The Last of Us Part IIがもたらす地獄の快楽
By リヴァ刺し
『The Last of Us Part II』(ラスアス2)はゲームであるにもかかわらず、「プレイヤーを楽しませること」を最優先とはしていない。むしろ、このゲームはプレイヤーに「不快感」を与えることを計算して作られている。「ゲームは楽しむものだ」という自明の前提を壊したこのゲームの新しさについて、発売から1年半が経ちほとぼりが冷めた今こそ語るべきなのかもしれない。
目次
- 1. 強烈な不快感
- 2. 細部まで作り込まれた質の高さ
- 3. プラスに突き抜ける不快感
- 4. 戦闘シーンの爽快感
- 5. 興奮を冷却する演出。にもかかわらず、やめられない「私」
- 6. もしもマリオがプレイヤーのモチベを下げたら
- まとめ:これまで味わったことのない地獄体験
1. 強烈な不快感
このゲームについてのレビューやブログはすでにたくさん書かれているが、大きく次の2つのタイプに分けられる。1つ目のタイプは、「なぜラスアス2は炎上したのか」について、下のような不快感やネガティブな感想を示すコメントを取り上げながら、このゲームの問題点や評価を考察するブログ。
ラスアス2クリアしたけど、マジ胸糞悪いわぁ。
— 𝙁𝙧𝙚𝙙𝙙𝙞𝙚 𝙩𝙖𝙠𝙖 (@taka050224) June 3, 2021
でもなぜ酷評なんだろう。最後マジでダークな気持ちになったな…久々ゲームに感情移入した。 pic.twitter.com/iS0QfLnktk
2. 細部まで作り込まれた質の高さ
もうひとつは、作り込まれたゲームデザインやグラフィックのクオリティの高さなどを評価するタイプのもの。こうした記事からは、どちらかというと荒らしに近い低評価や酷評から、このゲームの価値を守ろうとする意図が窺える。
3. プラスに突き抜ける不快感
発売から1年半が経った今、こうしてわざわざブログを書くのだから、新しい論点を掘り出したい。そう考えながらツイートやブログを漁っていた私は、次のツイートにこのゲームの面白がり方のひとつの正解を見つけた気がした。
ラスアス2クリアしました~!自分の生を肯定しようと藻掻く姿の凄み。命を奪う罪悪感と不快感をキレッキレのグロ描写で押し付けるノーティの覚悟。適当な言葉がないけど大好き、一周目より愛してる。 #PS4share pic.twitter.com/uSc3ozlYLl
— toku (@toku28sm) March 14, 2021
このツイートは「不快感を」「押し付ける」ゲームに感動し、愛情を示している。たしかに私もこのゲームをプレイしている間、不快な状態をキープすることの奇妙な快感を味わう瞬間があった(さすがに愛してるまでは言えないけれど)。
これっていったいどんな仕組み?!不快な快感みたいな逆説は面白がれるんじゃないか?
そんなわけで、ここからはこのゲームをプレイしていると感じられる「不思議な不快感」について考察していく。よかったら最後まで読んでいってほしい。
4. 戦闘シーンの爽快感
はっきり言って、残酷なこのゲームの戦闘をプレイするのは、かなりエキサイティングで楽しい。
プレイヤーは、ゲーム内でキャラクターを操作して、画面上に次々と現れる人間から逃げたり、またある時は正面突破したりして、残弾数や敵の数などの状況に応じて戦う。このとき、特に、銃弾や弓を敵の頭部に放ったり、ナイフや斧で切りつけたりすることでプレイヤーは爽快感を得る。生きるか死ぬかのスリリングな戦闘に、アドレナリンが出て心拍数が上がり、気づけば無我夢中でバトルすることに病みつきになってしまう。
↑見て感じる想像的な痛みと、実際に自分がキャラクターを操作することで感じる感触を伴う痛みは比べ物にならないほどリアリティが違う。
しかも、本作品は1周目をクリアすると、BATTLE MODE「戦闘モード」を選択することができる。このモードでは、ムービーシーンや物資探索を全て省き、戦闘だけを連続してプレイすることができる。心臓バクバク、コントローラーに手汗といったプレーをまるでスポーツのように、存分に楽しめることだろう。
5. 興奮を冷却する演出。にもかかわらず、やめられない「私」
だが、こうした爽快感を味わえるのは「戦闘」「戦闘モード」だけをぶっ通してプレイした場合に限る。バトル中はキャラクターの背中しか見えないし、そもそも敵がどんどん襲ってくるからキャラクターの表情や心理状態なんか気にしている余裕がない。
けれども、全編を通してプレイすれば、何度も挿入されるムービーで、キャラクターの苦痛を正面から直視することになり、さっきまで自分がコントローラーを握って操作していた殺戮は正しかったのだろうかと悩むことになる。ゲームなのに。
例えば、キャラクターは、宿敵への憎しみを無理に思い出して自分を奮い立たせたりする。周囲の人間に旅をやめるように懇願されたり、さらには敵自身に命乞いをされたりして、キャラクター本人が復讐の旅を続けることを迷う苦悩の表情を何度も見せられる。
コントローラーを握る私は、
R2ボタンを押して銃を放たせる。
画面上の敵は血を流して倒れる。
仲間の死を嘆く敵が、躍起になって襲ってくる。
コントローラーを握る私が、
R2ボタンを押して銃を放たせる。
なんで私はこんなゲームをしているんだろう?
