みんなのBento

種類豊富なおかずが入った、楽しいお弁当。筆者たちが各々のレシピで調理しています。多くの人に食べてもらえるようなお弁当を作るため、日々研究中。

【歌詞解説①】GeG/Merry Go Round feat. BASI,唾奇, VIGORMAN, WILYWNKA

 

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Mellow Mellow~GeG's PLAYLIST~

 


www.youtube.com

 

「Merry Go Round feat. BASI,唾奇,VIGORMAN,WILYWNKA」は、変態紳士クラブのGeG(ジージ)が「愛のままにすきにやる」4人をラッパーに、そしてバンドに韻シストのTAKU、showmoreの井上惇志、Soulflex のFunky Dら迎えてプロデュースした、最高に「チルな場所へ」連れて行ってくれる、そんな曲だ。

 

2019年8月にリリースされ、YouTubeにアップされたMVは2021年9月時点で1500万回再生を超えている。

2020年11月にはMV1000万回再生を記念し、スタジオ・ライブ映像が公開された(ライブに行きたい)。

 

メンタル的にはハンモックに寝ながら、瓶ビールを片手に持ちながら、心地よいサウンドにゆったり体をあずけて「Merry Go Round」を聞いていると、ある20世紀アメリカ文学が思い出された。

 

回転木馬、雨、音

まわる回転木馬

ざらしの僕らの

音にただ黙って揺れてくれる

 

回転木馬、雨、僕ら、音」とくれば、第2次世界大戦後のアメリカを代表する作家J. D. サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳)だ!

 

ライ麦畑でつかまえて』のラストは、主人公のホールデン少年が「バケツをひっくり返したよう」な雨の中屋根の下に隠れることなく「雨ざらし」状態で、妹のフィービーが回転木馬に乗っているのを見つめて幸福を感じている。

 

ホールデンとフィービーが回転木馬に向かう途中、いつもと同じ歌が流れてた。

そして、回転木馬が回り始めると別の歌「煙が目にしみる」が流れる。

回転木馬のまわりではずっと音が鳴っているのだ。

 

わたしは瓶ビールをちびちび飲む。

 

フィービーとホールデン

君を連れ 雲の上

ヘイトはもう忘れてくれ

下界じゃ心も持たないから

君と踊りたい

風の上を転ぶように

ただ音色だけが揺らぎ

月がひとつ トーン落として

誰かがライムを披露してる

そんな安堵に満ちたmood

 

ライ麦』に登場する主人公の妹フィービーは自分のことを「フィービー・ウェザーフィールド・コールフィールド」とノートに何度も書く。

そう、妹フィービーは天気の子なのである。

下界じゃ心が持たないから、雲の上に行きたい、分かる。

そして踊りたい気持ち、分かる。

 

ライ麦』の主人公ホールデンは自由なダンサーだ、と言ってもいいだろう。

一人でタップダンスに、ラウンジで女の子3人とダンス、そして「風の上を転ぶように」天気の子・妹フィービーとの「月がひとつ トーン落とし」た真夜中のダンス

 

BASIのライム(ギ)?

先ほど触れた通り『ライ麦』に登場する回転木馬では「煙が目にしみる」が流れており、それは「とてもジャズっぽい」演奏だとホールデンは語る。

 

80年代後半、クインシー・ジョーンズがジャズとヒップホップの関係について、ふたつは同じ木から実った果実であると認め、「ビバップとヒップホップは、多くの点で結びついている。インプロヴィゼーション、ビート、ライムといった点で、多くのラッパーがビバップ・アーティストを彷彿とさせる」と語った

引用:https://www.udiscovermusic.jp/stories/blue-note-and-hip-hop-influence

 

ジャズはヒップホップの形成に大きな影響を与えたと言われている。

ちなみに、「煙が目にしみる」は山下達郎も1993年に英語でカヴァーしてるジャズの定番曲である。

 

そして、サリンジャーが『ライ麦』に登場させたジャズをBASIはラップに取り入れた、のかもしれない。

いや、BASIを主語にするというよりも「誰かがライムを披露してる」のだから、「誰かが」取り入れたということか?

 

BASIはアルバム『切愛』のインタビューで収録曲「普通 feat. 鎮座DOPENESS」のテーマについてこう語っている。

 

そもそも、自分のリリック自体が小説や映画からインスパイアされることはまったくなくて、友達と過ごした時間や、誰かとの会話が歌詞に反映される部分が強いんですね。日常の中の思い出や経験から、自分の表現が生まれてくるというか。だから何気ない、些細なことを紡ぎたいし、「普通」はそれをより明確にしたんです。

引用:https://natalie.mu/music/pp/basi/page/3

 

BASIは、小説や映画から影響を受けないと言ってる。

ならば、「誰か」との時間や会話から、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』ラストの回転木馬シーンが印象に残り、BASIにとって普通の経験の一つになったのかもしれない。

 

サリンジャーの『ライ麦』がBASIのライム(ギ)に。

 

かっこよ!

