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【考察】エロス・イン・BLEACH!――涅マユリ「被造死神計画」大考察 (後編)「科学者はアンドロイドの夢を見るか」?――涅マユリ&ネムの巻頭詩の謎を解く

f:id:minnano_bento:20210927021113p:plain執筆者:ぴんくぱんだちゃん

 

(後編)「科学者はアンドロイドの夢を見るか」?――涅マユリ&ネムの巻頭詩の謎を解く

 前編はこちら

minnano-bento.hatenablog.com

科学者涅マユリの野望――「科学者はアンドロイドの夢を見るか」?

涅マユリは、典型的なマッドサイエンティストとしてキャラクター造形がなされている。石田雨竜との戦闘シーンでは、雨竜の祖父をクインシー殲滅のため実験と称した拷問にかけていたことが明かされる。さらに、副隊長の涅ネムを盾に攻撃する戦法は、雨竜を驚かせ、敵ながらも雨竜はその残酷なやりかたを咎めるほどである。ネムをなぜそのように扱うのか雨竜に問われたマユリはこう返す――「涅ネム 私の義骸技術と義魂技術の粋を結集させて作り上げた――私の娘だヨ」。マユリの「娘」だというネムはマユリの「被造死神」(≒アンドロイド)なのである。ネムが後から説明することには、彼女はマユリの血から作られているという。彼女の誕生日(3月30日)・好きな食べ物(サンマ)・嫌いな食べ物(ネギ)すべてがマユリと同じ仕様に設定されていることから、マユリは単に「被造死神」(≒アンドロイド)を作りたいのではなく、自身と性質を共有する「被造死神」(≒アンドロイド)の製造を目論んでいることがわかる。つまり、異性愛結合(性器接触による卵子精子の受精)ではない形で、彼の遺伝子をもつ生命体を創造することが目的なのである。このような同質性の強調はおそらく、人工的な血縁ではあるが「遺伝」を再現しようとしたとみてよいだろう。ネムという二文字をくっつければ「私」という漢字になるのも、当然意図的なものだろう。

 

マユリの究極の目標である被造死神計画の全貌が明かされるのは作品もかなり終わりに近づいた70-71巻だ(本作品は74巻で完結)。マユリによれば、「全死神の夢」である「被造死神計画」は、「起きたまま見る夢など馬鹿げている」という理由で「眠(ねむり)計画」と名付けられた。ネムは、その被験体第7号にして、初の「被造魂魄細胞の寿命」を超えて成長した生命体である。

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©久保帯人 集英社BLEACH』70巻, 178-179ページ

ネムが初めて目覚めたとき、マユリに「眠七號」と呼ばれたのを懐かしむ彼女は、なぜマユリが自分を「ネム」と呼ぶようになったのか阿近に尋ねたのが、上記の引用部である。マユリの「夢」である被造死神計画の成功を体現する眠七號は、まさにマユリの夢の成就そのものであるから、マユリはそれを悟られるのが「恥ずかしい」のだろうと阿近は答えるのである。

 

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©久保帯人 集英社BLEACH』70巻, 180-181ページ

なんともエモい話である。ちなみに筆者はこの数ページがBLEACH全74巻の中で一番好きだし、これまで触れてきたあらゆるフィクションの中でも指折りの「愛」の描写だと思っている。

 

被造死神(≒アンドロイド)計画が意味するもの

では、そもそもマユリは何故それほどまでに被造死神(≒アンドロイド)製造に取りつかれているのだろうか。その問いの答えは、マユリがネムを「私の娘」として常に認識している点に集約されるだろう。つまり、マユリの計画とは単に戦闘用や産業用の被造死神(≒アンドロイド)を作ることではなく、彼の「娘」を作っていることが重要なのではないだろうか。

 