そして、なぜやめられないんだろう?
Naughty Dogはこのようにゲーム内での「殺人」の扱いの軽さに対して度々強い批判に晒されてきた。そうした中でNaughty Dogがゲームにおける暴力から逃げず、「人に銃を向けて引き金を引くとはどういったことだろうか?」「人の肉体にナイフを挿し込むとどうなるのだろうか?」と自問し、正面からきちんと向き合い、考え抜いたすえに生み出されたのが本作『The Last of Us Part II』である。
ラスアス2日本語版の表現規制の何が問題なのか?──『The Last of Us Part II』の作り込みと暴力と表現規制の話 - 三日坊主予定地
6. もしもマリオがプレイヤーのモチベを下げたら
ちょっと馬鹿げているかもしれないが、マリオの痛みについて考えてみてほしい。
例えば、マリオカートでマリオを選択して遊ぶプレイヤーは、自分がコントローラーを握って、赤い帽子を被った年齢不詳のおじちゃんにカートを運転させている、などと思うことはほとんどないだろう。プレイ中は、私たちがマリオであり、私たちがカートを運転している、ふりをしている。
このようなシンクロ状態で、後方から甲羅を投げつけられてカートが停車するとき、「痛っ」という声が思わず漏れてしまうのだ。
人類のおよそ8割がマリオカートのカートと痛覚が繋がっていると言いますしね!
— 🧬宮下まぬちゃん🔞 (@myst_sinja) 2014年1月1日
だが、もしもレースの直前に、マリオの朝の様子がムービーで流れたら?
緊張のあまり良く眠れずに朝を迎え、だるそうに目覚まし時計を止めるマリオ。重そうな身体を起こし、トイレへ行って歯を磨き、目玉焼きトーストをコーヒーで流し込むマリオ。着替えを済ませて自家用車でレース会場へ。
レース直前、カートからゆっくりと降りてカメラに近づくマリオ。彼はカメラ目線で優しくこちらに語りかける。
マリオ:どうかロケットスタートだけはやめてくれ。腰に響くんだ。ドリフトもできれば4回までにしてほしい。
こんなシーンがレース直前に挿入されたとすれば、プレイヤーがマリオの心身の状態を無視して、カートを操縦することが難しくなる。カートの座席に乗っているのは、マリオであり私ではないという当たり前の事実に気付いてしまう。こうなれば、甲羅がぶつかるのも、バナナの皮に滑るのも、爆弾が当たるのも、スターで爆走するのも、もう私ではない。マリオは一刻も早くレースを終えて、家に帰りたがっている。レースを楽しいものだと思っていない。こんな状況でプレーするマリオカートはきっと地獄だ。不快でしかない。
まとめ:これまで味わったことのない地獄体験
まさに、The Last of Us Part IIは地獄のゲームだ。マリオというやや人間離れしたキャラクターが痛みを主張し出したのを考えるだけで不快なのだから、ましてや写実的に、人間の俳優の演技をCG化(モーションキャプチャー)して作ったキャラクターが、プレイヤーのやる気(敵と闘うモチベ)を削ぐような振る舞いをしたら、それは当然不快極まりないだろう。
いったい今までそんなゲームがあっただろうか。
よくラスアス2をクリアしたプレイヤーはよく、キャラクター(エリー)に対して「もう復讐の旅はやめてくれ」「心折れる」「胸糞悪い」などの感想を漏らし、Naughty Dogというゲーム開発社の倫理観を疑うコメントをする。「なんでこんなゲーム作ったの?信じられない。」
No.
このゲームの本当の地獄とは、「胸糞悪い」と言いながら、コントローラーを握り、左スティックでキャラクターの銃口を画面の中の人に合わせ、R2ボタンを押して銃を放たせた「私」を直視する体験にある。最後までプレーした私たち自身の非人道性に気づくことに、このゲームの真の不快=快感がある。
この地獄を味わう覚悟のある者は、このゲームをプレイされたし。