ビールがなくなったので、新しい瓶を取ってきます。

次もサンミゲル・ライトで〜

 

解説②に続く。

minnano-bento.hatenablog.com

【考察】エロス・イン・BLEACH!――涅マユリ「被造死神計画」大考察 (後編)「科学者はアンドロイドの夢を見るか」?――涅マユリ&ネムの巻頭詩の謎を解く

f:id:minnano_bento:20210927021113p:plain執筆者:ぴんくぱんだちゃん

 

(後編)「科学者はアンドロイドの夢を見るか」?――涅マユリ&ネムの巻頭詩の謎を解く

 前編はこちら

minnano-bento.hatenablog.com

科学者涅マユリの野望――「科学者はアンドロイドの夢を見るか」?

涅マユリは、典型的なマッドサイエンティストとしてキャラクター造形がなされている。石田雨竜との戦闘シーンでは、雨竜の祖父をクインシー殲滅のため実験と称した拷問にかけていたことが明かされる。さらに、副隊長の涅ネムを盾に攻撃する戦法は、雨竜を驚かせ、敵ながらも雨竜はその残酷なやりかたを咎めるほどである。ネムをなぜそのように扱うのか雨竜に問われたマユリはこう返す――「涅ネム 私の義骸技術と義魂技術の粋を結集させて作り上げた――私の娘だヨ」。マユリの「娘」だというネムはマユリの「被造死神」(≒アンドロイド)なのである。ネムが後から説明することには、彼女はマユリの血から作られているという。彼女の誕生日(3月30日)・好きな食べ物(サンマ)・嫌いな食べ物(ネギ)すべてがマユリと同じ仕様に設定されていることから、マユリは単に「被造死神」(≒アンドロイド)を作りたいのではなく、自身と性質を共有する「被造死神」(≒アンドロイド)の製造を目論んでいることがわかる。つまり、異性愛結合(性器接触による卵子精子の受精)ではない形で、彼の遺伝子をもつ生命体を創造することが目的なのである。このような同質性の強調はおそらく、人工的な血縁ではあるが「遺伝」を再現しようとしたとみてよいだろう。ネムという二文字をくっつければ「私」という漢字になるのも、当然意図的なものだろう。

 

マユリの究極の目標である被造死神計画の全貌が明かされるのは作品もかなり終わりに近づいた70-71巻だ(本作品は74巻で完結)。マユリによれば、「全死神の夢」である「被造死神計画」は、「起きたまま見る夢など馬鹿げている」という理由で「眠(ねむり)計画」と名付けられた。ネムは、その被験体第7号にして、初の「被造魂魄細胞の寿命」を超えて成長した生命体である。

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©久保帯人 集英社BLEACH』70巻, 178-179ページ

ネムが初めて目覚めたとき、マユリに「眠七號」と呼ばれたのを懐かしむ彼女は、なぜマユリが自分を「ネム」と呼ぶようになったのか阿近に尋ねたのが、上記の引用部である。マユリの「夢」である被造死神計画の成功を体現する眠七號は、まさにマユリの夢の成就そのものであるから、マユリはそれを悟られるのが「恥ずかしい」のだろうと阿近は答えるのである。

 

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©久保帯人 集英社BLEACH』70巻, 180-181ページ

なんともエモい話である。ちなみに筆者はこの数ページがBLEACH全74巻の中で一番好きだし、これまで触れてきたあらゆるフィクションの中でも指折りの「愛」の描写だと思っている。

 

被造死神(≒アンドロイド)計画が意味するもの

では、そもそもマユリは何故それほどまでに被造死神(≒アンドロイド)製造に取りつかれているのだろうか。その問いの答えは、マユリがネムを「私の娘」として常に認識している点に集約されるだろう。つまり、マユリの計画とは単に戦闘用や産業用の被造死神(≒アンドロイド)を作ることではなく、彼の「娘」を作っていることが重要なのではないだろうか。

 

少し話は逸れるが、アンドロイド創造は永らくSFの最重要テーマの一つである。というのも、人間は「創造主」になりえるのか、という問いは「神の領域」に侵攻という宗教的・倫理的忌避感を喚起するため、アンドロイド技術は人間の科学へのエゴの極致として否定的に描かれることが多い。しかし、アンドロイド――人造人間――の誕生はジェンダーセクシュアリティ研究やクィアスタディーズの観点からみると、少し異なる側面を見せる。

 

ジェンダーセクシュアリティ研究/クィアスタディーズとは主に、異性愛という性的指向を「ノーマル」(正常)と定め、異性愛者男女による結婚と、彼らの一対のヴァギナとペニスを用いた生殖(=「異性愛規範(ヘテロノーマティヴィティ)」が特権化されている構造を暴き、その規範の排他性を問うことで、そこから排斥されるものを掬い取ろうとする学問である。要するに、クィアスタディーズとは、異性愛男女カップルにのみ結婚・生殖が許され、様々な司法制度で保護されているこの社会の前提に疑問を突き付け、どのような個人が排斥されているかを探求する学問領域のことだ。

 