少し話は逸れるが、アンドロイド創造は永らくSFの最重要テーマの一つである。というのも、人間は「創造主」になりえるのか、という問いは「神の領域」に侵攻という宗教的・倫理的忌避感を喚起するため、アンドロイド技術は人間の科学へのエゴの極致として否定的に描かれることが多い。しかし、アンドロイド――人造人間――の誕生はジェンダーセクシュアリティ研究やクィアスタディーズの観点からみると、少し異なる側面を見せる。

 

ジェンダーセクシュアリティ研究/クィアスタディーズとは主に、異性愛という性的指向を「ノーマル」(正常)と定め、異性愛者男女による結婚と、彼らの一対のヴァギナとペニスを用いた生殖(=「異性愛規範(ヘテロノーマティヴィティ)」が特権化されている構造を暴き、その規範の排他性を問うことで、そこから排斥されるものを掬い取ろうとする学問である。要するに、クィアスタディーズとは、異性愛男女カップルにのみ結婚・生殖が許され、様々な司法制度で保護されているこの社会の前提に疑問を突き付け、どのような個人が排斥されているかを探求する学問領域のことだ。

 

異性愛規範的な観点からみると、アンドロイドの誕生が、いかに危険思想であるかは明明白白である。これまで、結婚・再生産は、生殖能力のあるモノガミー異性愛者にのみ特権化することでこの制度は成立してきたわけだが、一対のペニスとヴァギナを使用する以外の生殖・再生産を行えるということになっては、この制度を根底から揺るがすことになってしまう。性別、性的指向、そして生殖能力を問わず、誰でも、誰とでも、一人でも、生殖可能になるからである。したがって、アンドロイド製造が忌避される根本的な理由とは、生殖を特権化すべく「神の領域」としてきた虚構性が明らかになるからなのである。つまりアンドロイド製造とは、翻って、既存の異性愛生殖へのアンチテーゼであり、モノガミー異性愛性器中心主義の性愛の根本を揺るがしうるものだ。このように、アンドロイドの創造とは、ある種の人々には「タブー」でありながらも、現状の異性愛規範を打破する可能性を秘めた大きな原動力なのである。

 

巻頭の詩の謎

BLEACHに話を戻すが、人間とほぼ同じ見た目をもつ「死神」が暮らすソウル・ソサイエティには、人間界と同様の結婚・家族制度があり、孤児であることがコンプレックスとなっていたり家柄などの血統を重んじたりしていることから、この世界も我々の異性愛規範を共有しているとみて問題ないだろう。だからマユリの被造死神計画は、人間界におけるアンドロイドと同様のインパクトをもつはずである。

 

BLEACHの死神たちは、ジェンダー規範も人間界とほぼ同じ、もしくは、今日の読者には我々の現実界よりも保守的にすら見えるかもしれない。男性死神たちは「男らしく」(十一番隊の規範意識が好例である)、女性死神たちは、「BLEACHには巨乳か貧乳かしかいない」とよく言われるように、キャラクターデザインは豊かではあるが、何らかのフェティシズムに刺さるという意味で「女の子」としての様々な魅力が記号のように各キャラクターに付与されている。

 

そんな中でマユリは際立った存在である。隊長格の男性死神の多くは、身体が大きかったり「イケメン」であったりするなかで、マユリの外見は、改造と化粧と装飾品のおかげで、「男らしさ」からはかけ離れている。そもそもこの科学者に「マユリ」というジェンダーの曖昧な名前与えられ、「~だヨ」「~だネ」という語尾を用いて話すことは、彼がソウル・ソサイエティのジェンダーセクシュアリティ規範に抗う者として造形されているといっても過言ではない。マユリの被造死神計画が、生/性の規範性に抗うものであると仮定すると、異性愛ロマンスが蔓延り、ジェンダーコードに忠実な見た目をした男女の死神たちの中で、自身の身体に改造を重ねているのは、生まれもった(定められた)身体(性別)と、それにより自ずと付与される社会的な性役割ジェンダー)への抵抗ととれるはずである。

