェイス自身が自らの病気と語る症状は、実際には暗闇をつきつけられたのが観客としての私たちであることを思えば、強制的に目を閉ざされ、見ていた映画の世界から締め出されたともとらえらる。このように、この映画が「ノー」を突きつけているのはサメであることを通り越し、語り手の外部にある一切のもの、しかも観客すらもが排除されようとしていたのかもしれない。

 

 

しかしながら、彼女が取り除けないものがあるように思われる。

 

それは彼女の名前チェイスに象徴される「追う」主体である自分自身だ。これは自殺を予期させるかもしれないが、そういう話ではなく、ただ単に彼女は自分自身には物理的・精神的に追いつけないのだと思われる。このことは彼女が一生しゃべるのをやめないことから示唆される。別の言い方をしてもいい。彼女は亀を追うアキレスのように自分の舌/言語(tongue)に追いつけない。

 

ノーシャークとはこのような意味での追跡不能性、つまり「ノーチェイス」という標語(禁止ではなく不可能)として読み替えてもよいのかもしれない。