異性愛規範的な観点からみると、アンドロイドの誕生が、いかに危険思想であるかは明明白白である。これまで、結婚・再生産は、生殖能力のあるモノガミー異性愛者にのみ特権化することでこの制度は成立してきたわけだが、一対のペニスとヴァギナを使用する以外の生殖・再生産を行えるということになっては、この制度を根底から揺るがすことになってしまう。性別、性的指向、そして生殖能力を問わず、誰でも、誰とでも、一人でも、生殖可能になるからである。したがって、アンドロイド製造が忌避される根本的な理由とは、生殖を特権化すべく「神の領域」としてきた虚構性が明らかになるからなのである。つまりアンドロイド製造とは、翻って、既存の異性愛生殖へのアンチテーゼであり、モノガミー異性愛性器中心主義の性愛の根本を揺るがしうるものだ。このように、アンドロイドの創造とは、ある種の人々には「タブー」でありながらも、現状の異性愛規範を打破する可能性を秘めた大きな原動力なのである。

 

巻頭の詩の謎

BLEACHに話を戻すが、人間とほぼ同じ見た目をもつ「死神」が暮らすソウル・ソサイエティには、人間界と同様の結婚・家族制度があり、孤児であることがコンプレックスとなっていたり家柄などの血統を重んじたりしていることから、この世界も我々の異性愛規範を共有しているとみて問題ないだろう。だからマユリの被造死神計画は、人間界におけるアンドロイドと同様のインパクトをもつはずである。

 

BLEACHの死神たちは、ジェンダー規範も人間界とほぼ同じ、もしくは、今日の読者には我々の現実界よりも保守的にすら見えるかもしれない。男性死神たちは「男らしく」(十一番隊の規範意識が好例である)、女性死神たちは、「BLEACHには巨乳か貧乳かしかいない」とよく言われるように、キャラクターデザインは豊かではあるが、何らかのフェティシズムに刺さるという意味で「女の子」としての様々な魅力が記号のように各キャラクターに付与されている。

 

そんな中でマユリは際立った存在である。隊長格の男性死神の多くは、身体が大きかったり「イケメン」であったりするなかで、マユリの外見は、改造と化粧と装飾品のおかげで、「男らしさ」からはかけ離れている。そもそもこの科学者に「マユリ」というジェンダーの曖昧な名前与えられ、「~だヨ」「~だネ」という語尾を用いて話すことは、彼がソウル・ソサイエティのジェンダーセクシュアリティ規範に抗う者として造形されているといっても過言ではない。マユリの被造死神計画が、生/性の規範性に抗うものであると仮定すると、異性愛ロマンスが蔓延り、ジェンダーコードに忠実な見た目をした男女の死神たちの中で、自身の身体に改造を重ねているのは、生まれもった(定められた)身体(性別)と、それにより自ずと付与される社会的な性役割ジェンダー)への抵抗ととれるはずである。

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©久保帯人 集英社BLEACH』35巻 表紙・扉

ところで、BLEACHのコミックスの表紙には、一冊に一人ずつキャラクターが描かれ、扉にはその表紙のキャラクターが語り手とされる詩のようなものが書かれている。例えば、マユリが表紙になっている35巻の扉には「産まれ堕ちれば、死んだも同然」という、BLEACH史上屈指の短さの詩が書かれている。まず、やはりマユリには「産む/産まれる」という問題が深く関わっていることがここでも証明されている。しかしこれだけを読むと、「マユリ様らしい!アバンギャルド…!」くらいにしか思わない。ところが、ネムが表紙となる71巻の詩には、いささか不可解な点があり、もちろんこの二人の詩は何らかの形で関連すると考えるべきだろう。

 

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©久保帯人, 集英社, 『BLEACH』71巻 表紙・扉

マユリの「娘」であることが繰り返し強調されているはずのネムが語り手となる詩において「吾子の手かわいや さまよう手」と、なぜか「親」目線の歌が書かれているのであるコミックスのタイトルも、“BABY, HOLD YOUR HAND”と題され、親から子への呼びかけとなっているのである。つまり、どちらかといえばこの詩は、「親」であるはずのマユリからネムに向けて詠まれた詩として読む方が容易く理解できるのである。しかし、この巻のみ「表紙=語り手」というルールが破られているとは考えづらいので、あくまでもネムの語りとして読むと、そこからは二通りの仮の解釈が導き出せる。

 

1)ネムの聞いたマユリの声説

71巻の戦闘シーンにおいて、ネムはマユリに初めて名前を呼ばれたと記憶する日のことを思い出す(おそらくネムが初めて目を開けた日)。このような回想と現実の混在を考慮すると、この詩も、ネムがマユリの歌っているところを聞いたものとして解釈できるかもしれない。しかし、詩の上にある、手のカットは、表紙と見比べると成長したネムの手であることがわかるので、時系列的には、この詩はネムが成長してから発していると見た方が妥当だろう。

 

2)ネムがマユリに向けて詠んでいる説

では、ネムがマユリに向けて詠っている詩だとすると、なぜネムのほうが「母のように」読んでいるのだろうか。70巻から71巻にかけては、マユリがペルニダというクインシー相手に苦戦し、ネムの捨て身の防御によってマユリは辛勝するものの、ネムは粉々にされてしまう。この戦いの間、ネムはマユリを守ることを「使命」と考え、マユリの命令に反して彼を庇おうとする。マユリは、マユリはネムの肉片から、彼女の大脳をなんとか持ち去り、この大戦後「眠八號」の製造に成功している。眠八號は、性格こそネムとは全く異なるように特徴づけられているが、見た目は七號の幼少期と瓜二つである。つまり、マユリから「生まれた」ネムは、大脳という彼女の一部を再び移植することで再び「生まれる」と同時に、新たな生命体を「生む」主体の一部となりうるのである