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©久保帯人 集英社BLEACH』35巻 表紙・扉

ところで、BLEACHのコミックスの表紙には、一冊に一人ずつキャラクターが描かれ、扉にはその表紙のキャラクターが語り手とされる詩のようなものが書かれている。例えば、マユリが表紙になっている35巻の扉には「産まれ堕ちれば、死んだも同然」という、BLEACH史上屈指の短さの詩が書かれている。まず、やはりマユリには「産む/産まれる」という問題が深く関わっていることがここでも証明されている。しかしこれだけを読むと、「マユリ様らしい!アバンギャルド…!」くらいにしか思わない。ところが、ネムが表紙となる71巻の詩には、いささか不可解な点があり、もちろんこの二人の詩は何らかの形で関連すると考えるべきだろう。

 

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©久保帯人, 集英社, 『BLEACH』71巻 表紙・扉

マユリの「娘」であることが繰り返し強調されているはずのネムが語り手となる詩において「吾子の手かわいや さまよう手」と、なぜか「親」目線の歌が書かれているのであるコミックスのタイトルも、“BABY, HOLD YOUR HAND”と題され、親から子への呼びかけとなっているのである。つまり、どちらかといえばこの詩は、「親」であるはずのマユリからネムに向けて詠まれた詩として読む方が容易く理解できるのである。しかし、この巻のみ「表紙=語り手」というルールが破られているとは考えづらいので、あくまでもネムの語りとして読むと、そこからは二通りの仮の解釈が導き出せる。

 

1)ネムの聞いたマユリの声説

71巻の戦闘シーンにおいて、ネムはマユリに初めて名前を呼ばれたと記憶する日のことを思い出す(おそらくネムが初めて目を開けた日)。このような回想と現実の混在を考慮すると、この詩も、ネムがマユリの歌っているところを聞いたものとして解釈できるかもしれない。しかし、詩の上にある、手のカットは、表紙と見比べると成長したネムの手であることがわかるので、時系列的には、この詩はネムが成長してから発していると見た方が妥当だろう。

 

2)ネムがマユリに向けて詠んでいる説

では、ネムがマユリに向けて詠っている詩だとすると、なぜネムのほうが「母のように」読んでいるのだろうか。70巻から71巻にかけては、マユリがペルニダというクインシー相手に苦戦し、ネムの捨て身の防御によってマユリは辛勝するものの、ネムは粉々にされてしまう。この戦いの間、ネムはマユリを守ることを「使命」と考え、マユリの命令に反して彼を庇おうとする。マユリは、マユリはネムの肉片から、彼女の大脳をなんとか持ち去り、この大戦後「眠八號」の製造に成功している。眠八號は、性格こそネムとは全く異なるように特徴づけられているが、見た目は七號の幼少期と瓜二つである。つまり、マユリから「生まれた」ネムは、大脳という彼女の一部を再び移植することで再び「生まれる」と同時に、新たな生命体を「生む」主体の一部となりうるのである

 

七號は、マユリの技術によってゼロから作られた生命であったことは確かだが、八號に関しては、マユリの遺伝子(厳密には血液その他細胞等)とネムの大脳の掛け合わせによって生まれた生命体である。八號の製造において、マユリは全てを予期できていなかったようである。八號はネムと対照的に、活発な性格をしており、終戦後の一コマで返事が元気すぎる八號に「全く…お前は…どうしてこうなってしまったのかネ」と言っている(74巻 196ページ)。八號の誕生が単にマユリとネムの情緒的な結合の体現とかではなく、重要な意味を持つのは、マユリの単一生殖が二世代以上に渡って成功したことを意味するからである。もちろん、七號もマユリの被造物なので、二世代に渡る生殖ではなく、マユリが2体の被造死神製造に成功しただけかのようにも見える。しかし、ネムはペルニダ戦でマユリが最早予測不可能だった知力と情操の「進化」を果たしたがために、マユリを庇い死んでいった。つまりネムは、マユリによる被造死神は創造主の設計を超えた「魂魄」(生命体)となりえたので、マユリの設計の範疇を超えた影響を「生まれる」対象に及ぼすことのできる「生む」主体たりえるだろう。マユリに生ま「れた」ネムが大脳の形で生き残ることで、再びマユリの遺伝子を持った八號を、こんどは「生む」ことになり、このときマユリの遺伝子も、再び生ま「れる」のである。マユリは「生み」、そして「生まれる」という、ネムとの間で親子の関係が転倒し始める。