 

七號は、マユリの技術によってゼロから作られた生命であったことは確かだが、八號に関しては、マユリの遺伝子(厳密には血液その他細胞等)とネムの大脳の掛け合わせによって生まれた生命体である。八號の製造において、マユリは全てを予期できていなかったようである。八號はネムと対照的に、活発な性格をしており、終戦後の一コマで返事が元気すぎる八號に「全く…お前は…どうしてこうなってしまったのかネ」と言っている(74巻 196ページ)。八號の誕生が単にマユリとネムの情緒的な結合の体現とかではなく、重要な意味を持つのは、マユリの単一生殖が二世代以上に渡って成功したことを意味するからである。もちろん、七號もマユリの被造物なので、二世代に渡る生殖ではなく、マユリが2体の被造死神製造に成功しただけかのようにも見える。しかし、ネムはペルニダ戦でマユリが最早予測不可能だった知力と情操の「進化」を果たしたがために、マユリを庇い死んでいった。つまりネムは、マユリによる被造死神は創造主の設計を超えた「魂魄」(生命体)となりえたので、マユリの設計の範疇を超えた影響を「生まれる」対象に及ぼすことのできる「生む」主体たりえるだろう。マユリに生ま「れた」ネムが大脳の形で生き残ることで、再びマユリの遺伝子を持った八號を、こんどは「生む」ことになり、このときマユリの遺伝子も、再び生ま「れる」のである。マユリは「生み」、そして「生まれる」という、ネムとの間で親子の関係が転倒し始める。

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©久保帯人 集英社BLEACH』71巻, 31-32ページ

上のコマは戦いで負傷したマユリが治癒カプセルの中でみる「夢」だが、ここで最後2コマに注目してほしい。「夢」の中にいるマユリが目を開ければ、ネムの手をつかめるだろう。だから、Hold your handはネムからマユリへの呼びかけへとここで転倒の意味が明らかになる。さらに最後のコマでは、治癒液体の中にいるマユリも(裸のネムと同様に)羊水の中の胎児のイメージが重ねられているだろう。ネムとマユリ、両者の腹から出ている泡のようなものを、途切れたへその緒として読むことも可能である

 

「生まれ堕ちれば、死んだも同然」という、何らかの絶望感を表明していたマユリの詩は、何に絶望していたのかといえば、生ま「れる」ことで与えられた身体や、付与されるジェンダーなどの、その受動性なのではないだろうか。すべての生命体は生ま「れる」以上、身体は所与のものであり、身体を自由意志で「変える」ことには倫理的な批判が付き纏う(美容整形やタトゥーの是非に関する議論を思い出せばよい)。さらに生まれ持った身体的特徴から、ジェンダーも付与されるわけで、その改変を試みればさらに激しい嫌悪の目を向けられるのが現代の我々が生きる世界である。「自然の摂理」とかいう言葉で、所与の身体、そこから社会的に与えられた性別を意思によって変えることは、常にタブー視されるのである。

 

自身の身体も改造するほどに、自然の摂理を超えてあらゆるものを制御したいと考えるマユリにとって、唯一制御不可能だったのが、再生産なのではないか。本記事は、マユリはトランスジェンダーだ!とか、言いたいのではない。ジェンダーや生殖の問題に、科学技術によって抗うマユリの存在や行動そのものが、その規範性を覆す可能性を胚胎する概念として機能する。マユリは被造死神製造を成功させることで、「神の領域」となぜか神聖視される生殖を、自身の手中においた。そして、自身が「生んだ」生命体に、再び「生まれる」ことで、生み・生まれることまでもコントロール可能にしたのである。さらに生み・生まれる主客をも攪乱するマユリとネムの関係が、「親子」でありながらも常にエロティックであり、しかしそれを近親姦的といえるかといえば、彼らは血が繋がっていないので、「近親姦」があてはまるとは断言できない・・・。“Baby, Hold your hand.”という呼びかけが、親子間はもちろん、恋人どうしにも交わされる呼びかけにも使われることを思い出せば、彼らの関係の倒錯をよく表している。あらゆる規範によってがんじがらめに社会化された関係性は、ひとたびタブーを取っ払うと、どんどん関係性は増殖していくはずである。その無秩序なまでの増殖と、無限の繋がりの可能性に、嫌悪感を抱くのか、豊かさを見出すのかは個人の感覚によるし、一概にその無秩序さが是とは言えない。しかし、そうした可能性に思いを馳せる作業は、いまここにある強固な規範の存在を相対化することなのである。

 

マユリとネムの関係性に表出するあらゆる関係性の転倒による混沌が伝えるのは、逆説的に、極度に制度化された生殖や家族というシステムである。なぜか一対の異性愛者同士による性器結合によってしか生殖は許されず、その秩序を保つために近親の血縁内での生殖を禁じられ、現代社会ではそれが「自然」かのように認識されているが、マユリのように非異性愛生殖に成功する者が現れると、「神の領域」とされ不可侵だった「自然」が制度に過ぎないことが判明する。マユリは死神だが、私たち人間も、マユリのように「夢」を見ることはできる日は、はたして訪れるのだろうか。マユリの答えは、もちろん、「百年後まで、御機嫌よう」。

 

【考察】エロス・イン・BLEACH!――涅マユリ「被造死神計画」大考察(前編)「涅マユリ ネム 治し方」を真剣に考える

f:id:minnano_bento:20210927021113p:plain執筆者:ぴんくぱんだちゃん

(前編)「涅マユリ ネム 治し方」を真剣に考える

後編はこちら

minnano-bento.hatenablog.com

はじめに

2021年に20周年を迎えた漫画BLEACHは、同年8月10日に、「読み切り」と予告されていたはずの新作が、新しいシリーズのスタートを示唆するものであったことから、再びインターネット上を賑わせている。数年ぶりにBLEACHに触れたことで、同作品を再読したり、これを機に新たに読み始めたりする人も多いだろう。筆者(ぴんくぱんだちゃん)は2000年代に思春期を過ごしているので、ガッツリBLEACH世代だ。同世代のジャンプ読者は、BLEACHに多様な性癖を形成された、という向きも多いだろう(夜一さんとかジジ×バンビとか)。

 

BLEACHの大ファンであると公言している『呪術廻戦』の作者、芥見下々は、BLEACHのキャラクターのなかでも、涅マユリ(くろつち まゆり)が一番好きなんだそうだ(『呪術廻戦』公式ファンブックより)。私もマユリが一番好き!!!! 芥見下々がマユリ好きと知ってから、永遠に続くのかと思われた渋谷事変の長さも我慢できるようになった。マユリ様好きのやることなら信用できる。それくらい筆者はマユリが好きだ。

 

というわけで本記事では、護廷十三隊・十二番隊隊長兼技術開発局二代目局長「涅マユリ」というキャラクターを、彼の野望である「被造死神計画」を中心に考察する。そう、ネムを作り出したあの計画である。基本的に王道ジャンプらしい漫画であるBLEACHにおいて、奇天烈な見た目をしながら「鬼畜」とされる所業を繰り返す、エログロ担当のマユリが、何故味方サイドの主要キャラクターとしてあれ程までに登場するのか、不思議に思う読者も多いだろう。本記事では、マユリの卓越したキャラクタライゼーションと、彼の「エロ」の部分が、「BLEACHジェンダーセクシュアリティ表象が保守的」等の意見に一石を投じる可能性があることを明らかにしたい。

 

ネタバレについて

本記事には、マユリが登場するエピソードについてはネタバレを含むが、マユリに特化しているため、本編についてはネタバレの心配はあまりない。この記事は、本編未読の読者に(そもそもこの記事にアクセスしていない気がするが)、マユリが主人公クラスのキャラクターであると誤解を与えてしまう恐れがあるので断っておくが、マユリは重要キャラであるとはいえ、本編全体から見れば「ゲテモノ・キワモノ」キャラに過ぎない。この記事を読んでもBLEACHという壮大な作品の全貌や、張り巡らされた伏線の理解には何の役にも立たないが、脇役キャラにさえこのような複雑な設定がなされていることで、BLEACHという作品の奥深さやキャラクタライゼーションの巧みさの片鱗をうかがうことは可能だろう。

 

涅マユリとは? 

f:id:minnano_bento:20210927021812p:plain©久保帯人, 集英社BLEACH 35巻表紙

護廷十三隊の十二番隊隊長と技術開発局二代目局長を兼任している死神。科学技術に長け、周到な準備のもと戦いに臨むため戦闘力も全隊長のなかでもAランクくらいだろう(Sランクは総隊長・藍染・京楽・浦原あたりか)。上記の写真のように素顔の見えない外見をしており、「~だネ」「~だヨ」という特徴的な語尾を用いて話す。副隊長は、マユリの「娘」だという涅ネム(正式名称は眠七號(ねむりななごう))。

 

マユリはソウル・ソサイエティ編・アランカル編・千年血戦編で大きな見せ場を持っており、特に最終章千年血戦編では、クインシー相手に有利に戦った数少ない隊長の一人である。また、彼は章ごとにイメチェンされて再登場するため、キャラクターデザインへの手の込みようや、重要なセリフを数多く与えられていることから、マユリは作者久保帯人の「お気に入り」としてファンには広く認識されている。先月発表された読み切りにもマユリはかなりの紙面を割かれるていることから、作者がマユリを重要なキャラクターとして位置づけていることは明らかである。

 

「涅マユリ ネム 治し方」を真剣に考える

涅マユリに関して読者からの関心を最も集めるのは、ザエルアポロ戦で負傷し、老いて皺だらけになった副隊長のネムをマユリがどのように治したのかという謎である。Googleで「涅マユリ」と入力すれば、検索エンジンには「涅マユリ ネム 治し方」と出てくる。『BLEACH』全話中でもっともエロい第306話“Not Perfect is GOod”(コミックス35巻収録;原文ママ)において、負傷したネムをマユリが「映せない」とされる治療を施した場面について、多くの読者が描かれなかった治療法が何だったのか検索しているのだ(筆者も検索した)。

 

 

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©久保帯人 集英社BLEACH』35巻, 16-17ページ