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©久保帯人 集英社BLEACH』71巻, 31-32ページ

上のコマは戦いで負傷したマユリが治癒カプセルの中でみる「夢」だが、ここで最後2コマに注目してほしい。「夢」の中にいるマユリが目を開ければ、ネムの手をつかめるだろう。だから、Hold your handはネムからマユリへの呼びかけへとここで転倒の意味が明らかになる。さらに最後のコマでは、治癒液体の中にいるマユリも(裸のネムと同様に)羊水の中の胎児のイメージが重ねられているだろう。ネムとマユリ、両者の腹から出ている泡のようなものを、途切れたへその緒として読むことも可能である

 

「生まれ堕ちれば、死んだも同然」という、何らかの絶望感を表明していたマユリの詩は、何に絶望していたのかといえば、生ま「れる」ことで与えられた身体や、付与されるジェンダーなどの、その受動性なのではないだろうか。すべての生命体は生ま「れる」以上、身体は所与のものであり、身体を自由意志で「変える」ことには倫理的な批判が付き纏う(美容整形やタトゥーの是非に関する議論を思い出せばよい)。さらに生まれ持った身体的特徴から、ジェンダーも付与されるわけで、その改変を試みればさらに激しい嫌悪の目を向けられるのが現代の我々が生きる世界である。「自然の摂理」とかいう言葉で、所与の身体、そこから社会的に与えられた性別を意思によって変えることは、常にタブー視されるのである。

 

自身の身体も改造するほどに、自然の摂理を超えてあらゆるものを制御したいと考えるマユリにとって、唯一制御不可能だったのが、再生産なのではないか。本記事は、マユリはトランスジェンダーだ!とか、言いたいのではない。ジェンダーや生殖の問題に、科学技術によって抗うマユリの存在や行動そのものが、その規範性を覆す可能性を胚胎する概念として機能する。マユリは被造死神製造を成功させることで、「神の領域」となぜか神聖視される生殖を、自身の手中においた。そして、自身が「生んだ」生命体に、再び「生まれる」ことで、生み・生まれることまでもコントロール可能にしたのである。さらに生み・生まれる主客をも攪乱するマユリとネムの関係が、「親子」でありながらも常にエロティックであり、しかしそれを近親姦的といえるかといえば、彼らは血が繋がっていないので、「近親姦」があてはまるとは断言できない・・・。“Baby, Hold your hand.”という呼びかけが、親子間はもちろん、恋人どうしにも交わされる呼びかけにも使われることを思い出せば、彼らの関係の倒錯をよく表している。あらゆる規範によってがんじがらめに社会化された関係性は、ひとたびタブーを取っ払うと、どんどん関係性は増殖していくはずである。その無秩序なまでの増殖と、無限の繋がりの可能性に、嫌悪感を抱くのか、豊かさを見出すのかは個人の感覚によるし、一概にその無秩序さが是とは言えない。しかし、そうした可能性に思いを馳せる作業は、いまここにある強固な規範の存在を相対化することなのである。

 

マユリとネムの関係性に表出するあらゆる関係性の転倒による混沌が伝えるのは、逆説的に、極度に制度化された生殖や家族というシステムである。なぜか一対の異性愛者同士による性器結合によってしか生殖は許されず、その秩序を保つために近親の血縁内での生殖を禁じられ、現代社会ではそれが「自然」かのように認識されているが、マユリのように非異性愛生殖に成功する者が現れると、「神の領域」とされ不可侵だった「自然」が制度に過ぎないことが判明する。マユリは死神だが、私たち人間も、マユリのように「夢」を見ることはできる日は、はたして訪れるのだろうか。マユリの答えは、もちろん、「百年後まで、御機嫌よう」。