そもそも、おそらく性的であるがゆえに「映せない」治療の前場面、ネムがザエルアポロによって負傷する場面も多分に性的である。ネムの体内に侵入したザエルアポロによって、彼女は懐妊させられる。

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 ©久保帯人 集英社BLEACH』34巻, 190ページ

ザエルアポロの触手に絡めとられ宙づりにされていたネムが、その触手に孕まされるというのは、R-18漫画でいう、いわゆる「触手モノ」に該当する。ちなみに、ネムが命を落とすペルニダ戦でも、ペルニダという手の形をした異形の敵が触手のようなものを出し、彼女はそれに分解され命を落とす。つまり著者は、ネムの最期には、触手に加えてリョナ的なフェティシズムをも付与している。石田雨竜との戦闘からも明らかであるように、ネムはマユリとサドマゾ的な主従関係でも繋がっている。基本的には王道ジャンプ漫画であるはずのBLEACHにおいてマユリとネムの組み合わせが描かれるとき、エロティシズムを付与するキャラクターとしてどうやら作家に意識されているらしい。

 

ロマンティックな寓話をあざ笑うマユリ/久保帯人

では、石田雨竜に「映せないこと」と言わしめたマユリの治療とは、いったい何だったのだろう。これを問う動機はもちろん、純粋なエロ心ではあるのだが、この治療法はおそらくマユリの「被造死神計画」の全貌を明らかにするうえで大いに重要な手がかりになるはずなのでまじめに考察していきたい。

 

「治療」の内容を詳しく検証する前に、この「回復」場面がそもそも何を意味するのかを明らかにしたい。マユリとネムが作中でエロティックな主従関係を結んでいることから、彼らを一組の異性愛カップルとみることも可能だが(実際マユネムカップリングは浦マユに次いで人気である)、するとこの場面は、途端に私たちに馴染み深い寓話とオーバーラップする。そう、「眠り姫」や「白雪姫」などの「敵の攻撃(毒)により仮死状態となったヒロインを、ヒーローがキスによって目覚めさせる」という筋書きをもつロマンティックな寓話である。しかし、治療場面の2コマに描かれるマユリの「治療」中、ネムが喘ぎ声をあげていたり、性器挿入の典型的な効果音(「ボジュッ」「ジュブッ」「チュプッ」)が描かれていたりすることから、マユリの「治療」は、気絶したヒロインをキスで目覚めさせるという、「眠り姫」的ロマンティックな「回復」の寓話への痛快なパロディとなっている。

 

というのも、「眠り姫」、「白雪姫」いずれの寓話も、グリムやペローのオリジナル版では、眠っている最中に王子がヒロインを妊娠させ、胎児が育ってきたことでヒロインは目が覚める。つまり、中世(グリムは初期近代)に書かれたオリジナル版は、睡姦による妊娠という、男性の暴力性と妊娠のグロテスクさを仄めかす物語であったが、近代以降、異性愛の恋愛・結婚・出産を一直線に結び制度化するイデオロギー(ロマンティック・ラブ・イデオロギー)の誕生に伴い、これらの寓話も改変され続けた(終着点はもちろんディズニー映画である)。つまるところ、我々がよく知る「姫は王子のキスによって目覚め、二人は結ばれ、末永く幸せに暮らしましたとさ」という筋書きは、異性愛の結婚・出産の規範化するために、「童話」として恣意的に書き換えられたものなのである。

 

ネムの本名が「眠七號」(ねむりななごう)であることを思い出せば、おそらく意図的に、ネムに「眠り姫」のイメージが重ねられているのだろう。しかも、久保帯人が用いた「眠り姫」のイメージは、近代以降ロマンティックに脚色された(現在流布している)「眠り姫」のプロットではなく、グロテスクなオリジナル版のほうである。「眠り姫」をめぐる作家の創造/想像力は、この場面を異性愛ロマンス的な物語へのアンチテーゼとして機能させる。BLEACHという作品自体は、男性主人公・黒崎一護の結婚・再生産でもって完結を迎えることから、典型的な異性愛男性主人公のビルドゥングス・ロマンとして分類されうる。本作品には、一護と織姫(ここにも寓話からの借用が!)の異性愛カップル以外にも、ルキア×恋次、ギン×乱菊日番谷×雛森など、主要登場人物の恋愛関係がしばしば描かれる。このような作品において、異性愛ロマンスをあざ笑うかのような役割を与えられた涅マユリ・ネムは、BLEACHジェンダーセクシュアリティ観において、特筆すべき存在である。

 

どうやって治したの?

マユリの「治療」に話を戻そう。「優しいキス」でないならば、マユリはどうやってネムを治し/起こしたのだろうか?Yahoo知恵袋にも「マユリはネムと〈治療〉中に性交しているのか」という質問がいくつか投げられているように、あまりにエロティックな描写を受けて、みんな要するに、「マユリはネムとヤッたのか」が気になるわけである。私も気になる。石田の「映せないこと」を文字通り受け取れば、少年誌に載せられない性表象の基準は、性器の露出や性器的結合の有無である(余談だが、この制限がかかることによって、間接的な性表象や「寸止め」的な描写をジャンプ作家が描くことにより、逆説的に性器的接触よりも「エロい」表現が生まれているように思う。最近でいえば『チェーンソーマン』のマキマとデンジの絡みなどはその好例である)。

 

そこで、ネムの治療シーンには、何らかの性器的な描写があると仮定するが、マユリが自身の性器を直接的に挿入しているか、といえば否であると思う。というのも、マユリの着衣は乱れていないし、ここでマユリが腰を振るというのは、彼の性質上考えにくいだろう。そこで思い出したいのが、マユリは「被造死神計画」つまり人間界で言えばアンドロイド製造を最大の目標に掲げる科学者だということである。被造死神(≒アンドロイド)製造とは、人工的に新しい生命体を生み出すこと、つまり、性器の結合ではない形で生殖・再生産することとも換言できる(詳細は後編にて)。

 

だからこそ、「治療」のためにネムにマユリが自身の性器を直接挿入して、性行為まがいのことをするとは考えにくい。しかも、彼は自分の体に多数の改造(腕・耳が改造され、身体には夥しい数の縫い目がある)を施しているし趣味は「人体実験」だ。両耳を切り落としスピーカー仕様に改造し、腕はもげても注射により再生可能、そして皮膚には白塗りを施している彼が、生殖器だけ未改造なままである可能性は極めて低いし、自分の精液を出すためにヘコヘコと腰を振るわけがないだろう。マユリ様は精液の注射液くらい持っているに決まっている。

 

したがって、異性愛ロマンス寓話の強烈なパロディであるマユリの「治療」において、彼はネムの性器に、男性器以外の何かを挿入しているとみて間違いなく、何らかの治療薬を性器に挿入しているとみるのが最も蓋然性が高いだろう。では、治療薬とは何だろう。結論から言えば、精液か、その成分を注入しているのだろう。しかしここで根本的な疑問が生じる。老いる形で一度は死んでしまったネムは、なぜマユリの精液(的なもの)で生き返ることができるのか?その答えには、先にも述べた通り、ネムはマユリの「被造死神」の技術、つまり、性器結合による生殖ではない方法で生まれたことが関係している。この謎を解くには、マユリの「被造死神計画」を紐解く必要がある。

 

(続きは後編にあるヨ!マユリ&ネムの巻頭詩の謎に迫るヨ!)

minnano-bento.hatenablog.com

The Last of Us Part IIがもたらす地獄の快楽

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By リヴァ刺し

The Last of Us Part II』(ラスアス2)はゲームであるにもかかわらず、「プレイヤーを楽しませること」を最優先とはしていない。むしろ、このゲームはプレイヤーに「不快感」を与えることを計算して作られている。「ゲームは楽しむものだ」という自明の前提を壊したこのゲームの新しさについて、発売から1年半が経ちほとぼりが冷めた今こそ語るべきなのかもしれない。

 

目次

 

1. 強烈な不快感

このゲームについてのレビューやブログはすでにたくさん書かれているが、大きく次の2つのタイプに分けられる。1つ目のタイプは、「なぜラスアス2は炎上したのか」について、下のような不快感やネガティブな感想を示すコメントを取り上げながら、このゲームの問題点や評価を考察するブログ。

itips.krsw.biz

 

2. 細部まで作り込まれた質の高さ

もうひとつは、作り込まれたゲームデザインやグラフィックのクオリティの高さなどを評価するタイプのもの。こうした記事からは、どちらかというと荒らしに近い低評価や酷評から、このゲームの価値を守ろうとする意図が窺える。

nix-51.hatenablog.com

www.famitsu.com

3. プラスに突き抜ける不快感

発売から1年半が経った今、こうしてわざわざブログを書くのだから、新しい論点を掘り出したい。そう考えながらツイートやブログを漁っていた私は、次のツイートにこのゲームの面白がり方のひとつの正解を見つけた気がした。

このツイートは「不快感を」「押し付ける」ゲームに感動し、愛情を示している。たしかに私もこのゲームをプレイしている間、不快な状態をキープすることの奇妙な快感を味わう瞬間があった(さすがに愛してるまでは言えないけれど)。

これっていったいどんな仕組み?!不快な快感みたいな逆説は面白がれるんじゃないか?

そんなわけで、ここからはこのゲームをプレイしていると感じられる「不思議な不快感」について考察していく。よかったら最後まで読んでいってほしい。

 

4. 戦闘シーンの爽快感

はっきり言って、残酷なこのゲームの戦闘をプレイするのは、かなりエキサイティングで楽しい。

プレイヤーは、ゲーム内でキャラクターを操作して、画面上に次々と現れる人間から逃げたり、またある時は正面突破したりして、残弾数や敵の数などの状況に応じて戦う。このとき、特に、銃弾や弓を敵の頭部に放ったり、ナイフや斧で切りつけたりすることでプレイヤーは爽快感を得る。生きるか死ぬかのスリリングな戦闘に、アドレナリンが出て心拍数が上がり、気づけば無我夢中でバトルすることに病みつきになってしまう。

 

www.youtube.com

↑見て感じる想像的な痛みと、実際に自分がキャラクターを操作することで感じる感触を伴う痛みは比べ物にならないほどリアリティが違う。

しかも、本作品は1周目をクリアすると、BATTLE MODE「戦闘モード」を選択することができる。このモードでは、ムービーシーンや物資探索を全て省き、戦闘だけを連続してプレイすることができる。心臓バクバク、コントローラーに手汗といったプレーをまるでスポーツのように、存分に楽しめることだろう。

5. 興奮を冷却する演出。にもかかわらず、やめられない「私」

だが、こうした爽快感を味わえるのは「戦闘」「戦闘モード」だけをぶっ通してプレイした場合に限る。バトル中はキャラクターの背中しか見えないし、そもそも敵がどんどん襲ってくるからキャラクターの表情や心理状態なんか気にしている余裕がない。

けれども、全編を通してプレイすれば、何度も挿入されるムービーで、キャラクターの苦痛を正面から直視することになり、さっきまで自分がコントローラーを握って操作していた殺戮は正しかったのだろうかと悩むことになる。ゲームなのに。

例えば、キャラクターは、宿敵への憎しみを無理に思い出して自分を奮い立たせたりする。周囲の人間に旅をやめるように懇願されたり、さらには敵自身に命乞いをされたりして、キャラクター本人が復讐の旅を続けることを迷う苦悩の表情を何度も見せられる。

 

コントローラーを握る私は、

左スティックでキャラクターの銃口を画面の中の人に合わせ、

R2ボタンを押して銃を放たせる。

画面上の敵は血を流して倒れる。

仲間の死を嘆く敵が、躍起になって襲ってくる。

コントローラーを握る私が

左スティックでキャラクターの銃口を画面の中の人に合わせ、

R2ボタンを押して銃を放たせる

なんで私はこんなゲームをしているんだろう?

そして、なぜやめられないんだろう?

 

Naughty Dogはこのようにゲーム内での「殺人」の扱いの軽さに対して度々強い批判に晒されてきた。そうした中でNaughty Dogがゲームにおける暴力から逃げず、「人に銃を向けて引き金を引くとはどういったことだろうか?」「人の肉体にナイフを挿し込むとどうなるのだろうか?」と自問し、正面からきちんと向き合い、考え抜いたすえに生み出されたのが本作『The Last of Us Part II』である。

ラスアス2日本語版の表現規制の何が問題なのか?──『The Last of Us Part II』の作り込みと暴力と表現規制の話 - 三日坊主予定地

6. もしもマリオがプレイヤーのモチベを下げたら

ちょっと馬鹿げているかもしれないが、マリオの痛みについて考えてみてほしい。

例えば、マリオカートでマリオを選択して遊ぶプレイヤーは、自分がコントローラーを握って、赤い帽子を被った年齢不詳のおじちゃんにカートを運転させている、などと思うことはほとんどないだろう。プレイ中は、私たちがマリオであり、私たちがカートを運転している、ふりをしている

このようなシンクロ状態で、後方から甲羅を投げつけられてカートが停車するとき、「痛っ」という声が思わず漏れてしまうのだ。

 

だが、もしもレースの直前に、マリオの朝の様子がムービーで流れたら?

 

緊張のあまり良く眠れずに朝を迎え、だるそうに目覚まし時計を止めるマリオ。重そうな身体を起こし、トイレへ行って歯を磨き、目玉焼きトーストをコーヒーで流し込むマリオ。着替えを済ませて自家用車でレース会場へ。

レース直前、カートからゆっくりと降りてカメラに近づくマリオ。彼はカメラ目線で優しくこちらに語りかける。

 

マリオ:どうかロケットスタートだけはやめてくれ。腰に響くんだ。ドリフトもできれば4回までにしてほしい。

 

こんなシーンがレース直前に挿入されたとすれば、プレイヤーがマリオの心身の状態を無視して、カートを操縦することが難しくなる。カートの座席に乗っているのは、マリオであり私ではないという当たり前の事実に気付いてしまう。こうなれば、甲羅がぶつかるのも、バナナの皮に滑るのも、爆弾が当たるのも、スターで爆走するのも、もう私ではない。マリオは一刻も早くレースを終えて、家に帰りたがっている。レースを楽しいものだと思っていない。こんな状況でプレーするマリオカートはきっと地獄だ。不快でしかない。

まとめ:これまで味わったことのない地獄体験

まさに、The Last of Us Part IIは地獄のゲームだ。マリオというやや人間離れしたキャラクターが痛みを主張し出したのを考えるだけで不快なのだから、ましてや写実的に、人間の俳優の演技をCG化(モーションキャプチャー)して作ったキャラクターが、プレイヤーのやる気(敵と闘うモチベ)を削ぐような振る舞いをしたら、それは当然不快極まりないだろう。

いったい今までそんなゲームがあっただろうか。

よくラスアス2をクリアしたプレイヤーはよく、キャラクター(エリー)に対して「もう復讐の旅はやめてくれ」「心折れる」「胸糞悪い」などの感想を漏らし、Naughty Dogというゲーム開発社の倫理観を疑うコメントをする。「なんでこんなゲーム作ったの?信じられない。」

No.

このゲームの本当の地獄とは、「胸糞悪い」と言いながら、コントローラーを握り、左スティックでキャラクターの銃口を画面の中の人に合わせ、R2ボタンを押して銃を放たせた「私」を直視する体験にある。最後までプレーした私たち自身の非人道性に気づくことに、このゲームの真の不快=快感がある。

 

この地獄を味わう覚悟のある者は、このゲームをプレイされたし。

 

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